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言葉の妖精たちの森から 手紙が届いた。

noteという場所で周りの人と交流を始めたとき、第2回の教養のエチュード賞の発表、というのを見かけた。多分それが初めて「嶋津亮太」というひとの文章を見た最初だったと思う。

言葉の妖精が沢山住む森の 賢者みたいなひとだな、と思った。王族にはならないのだ、決して。というより、そういうヒエラルキーはその森には不要、と心の底から信じているひとだ。

その時の応募作品全てに目を通し、全てに帯をつけて紹介されていた。その姿は私の興味をもの凄く惹いた。目立つから、ではない。フラットであり物事に偏りのあるジャッジはせず(というより彼の世界にジャッジという言葉が存在しない)、全てに対して真摯さが滲む、それは私が人間として一番信頼する人達の共通項だったから。

世の中が美しい表現や深みのある比喩を避ける傾向にある、あるいは「格好悪い」「気持ち悪い」などと嘲笑する傾向のある昨今、見事に文章の中で美しい音楽を奏で一人で、時に仲間と優雅に踊るイメージの貴公子は、ただシャイで謙虚な、けれど世界を真っ直ぐ愛するアーティストだった。その繊細な世界を、家族や沢山のご友人、沢山の書物が守っている、そういう方だった。

何度かオンラインでお会いする機会を頂いて(というか私が一方的に参加していた)、その人の人間性というものにほぼ全幅の信頼を置いた頃に あの「教養のエチュード」の第3回が開かれる、という告知が目に入る。

参加したい、は、賞が欲しい、ではなかった。
この人になら 独りよがりだけれど私を形作ったものたちで言葉を綴って届けたい。

寝坊した朝、お知らせが届いた。

言葉を操る妖精たちの森の一角からの、きちんと封をされた手紙である。もちろんインターネットの世界経由なのでその溢れたことばたちはひらひらと、手紙からこぼれ落ちて沢山の方も見ている。

でも指先で封を開けると沢山のものがあふれ出てきた。封筒に入りきらない音楽と色彩と香りと、いろんなものをぎゅぎゅっと詰めた言葉として。

過剰な崇拝やへりくだりは好みません。横並びに、敬意を持って、接したいと考えます。本来、「尊重する」ということはそういう意味だと思うからです。

嶋津さんの〈「じぶん」について〉というエッセイの一節そのままに、言葉が生き生きと踊り出す手紙。私の宝物になった。

もし「敷居」というものを感じていらっしゃる方がいたら・・・こんなに敷居だとか線を引くという言葉と無縁なひとはいないから、ぜひご自分の言葉を携えて1歩近付いてみて欲しい。第3回のエチュード賞はあと10日もある。

無謀にも(失礼)この信頼という薄衣しか纏わない嶋津さんに 出来上がりや賞を狙う、ということではなく、ご自分の言葉を届けてほしい。多分、そういう正直なことばたちこそ 嶋津さんが待っているものだと思うから。


最後になりましたが嶋津さん、本当にありがとうございました。

サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。