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僕は声が小さい。

僕は声が小さい。なので、よく知っている。この世界では、社内会議でも、あるいは他愛のない口喧嘩や定食屋の注文でも、声が大きい者の主張ほど通りやすいということを。

この場合、その主張が正しいかどうかはさして重要ではない。その声が「届く」かどうか、それが肝心だ。

だいたい、届かない声は何も動かさない。動かさない声は目に見えない。そのため、それは最初からこの世界に存在していないものとして扱われがちである。でも、聞こえないからといってその声をないものと決めつけてしまう態度はあまりに雑じゃないだろうか。

かつてお年寄りたちの世界をぼんやり外野から眺めていた頃、ひとはみな歳をとると観光バスにのってブドウ狩りに行ったり、高価そうな一眼レフカメラで公園の花を接写してみたり、あるいはまたゲートボールの勝ち負けに一喜一憂したりするものだとばかり思っていた。いや、そんなわけあるはずもないのだが、ヨソの世界の話とそれ以上深く考えようともしなかった。

しかし、たとえ姿は見えなくても、また声は聞こえなくても、そこに確かに人は存在する。そりゃそうだろう。まさに自分がそういうタイプの人間なんだから。このままでは、十数年後、きっと自分は完全に存在しないものとされ、海の底深くじっと砂に埋もれて毎日を過ごすことになるのだろう。ヒラメみたいに。そうなのか、ヒラメ老人になるのか? 俺は。

それもなんか嫌だな。

そこで、聞こえない声に耳を傾け、その声に対して僕らなりの「返信」をしてみようじゃないか。そう考えて、まだ実験段階ではあるけれど、「喫茶ひとりじかん」というプロジェクトを始動した。

お年寄りだけに限らない。家族の介護や子育てに疲れた人、学校や仕事に出てゆくのがしんどい人、とにかくこの世界に生きる「声の小さい人」すべてに開かれた居場所としてそれは構想されている。
もちろん、そこは声の小さい僕自身にとっての居場所でもあるので、少しでも心地よい場所になるよう毎回土に鍬を入れ、耕してゆくつもりだ。

そしてもうひとつ、

声の小さい者たちがその声を届けようとすれば、まずなんといっても「集まる」こと

が大切だと思う。

とりあえず「集まる」。ハイ!全員集合!って感じである必要はない。同じひとつの場所に集まり、ただ「居る」だけで十分だ。それでも、集まることでその姿が見える。たとえひとりひとりの声は小さくても、少なくともその存在をアピールすることにはつながるはずだ。

どこからともなくパラパラとひとが集まってきて、気がつけばいつしか「ムーミン谷」のような居場所ができていた。くねくねと回り道しながら、「喫茶ひとりじかん」はそんな未来をめざす。

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