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命は巡る

出産して一ヶ月が経ちました。

息子の名前は 蒋 雨龍。日本語でショウ ウリュウ、中国語でJinag Yulong  (ジャン ユーロン) と読みます。恵の雨をもたらす龍。昔から中国では龍が通る道には雨が降ると言われていて、皇帝など身分のある人の結婚式にはなからず雨乞いがあったそう。降り注ぐ雨のごとく、分け隔てなく誰にでも平等に接することのできる人間に、そして龍のように強く賢く威厳のある人になってほしいという願いを込めました。

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11月14日、出産の日の朝。その日は検診の予定が入っていたのですが、目が覚めたら陣痛らしき感覚があって。あれ、とうとう!? とドキドキして産院に電話したらまだもう少しかかると思うので検診は普通に来てください、と言われ病院へ行きました。そこで毎週やっていたようにお腹にモニターをつけたら子宮が収縮するたびに赤ちゃんの心拍が下がってしまっていたんです。

その時はまだ子宮口も少ししか開いていなかったので、もしかしたら一回帰宅にもなるかもしれないけど念のため入院しておきましょう、という様子見な感じで病棟に移ったのですが、再度モニターをつけてお医者さんが診たら、これはまずいぞ、と。陣痛はすでに10分おきになっていたので、赤ちゃんの心拍数はその都度半分にまで下がってしまっていて、このまま普通分娩のタイミングを待つと赤ちゃんがお腹の中で弱ってしまうかもしれない、ということで緊急帝王切開を勧められました。

私「え、今日のいつですか?」「30分後くらいかな」 とお医者さん。選択の余地などなく。急いで駆けつけた夫は楽しみにしていた立会いどころか、すぐに手術の同意書を書かされ、私は手術室へ。心の準備も出来ず、あれよあれよと麻酔を打たれ下半身が動かせなくなり手術が始まりました。後から見たら書類上は保険適応の意味もあるらしいですが、赤ちゃんは ”新生児仮死” になっていて、緊急を要するということで出頭医の先生も他の看護師さんに急ぐように注意しながらのスタートでした。リラックスのためか?手術室でスピッツなどの私世代のJPOP がBGMで流れていてそれには驚いたなあ。

そんな急展開で正直出産したという実感もあまりわかなくて、どちらかというと人生初めての手術を経験したという感覚の方が強かったんです。感動する余裕もなく産声の印象もあまり覚えていませんが、すぐに胸の上に乗せてもらった時の感覚は小さくて暖かくて重みがあって、まだ下半身は傷を閉じたりと施述中でしたがなんとなくじわっときました。

その日の夜は痛み止めを背中から点滴したままで麻酔が取れていなかったので、下半身が動かないまま始まった授乳。そのあと息子は黄疸の数値が高いと診断され、治療のため一日アイマスクをして裸でLEDライトの上で寝かされることに。入院中は母子同室だったので泣いたり授乳する度にマスクを付け直してライトをつけて。産まれたばかりなのになんだか可哀想でした。

予期していなかったことの連続で現実についていけず、やっと少し慣れてき三日目に緊張感が取れたきたのか涙が溢れてきました。しんどいのか、嬉しいのか、安心したのか、よくわからない感情の涙でした。そんな様子を察して手術とその翌日を担当してくれた助産師さんが「急なことで大変だったでしょ」と声をかけに来てくれました。産科の患者さんは一週間でどんどん入れ替わるのに、ホルモンバランスが乱れる産婦達一人一人を気遣って、頭が下がります。

そして実は、私が出産したのは大きな総合病院だったのですが、入院した同じ日に義叔母の旦那さんが救急で同じ病院に運ばれていたんです。義叔母は生まれた赤ちゃんを見にきてすぐにその足で旦那さんのいるICUへ。なんというタイミングなんでしょうか。

