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意外と知られていない、ナイチンゲールが本当に凄かったところ。 偉人伝.1

「犠牲なき献身こそ真の奉仕」
ーフローレンス・ナイチンゲールー

こんにちは。moeです。

今日は、私の敬愛してやまない、心の拠り所の、ナイチンゲールについてご紹介します。

本名は、フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)
1820年5月12日ー1910年8月13日 90歳没
肩書きは、イギリスの看護師、社会起業家、統計学者、看護教育学者

ナイチンゲールというと、クリミア戦争で看護婦として従軍し、天使のような看護により、死者を減少させ、今日の看護師像を作り上げた偉大な人物。というイメージがあると思います。子供の時に伝記で読んだという方も多いのではないでしょうか。しかし、ナイチンゲールが本当に凄いのは、クリミア戦争での活躍はもちろんのこと。クリミア戦争以降の功績です。

生い立ち

ナイチンゲールは、大変裕福な上流階級の生まれです。父親は、女性も教育を受けるべきだとの考えにより、贅の限りの教育をナイチンゲールに施しました。
子供の頃より、「霜が降りなくなった日からの、一日ごとの平均気温の二乗を合計していき、それが4264になればライラックは開花する」というアドルフ・ケトレという天文学者の法則に大はしゃぎをするような子供だったようです。

ナイチンゲールが16歳の時に、神から「私のもとにて奉仕しなさい」という 声を聞いたことがきっかけで、看護の道へ入ることになりました。しかし、当時の看護婦という職業は、まともな正業に就けない女、アルコール中毒の淫売婦上がりの女が着くような忌み嫌われた職業であり、当然、家族からの強い反対を受けました。

30歳を過ぎ、中年未婚女性と呼ばれるに近くなってからは、家族、周囲が匙を投げる形で、ナイチンゲールに自由を与え、ついに看護の道へ入りました。

クリミア戦争

ナイチンゲールのクリミア戦争の従軍にて、病院の衛生状態の改善により、兵舎病院の兵士の死亡率は、42%から2%まで減少しました。ナイチンゲールは、兵舎病院の状況をタイムズ紙にリークし、寄付金まで得ていたようです。兵士たちに清潔な靴下、シャツが着せられたのは、ナイチンゲールの個人的な出資と、このような寄付金があったからなのです。

そしてあまり知られていないナイチンゲールの姿は、ここからです!!


ベッドの上から、後世に遺す

ナイチンゲールは90歳まで生を全うしていますが、クリミア戦争での激労により健康を害し、36歳の時に心臓病で倒れ、たえず気絶の発作と全身の虚弱に苦しんでいたそうです。現場で看護婦として働いたのはわずか2年半程度。クリミア戦争から戻ってからの人生のほとんどをベッドの上で過ごし、ベッドの上から、以下のような偉大なる功績を残したということです!!

統計学者として

クリミア戦争が終結し、帰国後、戦時中の大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始め、数々の統計資料を作成し、900ページにわたる報告書を政府に提出しています。棒グラフや円グラフが一般的に認知されていない時代に、「バッツ・ウィング」(こうもりの翼)というグラフを考案し、専門家ではない人物にも視覚に訴えるように工夫されていました。
以降、ナイチンゲールの統計による、環境改善要求は、一般の病院、一般国民の生活にまで及びました。生涯にわたり、政府に向けて膨大な提言書を書き、原稿や、講演録、書籍の出版を行いました。それは、150点を超える印刷文献と、12,000通以上にも及ぶ手稿文献に及びます。

ナースコールも、ナースステーションもナイチンゲールが作った!

ナイチンゲールは、「看護覚え書」を出版し、ナイチンゲール看護学校を作りました。ナイチンゲールのもとで育った看護婦たちを、イギリスだけでなく、世界各地に送り込み、世界の看護に影響を与え、看護の世界の発展に大きく寄与しました。結果、世界中の人々に看護という仕事の大事さを確認させ、女性たちの自立を促す専門職を創出することになったのです。
「看護覚え書」という本は、日本の看護教育機関では、今でも、必ず学びます。

1971年には、近代病院の始まりと言われるセント・トマス病院を創設しました。現在のナースステーション、ナースコール、患者の気分転換に必要なデイスペース、食事や読書に欠かせないオーバーテーブルの設置、感染症を起こさないために、ベッドとベッドの間は1.5mは離す。必ず窓をとりつけ、新鮮な空気を入れるといったこと。この全てが現在の病院で生かされていますが、全てナイチンゲールが始めたことです。

津田梅子や、東京慈恵医科大学にも影響を

また、日本人でも多くの偉人が影響を受けています。津田梅子がナイチンゲールとの面会を懇願しナイチンゲールのもとへ行った、このことがきっかけで、現在の津田塾大学創設に至ったというエピソードもあります。現在の東京慈恵医科大学の原点となる学校を創設した高木兼寛は、セント・トーマス病院に留学しました。その際に、看護婦たちの働きに感銘を受け、このような看護婦を養成する教育所を日本にも作りたいと思ったといいます。

国葬に値する死

晩年のナイチンゲール宅は、甥や姪、看護学校の生徒や卒業生が出入りし、賑やかで幸福に包まれていました
1910年8月13日、自宅でナイチンゲールは静かに息を引き取りました。享年90。彼女の死を伝えるニュースは英国内のみならず世界中を駆け、当時の新聞は「ナイチンゲールの死はヴィクトリア女王の死と並ぶほど甚大な損失であり、国葬に値する」と書きたてています。


いかがでしたでしょうか。
本当は、もっともっとお伝えしたい、ナイチンゲールのエピソードがあるのですが><。偉大な人物だということは知られていますが、まさか、36歳からベッド上で、つまり寝たきり状態で、これらの功績を残したということは、恥ずかしながら、私は数年前まで知りませんでした。。。そして、日本では、白衣の天使:ナイチンゲールという認識が大きいですが、国によっては、統計学の母という認識が大きい国もあるようです。

ナイチンゲールの残した言葉の中に、
「天使とは、美しい花を振り撒く者ではなく、苦しみあえぐ者のために戦う者のことだ」というものがあります。この言葉こそが、クリミアの天使と称されるのを嫌がっていたとされるナイチンゲールの生き方を表しているように思えます。



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