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どうということのない物語(を書きたい)

 ここのところ、どうということのない物語を書きたい、と思ってゐる。

 そういえば昔、友人に「ライターになりたければ、毎日一つ面白い話を書くことだ。面白さを見つける目を養うことだ」と言っていた友人がいた。私はライターだったけれど、もっと高級なライターになりたくて毎日日記をつけた。今にして思えば、当時(そして今でもたぶん)私はほとほと愚か者で、「毎日書く」ことはどうでもよくて、「毎日面白いことを見つける」ことの方が彼の話の要諦だったのだ。まったく話の要点をはずしているし、当然、私は出来損ないのライターですら維持しきれず、今ではWeb開発の底辺プログラマなど嗜んでいる。

 いや、それはどうでもいい。私はここのところ、どうということのない物語を書きたい、と思ってゐるのだ。

 先の話で友人が言った「面白い話」というのは逸話でありエピソードであり視点であり記事であったわけだが、ここで私が言う「どうということのない物語」はフィクションであり創作小説であり、物語である。

 私は学生の頃から、友人に「面白さを見つける目を養うことだ」と言われたあの頃から、物語を書いていた。その友人にも書いたし、そういえばその友人も書いていたし、彼は絵がとても達者だった。彼に渡した短い絵本の原作は、日の目を見ることがあるだろうか。ひそかに楽しみにしてるんだけど。

 紆余曲折を経て私は書かない時期もあった。書かない時期を経て私はまた物語を書くようになった。主に、文芸同人誌に誘ってくれたまた別の友人のおかげだ。友人の少ない人生だが友人に救われている。

 私が書かないでゐる間に、世間ではなろう系とか称するラノベの類いが隆盛し、若者がわんさかと物語を書くようになっていた。実に私らしい。時流にいつも乗り遅れる。

 話がそれた。私はここのところ、どうということのない物語を書きたい、と思ってゐる。

 私の物語の書き様は、20年も前から大差ない。それはロード・ダンセイニに憧れる魂がのたうち回って書き綴る、幻想文学になりそこねて地に落ちたがラノベにもなりきれぬような、なんとも言えない、物語である。せいぜい読者を楽しませ、驚かせるように心がけてはゐるのだが、それが達成されているかいないかは反響が少ないのでなんともわからない。たまに反響を頂いてそれがどうもお世辞らしくないと、嬉しく思う。それはそれとして、そうした物語はだいぶひねりを効かせて作ってゐる。腕によりをかけてひねってある。

 私にはまた別の友人がいて、これは中学生の頃の友人づきあいが最近になって復活したものだが、彼もまた、物語を書いてゐる。これが実に小気味よく勢いよく書かれている。あんなに勢いよく書けるのはじつに羨ましい。私にはできない。いや、できないだろうか? ひねり過ぎなきゃできるのではないか。

 それで、ここのところ、どうということのない物語を書きたいと思ってゐる。起承転結とか、センスオブワンダーとか難しい仕掛けはちょいととっておいて、勢いよく、筆のむくまま気の向くままに書きたいのだ。

 ところが、これがなかなか進まない。

 書く段になると、途端に空恐ろしくなってくる。書いても続かぬのではないか、面白くならぬのではないかと気もそぞろで、どうにも筆をつける勇気がでない(むろん、比喩的な表現であり実際にはキーボードで書く)。

 そこで、設定がしっかりしておれば、あるいはキャラクターが魅力的でありさえすれば自然筆が進むに違いない(むろん、比喩的な表現であり実際にはキーボードで書く)と、設定やキャラクターをあれこれしている。いよいよ筆が進まなくなる。そんな面白い設定だのキャラクターだのがすぐ出てくるようならひねりの過ぎた幻想文学なぞ書いていようわけもない。

 ここのところ、どうということのない物語を書きたいと思ってゐる。思ってはゐるが、遅々として進まない。

 たぶんカクヨムに書くだろう。友人が(勢いのある友人が)そこで書いているので、私もそこで書くのがいいのじゃないかと思ってゐる。noteで書いてもいいのだが、カクヨムの方が勢いのある物語には向いていそうな気もする。

 ああ、もうダメだ。一刻の猶予もない。恐れを捨てて書かなければ。面白くないとしても書かなければ、きっと一生書き始められない。書き始め、そして(ここが肝要だが)書き終わることだけが物語を書く方法である。

 そういうわけで、近いうちに、どうということのない物語を書きたいと思ってゐる。


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