花束みたいな恋をしたから見る大人のなりかた

運命の人は二人いる。
1人目は、死ぬほど好きでたまらなくて、ずっと一緒にいたいと思い、恋することの楽しさと喜びを教えてくれる人。
ということを風のうわさで聞いた。

その時にふっと、「あ、花束みたいな恋をしたを見たい」と思って、普段は一度見た映画を見返さないということをポリシーにしている私だけども、夜中にユーネクストを入れて、二度目を見た。

一度目に見たとき、地元の友達と地元の小さくて古い映画館でこの映画を見た。その友達は、上映が始まる前に私に言った。
「この映画を見て泣いてる人は、人生経験が浅い人なんだって」
当時大学二年の春休み。なぜかそれが嫌で、泣きたかったのに泣けなかった。
見終わった後も、すごくいい映画だったと感想を言いあいたかったのに、その子は、
「全然面白くなかった。君は好きそうな映画だよね。」
と言ってきた。もう二度とこの子とは映画は見ないと心から思った瞬間だった。

そんなこんなで、この映画は私の中ではすごくいい映画なのにもかかわらず、その友達のおかげでなぜかあまりいい印象が残っていなかった。
でも、「運命の人は二人いる」ということを知り、真っ先にこの映画のことが頭をよぎったのだ。

結論から言うと、泣けなかった。麦君の気持ちも、絹ちゃんの気持ちもすごくよくわかって泣けなかった。

でも、一度目に見たとき、私は麦君のだんだん変わっていく生き方や考え方を理解できなかったし、かっこわるいとさえ思っていた。だから、絹ちゃんの気持ちがよくわかって、絹ちゃんの気持ちで泣いた。

でも、大学4年生になり、就活も終えた今、麦君の気持ちに賛同している自分がいた。

麦君は、きっとこれから私が歩むであろう人生を見せてくれている。自分の好きなことをして生きていきたかったけれど、それがかなわず、人生をあきらめ、安定とお金を求めて「普通の」人生を歩くことを自分の中で何とかして美化して、ぎりぎりで生きている。
そんな麦君のそばで、自分の好きなことをして生きていきたい、好きじゃないことはやりたくないといっている絹ちゃんは、とても子供に思えた。

大人になるということは、進める道よりも進めない道が増えることで、妥協して、自分を騙して生きていくことなのだと、私の中で結論づいている。
だからこそ、麦君の生き方は今の私にはこれからの私の姿として見えた。

でも、本当は麦君になりたくない。

麦君もきっと、理想としている自分の姿と現実とのギャップに嫌になっていると思う。でも、そのギャップに気づかないふりをして生きている。そうしないと、麦君が仕方なく納得した「普通の」人生は送れないから。

麦君の言葉でものすごく印象的な言葉がある。
「生きることは責任」
というニュアンスの言葉だった。この言葉は、「普通の」人生を歩むことに決めた麦君にとっては十字架みたいな言葉で、「本当の」麦君にとっては、圧迫面接をするどこかの企業の偉い人の言葉なのだと思う。

自分を騙して「普通の」人生を選んだ麦君が、長年付き合った絹ちゃんと別れることは並大抵のことではないと思う。職を手に入れたら次は家庭を手に入れたいと考える。
うまくいっている夫婦に恋愛感情はないだの、家族が増えたらディズニーランドに行ってキャンプに行こうだの、ファミレスのシーンでの麦君の言葉は本当につまらなかった。本当に面白くない人になったんだなって思えた。
でも、その言葉に共感しかなかった。麦君の選択は正しいし、麦君の言っている通り、世の中たいていの家族は妥協で出来上がっていると思っている。

でも、全然面白くなかった。きっと、麦君の私と同じ気持ちだと思いたい。

人はいつから夢を見ることをあきらめて、恥ずかしがって、隠して、バカにしてしまうのだろうか。
人はいつから、社会の歯車になることが正しくて、当たり前で、責任だと感じるようになるのだろうか。
いつまでならば、どんなものならば、人は夢を見ることが許されるのだろうか。

自分の中では、麦君みたいな考え方で生きていこうと結論は出ている。でもどこかで、いや、私の中で15歳の私が叫び続けている。

「こんなつまんない人生送るために私は今こんなに苦しまなきゃいけないの!?もっとキラキラしてくれよ!」

少女の私が叫び続けているから、答えは明確なのに苦しい。でも、彼女が叫ぶのをやめてしまったら…きっと私は、パズドラしかする気のなくなった麦君になってしまうのだと思う。

花束みたいな恋をしたは、恋愛映画であるし、一度目見たときも今回見ようと思ったときも、恋愛映画として見たのに、なぜか大人になることについて考えさせられた。

#映画 #花束みたいな恋をした #モラトリアム

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