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【カサンドラ】 5.溶涙

ある朝自宅に戻り支度をしていると、いつもは昼まで寝ている母親が起きてきた。
襖を開けっ放しにした私の部屋の前に立って、険しい表情を見せている。

「おはよう」
私は母の顔から目を離し、無表情で一言言い放って、化粧を始めた。

すると母親が低い声で「あんた毎日どこ行ってるの」と重く言葉を投げた。
いつか聞かれると思っていたその問いかけに一瞬ヒヤッとしたけれど
至って冷静に「彼氏ん家」と答えた。

嘘をついているわけではないのに、冷たく尖った空気を感じ取ったので
私は自分を映している鏡から目線を外し、煙草を一本抜き取ると、忙しなく口に運んだ。
オイルの少なくなったライターをカチカチと煽っていると
「男の家に泊まってるの?」と言うので、すぐさま私は「そうだよ」と答え
母親の目を真っ直ぐに睨み付けた。

母は嫌悪感を剥き出しにしながら、嫌ね、と顔をしかめ
はっきりとした口調で「汚い」とだけ残し、その場を去っていった。


高校生の頃から、ほぼ家を出たような状態を繰り返していたが、
実際にどこで何をしているのか、聞く覚悟が決められなかったのだろう。
初めて現実を耳にした瞬間の母の表情は、
まるで夜の繁華街の地面に撒かれた吐物を見るかのようだった。

鎌倉市で有名な私立中学を受験する時に、それが自分の望みではないことに気付いた。
なので受験を辞めたいと父親に頼んで、私は地元の公立中学へと進んだ。

成績が良く学級委員で、ピアノが上手くて。
長い黒髪を結い上げ淡いパステルカラーのワンピースを上品に着こなし、有名女学校を卒業した後は
優良企業に勤め、裕福な家庭育ちの将来有望な男性に見初められて結婚し、家庭を築く。
母が思い描いていた娘像はわずか10年足らずであっさりと崩され
一番望んでいない道を歩み始めてしまった私は、彼女の脚本から外されてしまったのだ。
あの日から、親族や近所の人に私の存在を隠すかのような言動を続ける母を見てきたから
先程の言葉は、現実を受け入れられないがゆえの一言であることを
私はどこかで感じ取っていた。

これから自分の感情が乱れることを知っているので
一刻も早くその場から離れなくてはいけない。
それは子供の頃からの、もはや習慣のようなもので、
感情を乱すであろう出来事の直後はいつも、
家中の柱すべてから無数の棘が突き出してきて
とても家の中には居られなくなるのだった。

職場に着くと私は無機質に笑うペルソナを被り
接客をこなし、なんとか一日を終えたが
迎えに来た祐介の顔を見た途端、全身に張り詰めていた力が抜けて、動けなくなった。
助手席でぐったりとする私の異変に気付いた祐介が、「どした?」と尋ねてくるのだけれど
その優しさに一度でも自分を委ねてしまったらすべてが壊れてしまう気がして
なんでもない、疲れただけだと答え続けた。

彼の家に着いて、部屋に入った瞬間祐介が覆うようにして私を抱きしめた。
何も知らないはずの暖かい体温に包まれて
気が緩み、「お母さんに、汚いって・・・」と、言葉にした瞬間
10年以上も感じていなかった暖かい感触が頬を伝った。


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