見出し画像

ふと感じた違和感

こんにちは。
ふと感じた違和感を言語化しようと思って、書き始めています。

この記事についてです。
岸田首相の秘書官に当たる人(以下Aさん)がLGBTQ、いわゆる性的少数者に対して差別的とも取れる発言をしたことで、更迭されるというもの。

私はこれを読んで、ん?と何か違和感を覚えました。

Aさんは、LGBTQは自分とは関係の無いもの、LGBTQを持っている人は得体の知れないものとして捉えているのかなと。だから気持ち悪いとか、隣にいるのも嫌だとかってそういう風に思うのかなと。

でも、彼らのすべてが「私はLGBTQです」って公言しているとは思えない。
私はむしろ公言している人の方が少数派だと思う。だから隣にいるのも嫌だって思うのは、その人が公言しているのなら意味は分かるけど、公言していない人が多いのなら、そもそもAさんはこの人がLGBTQかどうかも分からないんじゃないかな、と感じた。

Aさんは、LGBTQ=公言しているもの、と思っているのかなとも。
うーん、それはちょっと違うのではないかな?と私は感じます。

それに、LGBTQを語るなら、「性自認」「性的指向」(SOGI)がかかわってくると私は思っています。それぞれ簡単に言うと、

・性自認は、「私が自認している性(心の性)」
・性的指向は、「私が好きになる性」

です。

そして、「SOGI」とは、これら2つを合わせた「人の属性を表す略称」のこと。異性愛の人なども含めて、すべての人が持っている属性のことです。

Aさんは「LGBTQ」という言葉と存在は知っていて、そういう人が気持ち悪いと感じている。
でも、「SOGI」という言葉と存在は知らなかった。
だから、自分には関係ないと思ってしまっているのではないかなと、私はそう思います。もしも性自認を知っていれば、自分には関係ないなどとは思わないんじゃないかな…。

私はLGBTQだから特別扱いするとか、配慮しよう…とか、そういう風潮?にそもそも違和感を感じています。
(𓏸𓏸だから、というところが引っかかっているんだと思う。)
LGBTQ云々の前に、ひとりの人として、付き合うべきだと私は思っています。

それと、もしLGBTQを持っている人のことを「気持ち悪い・隣にいるのも嫌だ」って思うのだとして、それを思うことは悪いことでもなんでもないと思います。どうしても受け入れられないことは、きっとあると思うから。

ただ、それを言葉にしてしまう、口に出してしまうというのはまた別の話だと私は思っています。「思う」だけで心の中に留めておくのであれば自分だけで収まるけれど、口にしてしまうことで、傷つく人がでてしまうかもしれない。

傷つく、というのもLGBTQ「だから」ではないです。ひとりの人として、です。「こんなこといわれた、嫌だな。」
これは、人が誰しも抱きうる感情。

社会で生きている私たちは、誰もがひとりの人として尊重されるべきだと私は思います。

でもそうするには、ひとりひとりの言動だったり他人を慮る気持ちだったりと「個人任せ」にならざるを得ない部分もある。

それでも、個々人は結局、社会という大きなものの考え方に影響をもろに受けるから。

だからどっちかだけが頑張るんじゃなくて、個人も社会も、両方が意識して行動に移していく必要があるんだと私は思います。

ふとした違和感を言語化していたら、意外と長くなってしまいました、、笑
気付けばグラスに入った氷が溶け切っている、、笑


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?