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【著 爾太郎】講談社学術文庫「テレヴィジオン」(ジャック・ラカン)

*初めの註(茂泉朋子)
この記事では、爾太郎氏が執筆した文について、茂泉朋子のnote記事として掲載しています。そのような掲載体裁をとる理由は、爾太郎氏が極端な人見知りであり、自身のSNSをもたないからです。したがって、著者爾太郎氏への感想等をいただける場合についても、当ページをはじめとした茂泉朋子名義のSNSを通したものになることをご了承ください。なお、爾太郎氏と茂泉朋子は別人であることを明記しておきます。


講談社学術文庫「テレヴィジオン」(ジャック・ラカン)

 まずはテクストを通読しよう。ラジオの声に耳を澄ますかのように。とはいえ、この声は曲をふるまうことはない。ただフロイトを、アリストテレスを、そしてラカン自身を参照するよう指示するだけだ。
 それでも読み続けよう。希望するのなら、知ろうとするなら、参照先へと立ち寄ろう。聞き慣れない言葉を耳にするだろう。知っているはずの言葉が、今ひとたび翻訳の要るものとなるだろう。この分野に詳しい方々。声はまずそう告げる。書字されているものは幸いなるかな。書は待つだろう。参照が、翻訳がなされる(パス)のを。

 参照されるものとは常に既知のものである。本書76ページ後段~78ページ冒頭までを参照せよ。知とは分析のディスクールではなく、科学のディスクールの中にある。これが方法論のひとつめ、既知のもの(=既存の学で扱うもの)と、その否定形としての(既知ではない)未知のもの(=分析が扱うもの)との区別。「フロイトが他に適当な言葉を見付けられなかった」否定形としての「無」意識という名付け(18ページ後段)を常に思い置くこと。
 ふたつめの方法論、無意識はランガージュ(の構造)に依存する(19ページ後段以下)。従って分析が可能なのは、無意識が「何」であるかによってではなく、構造化されていることに依る。すなわち、分析は技術(学)であり、無意識の構造に基づいて「症候」を「解明」する。

 この部分、少し丁寧に見ておこう。分析以前の治療について「無意識が発見される以前は……機能する(=治癒する)のに、解明される必要はない」(21ページ16行:ラカンの発言)。それを受けてミレールが「それでは、分析は《解明される》ということだけで治療から区別されるのですか」。そのまま続けて「あなたのおっしゃりたいのはそういうことではないでしょう」。この「そういうことではない」は「だけ」にかかっており、「治療」と分析の違いのことを指す。次行《精神分析と精神療法が……対立している》への、「区別」distinguer(単純な差異の有無・在り処)から「対立」oppose(互いを否定するような相容れなさ)への、質問の移し換え。ミレールの問いかけ(22ページ3行目)《精神分析と精神療法が……対立している。それはなんにおいてか》。
 ラカンの回答は29ページにある。「フロイトの発見とは、……それは症候を成り立たせているもの、すなわちシニフィアンの結び目を、実際に解けるようにする現実界なのです」(1~6行目)。
 この場面、ラカンは「解ける(=治癒する)」とは発言していない。症候を解ける可能性が現実界にあることをフロイトは見出した、そう指摘しているだけだ。
 本書では「治癒」という言葉は二度使われる。いずれも21ページで、「治癒」について言及があるのはこの部分だけである。それから同じく21ページ、「具合が良くなるために、人は精神分析家であるあなたのところへやってくる」(8行目:ミレールの発言)。以後、「治癒」についての言及はない。
 忘れないようにしよう。この書(対談)「テレヴィジオン」は分析の方法論についての言説である。「わたしは……分析家と想定される方たちに話しかけているのです」(13ページ7行)。

 続く3章4章は、その分量の大半が分析と分析家、それにまつわる環境についての話題になる。この部分も基本的に、前章までと同様、事実の指摘が中心になるので、必要に応じて参照されたし。
 そして問題の5章。69ページまで読んだら、飛んで79ページ後段へ。そして87ページまで読んでから70ページへ戻る。分析家ではない読み手は結論を急いで構わない。アリストテレスも無視して良い。
 本書の訳文は(エクリと違って)悪くない。だから書かれていることを書かれている通りに読もう。そうすればおのずと結論にたどり着く。71ページ5行、「この〈他者〉を、それ自身の享楽の様式にまかせておくということ」。
 繰り返し確認しよう。
「二十年来、あなたは『無意識はひとつのランガージュとして構造化されている』という定式を提唱してこられました」(四十二ページ冒頭:ミレール)
「精神分析によって、あなたは、あなたがその『臣下=主体sujet』となっている無意識を解明することを、確実に希望することができます」(九十一ページ6行:ラカン)
 饒舌なようでいてラカンは多くを語らない。「治癒」が問題になっているのではない。分析家は「治癒」を問題にしない。分析家は分析する。〈他者〉を〈他者〉のまま〈他者〉として。

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 本書は"TELEVISION"(1974年スイユ社)の全訳である。欄外注記によれば、原本は1992年に青土社から刊行された後、2016年に版元をかえて文庫化されたものになる。それ以上の特記がないあたり、再販でも本文には異同がないものと思われる。旧青土社版との対照をしていないので、字句訂正の有無や、ルビ・凡例・訳注・巻末の訳語―原語対照表の異同等は未確認。
 ラカンの著作(厳密には本書も含め、そのほとんどは講演録であり、ラカン自身が著したのでない)が難解といわれるのは、多分にその情報密度による。先行研究への参照・引用が続くと、一般の読者だけでなく、分析の専門家でも時に困難を覚える。本書でもアリストテレスやストア派といった古典への参照が多用される上、言語学方面の知識を前提としている言及も多い。テレビ番組として放送されたというが、実際の講演での話の速度に付いていくことができた視聴者がどの程度いただろう。
 聞き手のミレールといえばラカンの一番弟子であり、ラカン講義録「セミネール」の編集者である。ゆえにこの講演、内輪ネタ楽屋ネタばかりの座談会のようなものと思えて仕方がない。それを公共の電波に乗せるのだから、フランスという国もどうかしている。
 本書が文庫化された2016年以降なら、インターネットのおかげで調べ物は格段に捗る。ラカン(関係)の出版物も増え、それなりにラカン慣れした読み手もいるだろう。しかし旧版出版の92年当時は、ラカンの言及を参照先まで調べるには図書館通いが必須であった。とてもではないが、生活をかけて働いている大人が趣味で読めるような本ではない。それとも、時はバブル崩壊直後、巷にあふれる失業者が、暇つぶし石潰しにラカンを本書を愛読したのだろうか。

 40年ほど昔のことになる。ラジオを付けたら初めて聞く曲が流れ出した。異国のやさしい女性の声、ピアノを基調としたミニマムな伴奏。当時の自分はボサノバという言葉をまだ知らない。その曲が終わるとDJではなく、女性の声で何かラジオドラマのようなものの続きが始まった。
 一度聞いただけの、しかし忘れ得なかったこの曲。後年、(イザベル・)アンテナ「南の海の魚」と知る。その顛末にも女性が関わる。わたしにとって、とかく女性にまつわるこの一曲。本書を読みながら、ずっとそのことを考えていた。

 本書「テレヴィジオン」には後書きがなかったから、書誌代わりに後書きめいたことを書き加えておいた。なお、念のため確認しておくが、あくまでこれは本書の読後雑記に過ぎない。無意識論でもパルメニデス論でもラカン論でもフロイト論でもないことに留意されたし。

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