本当にあったそんなに怖くない話

これは、ある夏の話である。

私がまだ中学生の時分で、当時は古い造りの長屋に住んでいた。
二階建ての木造で、壁や柱からすぐに古いことのわかる家で、そこに現代の家具を並べているので野暮ったく、ちぐはぐな印象を受ける。縁側と小さいながら庭があって、昔はそこでニワトリを四羽ほど飼っていた。
確か、夏休みか土曜日だ。両親は仕事、妹は部活動か何かで出かけていて、家には私一人だった。

当時の私の趣味といえば、インターネットで知り合った友人とお絵かきチャットをすることだった。
私には一台専用のパソコンが貸し与えられていたが、父が使わなくなった古いものだったので、少しばかり性能が悪い。お絵描きチャットをするにも動作が重く、非常に不便だった。
家族が不在の休日は、父が使っていた比較的性能のいいパソコンを借りることができる。そのため、私はその日も父のパソコンを使って、お絵かきチャットをしていた。

異変が起きたのは、母のパートが終わる時間が近づいてお絵かきチャットを切り上げた後だった。
そのパソコンはリビングの一角にあって、すぐそばには食事をするための大きなテーブルがあった。私の家族は揃ってずぼらだったから、テーブルの上には父が昨夜飲んだビールの缶が置きっぱなしになっていた。
ふと物音がしたと思えば、それがカサカサと移動していたのである。
奇妙な光景だった。当時は節電節電と厳しい時代だったから、扇風機やエアコンなんかもつけず、私は茹だるような暑さの中、庭に続く扉を開けてそこから入り込む風だけで涼をとっていた。当然風もないので、動くはずがなかったのである。
しかも、中身の入っていない缶だ。風が吹いて動いたとすれば、倒れてしまうのが自然だった。しかしそれはまるで意思を持ったように、テーブルの上をすべるように数センチ動いたのだった。

次に、(これまたずぼらで恥ずかしいのだが)テーブルの上に置きっぱなしになっていたデジタルカメラが何の前触れもなく起動した。
電源を入れるとレンズ部分が突出するタイプのもので、突如機械音を伴って、レンズが小刻みに震えるように、出たり引っ込んだりするのである。当然、私はデジタルカメラには一切触れていなかった。
さすがにこれには驚いて、私は硬直した。奇妙に動く空き缶とデジタルカメラを、見つめるほかなくなってしまったのである。

繰り返すようだが私の家は古い作りで、何とも言えない物々しさがあった。「かつてこの家で恐ろしいことがあった」と吹き込まれれば、そっくりそのまま信じてしまいそうな、そんな説得力のある古さだ。幽霊のひとりやふたり、居ついていたっておかしくない。
ホラー番組の事故物件特集を見て、自分の家もそうだったら――と妄想を膨らませたことのある私は、途端に恐ろしくなった。

まさか、何かいるんじゃないか――そんな風に考えた時だった。

声が聞こえたのである。
男の人のものだった。それは老人か、もしくは酷く疲弊した大人のしゃがれた声に聞こえた。そんな様子で、何かは私に言うのである。

「助けてくれ……なんでもするズラ……。」――と。

そこで私は、一気に意識を現実に引き戻された。
『ズラ』という語尾が、どうしても私の思考を恐怖一色に縛ってはくれなかった。漫画に出てくる田舎者のギャグパートで使われるような口調で、もう少し後ならば妖怪のキャラクターか何かかとでも突っ込んでいだと思う。

声自体ははっきりと、私一人だけの空間で聞こえていた。隣の家のテレビが漏れてくるようなかすかなものではなく、間違いなく私に話しかけている。
本来であれば、恐怖のあまり叫ぶか、家を出ていただろう。しかしどうしても、『ズラ』という口調が引っかかって仕方がなかった。

すっかり冷静になってしまった私は声の主に返事をした。「無理です」と。すみませんとも謝ったような気もする。困っているのは間違いないようだったから、何かしら返事をしてやらねばと思っていた。
何か差し迫った状況で私に助けを求めたのかもしれないが、事実私にはどうすることもできない。霊感もなければ寺生まれのTから始まる知人もいないし。

それが結果としてよかったのか悪かったのか、声はそれ以降、聞こえることはなかった。空き缶も、デジカメも、もう動かない。
あまりにも当たり前のように日常が戻ってきて、私はあの声は何か夢か幻覚だったのではとすら思った。その後、何度か話しかけてみたけれど、返事は帰ってこなかった。

ここまで読んで頂いた方には申し訳ないが、この話にはこれ以上のオチはない。
少しの異変と、謎の声が聞こえた。それだけの話で、それ以降私の周りに特別不幸が起きたとか、そういったこともなかった。

何もなさ過ぎたあまり、この話を他人にしたのはそれから十年以上経ったあとのことである。
心霊系ユーチューバーにハマる母と妹に最近その話をしたところ、「なんで言わへんねんそんなおもろいこと!」と興奮気味に責められた。
オチがないと話せないという関西人的感性にとらわれてる自分、普通にキモいし怖いな、と思った。

これだけでは何なので、私は当事者ではないが本当に怖かった出来事を書いておく。

数年前、私は友人カップルが同棲する家によく遊びに行っていた。
マンションの一階、2DKの部屋だ。広さも十分で居心地がよかったので、共通の友人を交えて宅飲みをすることがよくあった。
何回目かの飲み会で、話題が怖い話に移った。みんなで炬燵に入って食べ物をつまみながら酒を飲んで、和やかな雰囲気の中だった。
その時、家主であるカップルのうちのどちらかが言ったのである。

「そこに赤ちゃんの手形あるで。しかも前の住人、赤ちゃんおらんかったらしい」

そう言って指さしたのは、ダイニングと玄関を隔てる扉のガラスだった。
足元の、よく見ないと気付かないような場所に確かに小さな手形がついている。一度言われてしまえば、そこにしか目がいかないほどにはっきりと。
何度も何気なく開け閉めしていた扉が、急に恐ろしくなった。私は飲み会の楽しいムードをぶち壊すことも憚らず、大泣きした。あんまりにも怖くて。多分、二十三歳くらいだった。

なんで言わへんねん。いや、もう逆にここまで来たら言うなや。

多分、私の話を聞いた母と妹も同じことを考えたんだろうな、と思った。

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