明け方病院のベットに横になりながらとても不思議な気持ちになりました。私が入院していたのは5階の産婦人科の病棟。毎日のようにお産があり赤ちゃんたちの鳴き声が響く生命力に溢れた場所でしたが、自分が寝ている二つ下の階では救命救急で生きるか死ぬかのドラマが繰り広げられている。誰かの人生が始まる場所と終わる場所が、同じ建物の中にこんなにも近く存在しているのだと、生と死の不思議を感じていました。

そしてもう一つ、命は巡っているんだなと感じた事。息子、雨龍は11月14日、”良い石の日” に生まれましたが、実は一ヶ月後の12月14日は私の弟の誕生日であり、そして父の11年目の命日です。妊娠がわかった時ふと心の中で「あ〜お父さんがなくなって10年経ってに子供を授かったんだな」と思っていたんですが、日付まで同じになるとは思いもよりませんでした。

父がなくなったのは私が24歳の時、弟の20歳の誕生日でした。末期ガンだった父は、「年は越せるだろうけれど桜は見れないでしょう」と言われていたのですが、急に容態が悪化し12月14日深夜を回ってアルバイトを終えた弟が駆けつけて間も無く危篤状態。もう少し先でも良かったのに、よりによって息子の二十歳の誕生日とは、自分が死んだ後に家族をよろしく、というメッセージを残して逝く日を選んだのでしょうね。

そして10年経って私の息子が生まれた日は、一ヶ月早い11月の14日。両親(私たち) の職業にちなんだ ”良い石の日” である事以上に私にとってはインパクトが大きかった。

ちょっと汚い話ですが父は亡くなる直前に便秘が苦しかったので看護師さん便を出してもらったんです。その時は意識もしっかりあって、「あースッキリした!気持ちい!」ととても嬉しそうにしていたのが印象的で、まさかその後すぐに死んでしまうとは考えもせず。そして11年が経って息子が生まれた日、彼もまた便がなかなかでなくて助産師さんがオムツを変える時に綿棒で刺激して便を出してくれたんです。

それを見ていて11年前父が亡くなった日の事が走馬灯のようにフラッシュバックしてきました。54歳だった父と、生後1日の赤ちゃん、全く同じ光景だったからです。こうやって人の命は繋がっていくんだと不思議な気持ちになりました。生まれたばかりの息子は手足や指が長くて助産師さんにも言われるくらい足をピーンと伸ばして蹴る力が強かったんですが、足が長いって意外だぞ?と思いきや、それは180cmの高身長だったお祖父ちゃん(亡くなった私の父) 譲りなのかもしれません。

実際自分が母親になってみて、まだ一ヶ月ですが今まで見えていた世界が変わりました。世の中の全てのお母さんに敬意を表さずにはいられないです。これまで人生の中で関わってきた女性たちが "母親でもあった” ことは数え切れないほどあるわけですが、当然ながら私には出産・育児がどんなものかとは全く未知だったので、ただ友人として、仕事仲間として、一個人として接していました。

でも今自分も母になってみて、見えなかったものが一気に見えるようになったというか。ママチャリに子供を二人乗せてスーパーの袋も下げて家路を急いでいる人を見るだけで、本当偉いなって。きっと今まで自分が配慮できていなかったことが山ほどあったはずだと思ってしまいます。

体調は少しずつ回復してきました。パパは私以上に育児をしてくれますし、義両親も毎日食事や子供の面倒を見てくれています。私が仕事してしまいそうなタイプなので、「無理せずに〜!」とお声がけいただくことが多いのですが、無理せずにやっております。

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1ヶ月のお祝いは上海蟹!!食べるのは大人ですが 笑。義父は中華のシェフなのでレストランのような品揃えです。この後さらに魚やらスープやら倍の数の料理が登場しました。

クリスマスにはあまり間に合っていませんが、今年はそのあたりはもう諦めて 笑、年内に少しだけオンラインをアップデートできればと思っています。皆様素敵なクリスマスと年末年始をお過ごしください!

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