わたしの悲しみは、

祖父の死に関連して、これまで知らなかった、いろんな家族の思いに触れた。一人ひとりが、祖父と過ごしてきた時間の長さも濃さも違うから、悲しみも、それだけでない思いも、向き合い方もみんな違う。

祖父は、最後は認知症が悪化して、一緒にいた家族はとても大変な思いや、嫌な思い、辛い思いをしていた。その時間を、わたしは実際には知らない。だから、両親が「解放された」と話すのは、当然なんだと思う。何も知らないわたしが、その思いを否定するつもりはないけれど、あまりにもその言葉ばかりを聞くのは、少し悲しい。嫌な思いをしていたことは、紛れもない事実だけど、それだけじゃない時間だってたくさんあったはずで、その時間も思い出も、全部否定してしまっているようで。

祖母に対して、「やっと解放されたね」と言うのを見ているのも、なんだか嫌な気持ちになってしまった。確かに解放された気持ちはあるのだろうけど、それだけなのかな?夫婦で重ねてきた長い年月を、そんなに簡単に、解放されたなんて言っていいのかなって。

父の、母の、祖母の、それぞれの過ごしてきた時間、感じてきた思いはわからない。結局は、わたしのひとりよがりな思いでしかなくて、わたしの悲しみは、わたしだけの悲しみでしかない。家族とはいえ、離れたところで暮らすわたしは、所詮部外者でしかないんだって、思ってしまった。近くにいたいと思うから、何か役に立ちたいと思うから、余計に距離を感じて寂しくなってしまうなら、いっそ部外者だと割り切って、適度に距離を取る方が、苦しまずに済むのかな。



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