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エリック・ロメール/喜劇と格言劇6部作

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80年代6部作「喜劇と格言劇」

どの作品も男女間の恋模様を描いていて、自由に生きたい男と女、愛を求めて愛していると告げる男と女。既婚者との恋愛や、結婚、元恋人といった男女の関わりと、孤独が時にはひりひりとする関係だったり、コミカルな様子だったりとみんながみんなそんな関係に右往左往していく。
今のポリコレ全盛の時代から考えると、同性愛やマイノリティという部分は欠けているかもしれないけれど、ただ単にここで描かれる恋模様はある種性差を超えた魅力があるようにも感じる。ヘテロセクシャルな恋煩いの話かもしれないけれど、誰しも抱える想いとズレは普遍的なものではないだろうか。

飛行士の妻 La Femme de l'aviateur  1981年

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“人は必ず 何かを考えてしまう“

夜と昼ですれ違う恋人に会いに行った時に遭遇する恋人と元彼の姿。前半元彼の後を追いながら、バスの中で出会う少女と共に追走劇が予想だにしない展開となっていく様がなんとも魅力的。冒頭に彼女に宛てて書こうとしたポストカードが、少女との繋がりとなる。

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少女にあった事を説明する下りや、後半の彼女との会話で少女との出来事を説明する下りはそれまで観客が見てきた事を会話で反芻していて、それぞれの関係の中で記憶がないまぜになっていく。小さい物語ながら愛らしい作品。元彼の妻のオチはなんとなく読めたけど笑ってしまった。とにかくマリー・リヴィエールが美しい。

美しき結婚 Le Beau Mariage  1982年

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“夢想にふけらない人がいようか
空想を描かない者があろうか”
ラ・フォンテーヌ

既婚者との恋愛にケリをつけるべく結婚宣言をするものの、相手もいない中での見切り発車に右往左往していく。そもそも既婚者との恋愛の先に結婚があったとしても、おそらく結婚生活の先は浮気をされる妻のポジションなら成り下がるのでは?といいたくなる。女性ふたりのバディもの(本来は男性同士を表す言葉)とも言える作品だと思う。結婚はテーマではないもののノア・バームバックの「フランシス・ハ」にどこか通じるものがある。

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結婚に向けてひたむきに突き進みながらも、周りは既婚者ばかりで結婚というものを十分理解しているのに、結婚への理想を語る所がなんともはらはらさせられる。
6部作の中でも一番画的な美しさが出た作品だと思った。ベアトリス・ロマン演じるサビーヌは野暮ったさはありながらもどこかフォトジェニックな雰囲気を醸し出していていた。

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理性的なキャラクターのアリエル・ドンバール演じるクラリスがとにかく美しい。

海辺のポーリーヌ Pauline à la plage  1983年

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“言葉多きものは災いの元“
クレチアン・ドラクロワ

離婚間近の女と、その元彼、まだ恋をあまり知らない少女、既婚者だけれど自由に生きたい男の間ですれ違っていく人間模様。どんどんズレていく関係が、後半強い緊張感をもって破綻していく。
自由に生きたいと願うマリオンとアンリに対して、過去の恋愛に囚われながら愛したいから愛してほしいと懇願するピエール。そんなピエールにずばっと独りよがりと断絶するポーリーヌのセリフがグサリと刺さる。

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ひと夏のアヴァンチュールを醜い部分も含めて描き切った傑作。眩い日差しに包まれるマリオンとポーリーヌの姿の美しさが溢れ出ている。
前作の理知的な女性像とは打って変わってアリエル・ドンバールのある種の軽さが前面に出ている。6部作で俳優が重複するものの、意外とキャラクターがそれぞれ異なるのも見所。

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満月の夜 Les Nuits de la pleine lune  1984年

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“ふたりの妻を持つ者は心をなくし
二つの家を持つ者は分別をなくす“

パリと恋人が住む郊外のふたつを舞台にしながら、自分の在り方を求めるルイーズの姿の孤独感が描かれてる。恋人とのズレを確認するためにひとりパリで暮らす様にドラスティックな人間関係が炙り出されていて、その果てにある終局は身につまされる。

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この映画の肝はルイーズ演じるパスカル・オジェの存在感だと思う。華奢ながら体と大きな瞳。残念ながらこの映画の後に亡くなってしまった。

緑の光線 Le Rayon vert  1986年

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“心という心の燃える時よ来い”
ランボー

6作の中でどれか一作を選ぶとしたらこれ。計画していた旅行をドタキャンされて、長い休暇をあっちこっちに行ったり来たり。女友だちや旅行先での人々、浜辺で知り合った北欧の女の子と男達との会話から醸し出される空気の読めないぼっち感。とにかく自己完結していて誰にも寄り添わない。恋愛と出会いを求めてるのに凍てついた空気をバシバシと放っていて、繋がるものも繋がりようがない。場当たり的な行動は何も産まず、更なる孤独感が増し増しになるだけ。出会いを求めた浜辺のシーンからぼっち飯への切り替わりのシーンは酷すぎて笑ってしまった。

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「満月の夜」が月単位の出来事だったのに対してこちらは日毎の日記のような形を取っている。長い休暇の中で充足した日々を送りたいのに、どこか虚無感のある日々を過ごしてしまっているのは誰しも経験している事だと思う。これも「フランシス・ハ」を想起させる。

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トランプや緑という運命論的な心の拠り所を随所にはめ込みながら、立ち聞きした夕暮れの景色がクロスオーバーした瞬間の開放感は素晴らしい。
事前に脚本を用意せず、その場その場でドラスティックに撮影していった手法がぴったりと映画にはまっている。映像の粗さはあるものの、瞬間をとらえた奇跡の傑作。

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友だちの恋人 L'Ami de mon amie 1987年

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“友だちの友だちは友だち“

6部作の最後を飾るのにふさわしい作品。これも女性ふたりのバディものと言えると思うけれど、友人関係とその間柄から生まれる恋愛感情がもたらす距離感が巧みに描かれてる。特にラスト30分はそれまでの話が活きてくる様に人間模様の複雑さがまざまざと溢れ出ている。

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決定的だった距離感が瓦解していく様に不安を掻き立てられながら、ここでもズレが効果的に演出されていて緊張感を醸し出していた。

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それぞれパートナーが入れ替わるところを服装の色で分けているのは、シンプルながら強く印象に残る。行ったり来たりというのは全作品に通じるテーマでありながら、それまでとは違う形で終幕するラストは大団円を迎える。自由と幸せの形を捉えた感動のラスト。

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それにしても全作品に通じるのはロメールの脚フェチ。構図が独特なのも脚を見せたいのではないか?と思わせるくらい全ての作品に出ていた。

ロメール作品を観ていて感じたのが、マンブルコアへの影響。ほぼ会話劇のロメールの作品がもたらした影響はかなり大きいように感じる。

グレタ・ガーウィグやノア・バームバックの作品が好きなら絶対に観た方が良い。

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