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気狂いピエロ Pierrot le fou/アンチアメリカの先に垣間見えるアメリカの憧れ

今年のカンヌ国際映画祭のヴィジュアルは、気狂いピエロのジャンポール・ベルモントとアンナ・カリーナのキスシーンが用いられていたのが印象的だった。

アンナ・カリーナ本人も来日し、ライブを行ったり今尚健在であり、さらにゴダールの新作も控えている。ヌーヴェルヴァーグから半世紀が過ぎてもなお、影響は滅びず残り続けるほど映画界に大きな足跡を残しているのがよくわかる。

ゴダールは2014年の「さらば、愛の言葉よ」でまさかの3D作品をとり、視覚的なトリックを逆手に取った表現など(左右ズレるあの表現は笑ってしまった)今も表現者として衰えることがないのは凄いとしか言いようがない。

久しぶりに気狂いピエロを観た。ヌーヴェルヴァーグを代表する一本だけれど、以前観た時と印象が大分違っていた。ストーリー全体でみるとクライムサスペンスの体だけれども、ミュージカルでありコメディであり(ピエロ、フェルナンドだ!とひたすら繰り返されるくだり)、ラブストーリーでもある。とにかくジャンルに縛られず、ひたすら映画のクリシェから逸脱する事を目指したポストモダンな映画だと思う。

アンナ・カリーナ演じるマリアンヌは所々で歌い踊る。途中ウェストサイド物語をもじった演出もあり、アメリカ映画への情景が所々現れる。アメリカ映画からの影響は冒頭のサムエル・フラーとの対話に現れている。ゴダールは軽蔑でもメトロポリスで知られるドイツの監督フリッツ・ラングを起用していたり、変わった形で世代間の繋がりを持たせている。

この映画はとにかく、まだ二十代のアンナ・カリーナの魅力が全開で、やさぐれたような表情を持ちながらすらりとしたスタイルの体に目を奪われる。最初の殺人が行われるアパルトマンでのパリの街並みをバックにしたバルコニーに出るカットが素晴らしい。この映画の前にアンナ・カリーナとゴダールは離婚していたのだけれど、それを感じさせない密な関係は築かれたままでもある。

ゴダールの映画で散見されるのがぶつ切りになる音楽の使い方。場面転換に鳴らされる音楽は毎度突如鳴り止む。音楽がもたらす場面の雰囲気は演出としてかなり重要なものであるがために、ぶつ切りにする事で音楽が盛り立てる景色を断絶し、背景としての音楽を否定するような印象をもたらす。さらに波止場で3人の女性への求愛を語る男性のシーンでは「鳴っている音楽が聴こえないのか?」とキャラクターの頭の中でなっている音楽が奏でられる。ここでの演出はさり気なく挿入されているものの、セリフを挟みながら歌の部分がぴったり重なっている。何度も撮り直したのだろうか?

ヴェトナム戦争最中の時代ということもあり、その後の東風にあるような政治性が前面に出てきている。映画の内容自体はそういった時事ネタからは程遠いものの、アメリカへの情勢の反発が所々セリフを含め現れている。毛沢東の絵を描き、アメリカ水兵にベトナム女性と水兵の寸劇を演じるシーンまであり、アメリカへの文化的な憧れと政治的な不信感の表れがこの映画の裏テーマだとも言える。

ゴダールはこの後の「ウィークエンド」でさらなる刹那を描き、商業映画から離れることになる。ここでの商業映画の体裁を保ちながら、クリシェから離れポストモダンを追い求めるスタイルがゴダールの求める映画の形を表した作品だったと思う。この作品に限った事ではないけれど、ゴダールなりのアメリカへの返答なのかなと。

冒頭のカンヌのヴィジュアルのキスシーンの印象がなかったので、再見し確認したのだけれど、劇中実はこのシーンは砂塵が舞う引きのカットでこのスチールと同じ場面は存在しない。道理で覚えていないわけだ。このシーンが挟まれていたらインパクトがあったと思うのだけれども。

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