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つまらない話

前回の文章は、意に反しておかしな場所に着地してしまった。まるで、ただ「とんかつ」が食べたいだけな人みたいであった。

そこで今回は、川島雄三監督の『とんかつ大将』の話も、かつての職場で、仕事をしないわりにたくさんお給料をもらっていた「統括課長」のことを陰で「トンカツ課長」などと呼んでいた話も封印して、とにかくなにかべつの話題からはじめよう。だいたい、とんかつが食べたいひとの話を読むために、どこの誰が貴重な時間を割こうなどと思うものか。

「それでも、つまらない話をしているときに、『つまらない』と反応があるのは素晴らしいことだ。その話をやめることができるからだ(深く傷つくけど)」(東畑開人『心はどこへ消えた』)

これは、先日手に取った本の中で特に印象に残った一節。

そうだ、そうそう、そうなのだ。恐ろしいのは「はぁ?とんかつ?意味わからないんですけど」などと蔑まれることではなく(深く傷つくけど)、ただただ反応がないことだ。反応があるかぎりコミュニケーションのスイッチは完全には切られていない。まだ、そこには一縷の望みがある。

しかし、反応がなくなったが最期、もはや相手は完全にコミュニケーションの回路を断ってしまったのだ。反応が薄いからといって、さらに『とんかつDJあげ太郎』のネタで追い討ちをかけようとしていた自分の未熟さを猛省。

フィンランド流のおもてなしと「調律」

先だってのこと、東北工業大学北欧デザイン研究所のオンラインイベントで森下圭子さんの話を聞いた(仕事がありリアタイで視聴できなかったためアーカイヴで)。そこで、圭子さんはこんなことを言っていた。

フィンランドには、ホストがゲストを立てることで成立するような日本流「おもてなし」が存在しないかわり、ホストみずから率先して楽しむことでゲストをリラックスさせる異なるタイプの「おもてなし」が存在するのではないか、と。一歩下がって相手に接することを「おもてなし」だと理解していた自分にとって、この発想はまさに目からウロコであった。

おもてなしを、同じひとつの場を共有するための空気づくり、いわば「調律」であるとするならば、その方法にもまたいろいろあっていい。ちなみに、「一緒」を表す「Yhdessä」という単語はフィンランド人が好むことばのひとつだそうだ。

他人を楽しませるために、まず率先して自分が楽しむ。それは、さあ、一緒に楽しみましょうというメッセージとして相手に伝わる。気がつけば、ついつい空気ばかり読んでいる自分に嫌気がさす。もっと熱く、より暑苦しく「とんかつ」について語るべきなのではないか。

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