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アヒルの絵葉書

ドアを開け、今日の郵便物を無造作に玄関台の上に拡げる。ふと、その中の一枚の絵葉書が目に止まり手にとった。触れた指先が、末端からゆっくりゆっくり体温を失っていく。
結婚を知らせる一文。最後に添えられたことば。差出人は私のかつての親友。その絵葉書は、同じ姓を名乗るようになった私達の家に届いたが、私宛てではなかった。

視界が揺れ、そのままぺたん、と床に座った。プリント面に返してみれば、黄色いアヒルの写真だ。アメリカ雑貨の店に並ぶような、安っぽくてかわいい、黄色のゴムで出来たアヒル。子供が喜ぶような表情なのにそのアヒルは笑っているようには見えなかった。どこかで止まった時を抱えて、横を向いている。

下腹部からじゅわっと、痛みなのか熱なのか分からない感覚を伴って、血液がすごい勢いで上がってくる。その血液の一部は渦を巻いて両腕 、両手に届き、指先の冷たさをそのまま心臓に持ち帰る。また一部は渦をさらに加速させながら頭部まで痺れを蔓延させる。

吐くものがあるなら、吐けるものがあるならどんなに楽だろう。濁流の血液が全身の感覚を奪う。言葉にしようがないどろりとしたなにかが其処此処の皮膚から滲んだ。

ずっと知っていた。「真剣に付き合ってる」と最初に打ち明けたときの彼女の一瞬の無言も、その後の小さな秘密になり得なかった秘密たちも 二人が帰って来なかった日をも越えて、彼女の気持ちは嫌と言うほど理解した。
彼とは何度もケンカをした。全部理由は彼女だった。何度も信じろと言われたけれど私が本当に怒っていたのは彼女にだった。友達という信頼を何度でも無言で引き裂く彼女にだった。

同じ人を愛しただけだ。
順番などではないことは分かっている。でも私が彼に選ばせた訳じゃ無い。現に私達は別れた。ただ、それでも彼は私を選んだ。私も悩んだ末に自分の心に従った。それだけだ。

絵葉書をまた裏返す。よく見知った筆跡の文字に、彼女が真っ先に葉書を見るのは私だろうということを理解していたことを感じた。でもそれは、親友だった私への尊敬の念でも気を使ったものでもなかった。むしろ、私は実体を持たない幽霊のように扱われている。「忘れない。」その一言を最後に記す彼女の気持ちが全く理解出来ない。

さっき手から滑り落ちた家の鍵を、のろのろと床から拾い上げた。ハガキを床に置いて、その鍵の先を強く押し当てる。厚みを持った紙が激しく抵抗する。そしてぎっ、と嫌な音を立て、床を引っ掻く鍵の動きに合わせそれは破けた。黄色いアヒルの顔は歪む。

破いた紙片を左手で握りつぶし、私はゆっくり立ち上がった。鍵を他の郵便物のとなりに置き、床に残った醜い白っぽい傷をスリッパの先でこする。消えようのない傷に小さくため息をつき、そのままキッチンのシンクへ向かった。

握りつぶした紙にガスコンロで火を点けた。紙に移った火ははじめ、じじじ、と音を立てたがすぐ小さくなる。加工のせいだろうか。慌てて火のついた角を下にしたら ぼっ、と火が大きくなった。印刷の上に施されたコーティングが燃えるのか、すこし嫌な臭いの薄黒い煙をあげながら、くしゃくしゃにされた紙切れはゆっくり燃えた。

火傷しない程度の所でその絵葉書だった紙くずをシンクに落とす。シンクに残っていた水分で火はじゅっと音を立て消えた。灰の上に残った変な形の燃えさしを 親指と人差し指の爪でつまみゴミ箱にいれ、そのまま、私はシンクを念入りに掃除し始めた。



彼女は私にそうして欲しかったのではないか。


たわしでこすりながらふと、そんなことを考えた。宛名のひとには届かないことを、私が葉書を引き裂くなり燃やすなりして、彼女を呪う事を望んだのではないか。だとしたら、あの「忘れない。」は、彼女から私への最後の「ごめんね」だったのではないか。

でも次の瞬間にあの文字が蘇り、私の中の激流が戻る。
もう灰どころか普段の汚れさえもないシンクを、私はだまって磨き続けた。


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すみません、こちらのコンテストに出し直します。数ヶ月書き方を考えていてまとまりそうになく、他のものを出していましたが、やっと書きたいものに近付いたのが出来たので。かなり何度も推敲したのでこれで、とは思いますが、こういうのって一晩、二晩寝ると 突然夢で「もっといい書き方」が降りてきて飛び起きたりするパターン?苦笑

サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。