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なぜ友達を100人作らなくてはいけないのか

私には友達がいない。

いや、いい過ぎた。まったくいないこともないが、極端に少ない。

何しろ子供の頃から何かに熱中すると、他のことに煩わされるのが一切面倒になってしまうタイプなので、本に熱中すると本を、パソコンに熱中するとパソコンを、ゲームに熱中するとゲームを、ただそれだけをひたすらやってしまう。
なので、熱中している間は友達が遊びに来ても居留守を使い、電話がかかってきても電話に出ず、メールの返信もしない。

子供の頃はそんな私を心配したのか、親やら先生やらが友達を紹介してきて、その友達と遊ぶために強制的に家を追い出されたこともあった。
「友達100人出来るかな」っていう歌もあるでしょ。友達つくらないとだめだよ、と母親から言われる度に、どうして100人も友達が必要なのかとせせら笑っていたものだが。
そんな性格なので友達など増えるはずもなく、しかし、常に何かに熱中しているので特に不都合もなく、孤独も感じなかった。

最近ではお一人様ブームもあり、「友達はいらない」という意見まで出てくるようになり、昔に比べると大分居心地のいい世の中になってきた。

実際、友達が多い故のデメリットはかなりある。
付き合いに縛られて自分の時間が持てない、交際費もかかるというのが最大のデメリットだろう。
それでもオフラインの友達ならまだいい。フェイスブックで「いいね」しあうだけの友達など友達ではない。一日中フェイスブックを見ながら、会ったったこともない友達に「いいね」やコメントをつける生活などまっぴらである。

オンライン・オフラインに関わらずどうも最近は、単なる「知り合い」や「同僚」「クラスメイト」「○○君のお母さん」にしか過ぎない者を「友達」だと言い張る者が多過ぎるような気がする。
単なる「知り合い」を「友達」だと誤解しているから、自分の時間を奪われたり交際費がかさんだりするのだ。

「単なる知り合い」であれば、何かに熱中している時間を邪魔されることはないだろう、忙しければ誘いを断るだけの話である。あんまりバッサリやると嫌われるので、相手によってはそこそこの調整が必要だが。
「友達」ならば、熱中している事柄について、むしろ語ってみたいと思うだろう。時間の無駄ではなくてむしろ有意義な時間だ。お金もかからない。ファミレスでお代わり自由のコーヒーを飲みながら、何時間でも楽しそうに語り合っている者たちもたくさんいる。

表面的な付き合いの友達など、何の役にも立たない。困ったときに相談できるわけでもなく力を貸してくれるわけでもない。
本当に困ったときに駆けつけてくれる友達は貴重で、そんな人は人生で数人見つかれば御の字だ。

要は「親友」あるいは「親友になり得る友達」と、「単なる知り合い」または「そこそこ付き合っていかないと面倒な相手」というものの区切りをきちんと付けずに、皆まとめて「友達」付き合いをしようとするからおかしなことになる。

というわけで、友達の多寡など全く気にもせず生きてきたが、が、しかし、最近は100人とは言わないが、やっぱりある程度の人数の友達は必要だと思うようになってきた。
年のせいである。

まず第一に、どんなに仲の良かった友達でも、結構して子供が生まれればどうしても疎遠になってくる。
友達ならば「夫や子供を放り出してまで付き合え」などと言うべきではない。「そのうちお互いしがらみが無くなったらゆっくり話でもしようや」とでも言うべきである。

また、人は死ぬ。
友達に先立たれるのは実に痛手だ。殊に数少ない親友であれば相当な打撃で、おかげでめっきり出かける回数も減ってしまった。

もともと手持ちの友達が少ないのに、年を取ればますます交友関係が狭くなる。職場の同僚が「同僚」の域を出ることがないような相手ばかりだと、まず友達が増えることは難しいだろう。

しかしこれは想定内だ。
もともと友達が少ないのであるから、年を取って人生のイベントをいくつもこなすうちに、その人数が減ってしまうのは当然である。

しかし、最近もしかして、友達が少ないとまずいんじゃないか?と思うようになってきた。

つまり世界が狭くなる問題である。

人間はその発達過程で、少しずつ世界を広くして成長していく。
最初は限られた狭い視野の中しか認識出来ないが、成長と伴に、次第に視野が広がり、様々なものを認識することが出来るようになっていく。

幼児期、世界は小さい。自分自身と両親・兄弟くらいしか世界には住んでいない。だから世界の中心は自分であって、親や兄弟が言うことをきかないと言うことをきかせようと思って泣き叫ぶ。

児童期、世界にもう少し人間がいるということを知る。近隣や学校に自分と同じ子供がいて、その子供も自分と同じくらい世界の中心が自分だと思っていることを知る。世の中がままならないものだということを知る。

思春期、世界が一挙に倍に広がる。世の中には男と女という全く別種の人間がいることを知る。近隣から外に出るようになって爆発的に世界が広がる。もはや自分は世界の中心でも何でもなく、むしろ世界の中心になりたかっただけの、小さな蟻だったということに気付く。

青年期、大人社会と交わるようになって、世界がさらに広がる。違う人種・違う年代の人たちと交わり、様々な価値観を学ぶ。しかしやがて世界は安定して、自分は小さな蟻ではなくて社会の構成員の一人であるというところで落ち着く。

このように、幼年期から青年期にかけて、爆発的に広がった世界だが、実はこのあとだんだん狭くなっていく。

物理学の世界ではビッグバン後の宇宙についての論争は絶えないが、人間の認識の世界ではビッグバンの後はビッグクランチとして終わるようだ。

社会人として働き始めて、家庭を持ち、安定した生活を送っていると世界はどんどん狭くなる。家と会社の往復しかしなくなれば、世界は家と会社だけになる。

狭い世界の中では相対的に自分の価値は大きくなり、世界の中心が自分であると思い始める。
より広い世界に住んでいれば、自分は何百人か、何千人かの内の一人で、自分の意見を分かってもらうためには、それなりの努力と工夫が必要だということがよく理解できる。
狭い世界に住んでいると、自分は何十人か、ことによると何人かの内の一人なので、自分の意見など分かってもらって当然だと思い込む。

因みにどんなに世界が広がっても自分の価値を60億人分の1にまですることは出来ないだろう。そこまで価値が無くなれば、もう自分に存在価値を見つけることは難しいだろうから。

世界がインターネットでつながって、世界中の情報が知れるといっても、単に情報として頭に入ってくるだけでは意味がない。
肌感覚の問題なのだ。

そこで「友達」だ。

自分の世界がビッグクランチで終わろうとも、「友達」にはその「友達」が持っている世界がある。「友達」の持っている世界と自分の持っている世界とでは厳密には交わることはないだろうが、それでももう一つの世界を伺い知れる「窓口」にはなる。

友達が100人もいれば、100もの世界を垣間見ることが出来るかもしれない。
単なる「知り合い」なら、インターネットの情報と何ら変わることはないだろうが、「友達」なら、その「友達」から世界を垣間見ることが出来るだろう。
自分の世界が狭くても、いくつも世界があるということを知ることができる。

もちろん、自分が活動の場を広げてより大きな世界へ踏み出して、自分の住む世界をもっと広くすることが出来ればそれが一番いいのだろうが、そうおいそれと踏み出せない事情もあるだろう。

いずれにしても自分の認識の世界で自分があまり大きくなり過ぎてしまうと問題だ。様々な弊害を生む。
自分が世界の中心であっても許されるのは子供だけなのだから。

友達100人・・・はとても作ろうとは思わないが、それでも、自分の世界が狭くなるにつれて、やはり友達は必要だったのではないだろうか、とも思うのだ。

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