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いかにして私はコピーライターを挫折したか。 第5話 応募編

1年目の秋、青木さんが「これに応募すんねん」と見せてくれたのが宣伝会議賞の募集要項だった。

いろんな企業がスポンサーとなり、その課題に対して自由に応募できる公募。
結構な応募数があるとのことで、倍率もすごいのだという。
アイデア出しに参加したり、細かい部分のコピーを書かせてもらったり、ということはやっていたものの、自分のアイデアやコピーが核となるような経験はまだなかった自分にとって、「自由に書ける」というのは魅力的だった。

「これ応募してみたいっす」
「ええよ、合間に考えてみ」

そこから、宣伝会議賞チャレンジが始まった。
というとめちゃくちゃ力を入れて考えまくったように思えるが、この時代の応募はすべて郵送。しかもどれくらいのレベルなら自信を持てるのか、さっぱりわかっていない。正直探り探りで、パラパラと雑誌をめくってなんとなく思いつけば書き留めておく、といった程度だった。

自分でプリントアウトしてもイマイチよくわからず、とはいえ先輩に感想を聞くのも恥ずかしい。さらにいうと「もし誰にも見せずに受賞とかになったら急に注目されるんではないか」といった邪心も抱いていた。
と言いながらあくまで合間の作業。しかもだいたい深夜近くまで会社にいたので帰ってから考える気力もない。

なんとかひねり出してプリントアウトしたのは、10案だった。
キャッチコピーを考えながら、途中で「そうか、CM案でもいいんだ」と思い、パッと浮かんだ案を書いてみる。もちろんラジオCM原稿なぞ書いたことないので、コピー年鑑のラジオCM原稿を参考にしながらだ。
こっそりプリントアウトし、郵送。審査に数か月かかるのでその後はパタっと忘れていたのだが、結果は青木さんが教えてくれた。

「かわさき君!出とるで!」
 えっ、と思いながら雑誌を見せてもらうと、確かに自分の名前が出ていた。「一次審査通過者」として。やった!と喜びまくりたかったが、青木さんは通らなかったそうで、なんとなく気まずい空気が流れた。
「初めての応募で一次審査に通った奴」ということで多少周りの見る目が変わるのかと期待したが、この頃は賞自体そんなに注目もされてなく、他のコピーライターの先輩に言っても「へ~よかったね」程度だった。実際に青木さん以外は応募もしてなかったし。

だがとにかく注目されていなかろうとなんだろうと高倍率を勝ち抜いたことは事実。しかもこの年から「SKAT」というムックが出て、1次審査以上を通過した作品と応募者の名前が掲載されるという。これは絶対買わなければ!

と思って実際に出てすぐ買ったのだが…。ない。名前がない。該当スポンサーの部分を何回か読み返す。そうか、CMだと後ろの方に載るのか。改めて探すと見覚えのあるラジオCMの原稿がちっちゃ~く載っていた。これだ!となったあと一気に肩の力が抜ける。

「●● ●●  ■■県」
と出るはずのところが
「●  ●●  △△県」
となっており、要は「名前が一文字消えてる上に県が違う」という状態で掲載されていたのだ。名前の1文字が旧字体のため出なかったんだな、とはすぐ見当がついたが、都道府県まで違ったらもう完全に別人である。

インターネットで見てみると他にも「名前が違ってた」という人を散見したので、初めての試みということもあり混乱が多かったのだろう。とはいえ初めてメディアに自分の名前が掲載されたと思ったらこれかよ……という落胆はあった。
ちなみに某大手広告代理店の人と宣伝会議賞の話をしたら
「何年か前に3次通過までいったけど、そんときは100案くらい出してん。あの賞、ほんま数の勝負やで」
と聞かされ、マジか!100案なんて無理無理!と思っていたのだが現在は3000とか応募する人がいるわけだからこのころはまだ平和な時代だったと言えよう。

そうして1年目が過ぎたころ、青木さんが実家の事情で退職することになった。
デザイナーの人にコピーの書き直しを何度も要求されたり、あまり噛み合っていなかったようにも見えたので、そのあたりも退職の理由だったのかもしれない。なんにせよ自分にとっては初めての先輩でよく面倒も見てもらった。改めて感謝したい。お元気でしょうか、青木さん。仮名だけど。

ということで先輩がいなくなってしまったので、そのあとはベテランの春田さんの下につくこととなる。

まだまだ続く。


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