見出し画像

エレクトロニック・デュオ・シリーズ両国門天2024 03 背中合わせのー2Trombone and Electronics

プログラム
トーン・ファン・ウルセン: スライド/クーリッセ/ツューゲ[1992] 2本のトロンボーンのための
佐原洸: 連歌II  [2022] トロンボーンとエレクトロニクスのための
森下周子:アンパーサンド[2024 新作初演] 2本のトロンボーンのための
ジョルジュ・アペルギス:廃墟[1992]トロンボーンのための
ヘルムート・ラッヘンマン: Pression ~編曲:マイク・スヴオボダ[1969/2011]
マックス・マリー: 地底で [2019] 2本のトロンボーンとエレクトロニクスのための
ヴィンコ・グロボカール: 背中合わせの [1988] 2本のトロンボーン版

演奏:村田厚生(トロンボーン)、茂木光伸(トロンボーン) 佐原洸(エレクトロニクス.)

フログラム企画・構成:キャビネット・オブ・キュリオシティーズ
主催:一般社団法人もんてん
助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京【東京ライブ・ステージ応援助成】 公益財団法人かけはし芸術文化振興財団

「ライブ・エレクトロニクスを伴うデュオ」と銘打った3回シリーズである。残念ながら第1回、第2回は都合が合わず、最終回しか聴くことがかなわなかった。

ウルセン作品…2本とも終始弱音器をつけたまま演奏される、ごく静かな作品。グリッサンドというシンプルな奏法が驚くほど豊かな表情をみせる佳品であった。

佐原作品…楽器音の記譜は「即興的に作曲された」(プログラム・ノート)とあって、固定されているようである。他方、電子音は楽器音を素材として生成されているとおぼしい。となると、「連歌」というタイトルを冠してはいるが、「連歌」ならではの電子音と楽器音の、ライブでの相互作用が生じているようにはみえない。そのため、従来の器楽音と電子音のコラボレーション作品を超えるものとは思えなかった。

森下作品…開始部に、管の中で歌う声が2人の奏者の間で行き来するように感じられる、非常におもしろい一瞬があった。しかしながら、そのシークエンスはすぐさま消えてしまってそれきりだった。その後は景色にあまり変化がなく、集中が途切れてしまった。

アペルギス作品…楽器音のほか、叫ぶ、楽器の中で歌う、というアクションが極めて細かい音符の中で目まぐるしく交代する。全編にわたって緊張感がある。茂木氏による好演。

ラッヘンマン作品…チェロのための作品の、トロンボーン奏者兼作曲家であるズボヴォダ氏によるトランスクリプション。循環呼吸も導入し、高難度の作と思われる。しかし、作品としての構成は実に巧みで、技巧の見本帳のようにならないのは流石。村田氏の匠の技が光る。

マックス・マリー作品…2人の奏者と電子音による作品。トロンボーンの音を素材としたとおぼしい電子音が聴こえてきて、生の楽器音なのか否かがわからなくなる瞬間もある。そんなふうに音自体は魅力的な箇所もあったのだけれど、基本的には器楽奏者が電子音と協奏するという、従来からある構成で、両者がインタラクティブに影響し合うという場面がないことは前半の佐原作品と同様である。

グロボカール作品…2人の奏者はさまざまに動き回り、互いに関係し合いながら演奏する。簡素ながら照明も指定があるらしく、演劇的要素を多分に含む。管楽器の特性として楽器の向き、すなわち発せられた音の方向性が明確なこと、加えて、腕の動きがそのまま音程の変化と連動する、そういったトロンボーンの特性を活かした作品であった。
一方のスライドの間にもう一方のスライドを突っ込む、2本の楽器の朝顔を正面からぴったりと合わせて演奏するなど、楽器の形状を活かしたパフォーマンスが繰り広げられるのだけれど、決して趣向として回収されてしまうことがない。作家が、奏者として楽器の特性、魅力を知り尽くしているからだろう。

いずれの作品においても、2人の演奏家による卓越した演奏を楽しむことができた。トロンボーンという楽器の幅広い可能性に触れられたのも収穫である。

しかしながら、上述の通り、プログラムの中心に据えられる「デュオ+エレクトロニクス」という編成の2作品は、残念ながら内容的に十分豊かだったとは言えない。さらに、近年のAIの急速な展開などの状況の中にあって、従来と基本的に変わらない建て付けの作品を取り上げるには、例えば現時点までの創作の流れを俯瞰する、など相応の理由付けが必要なはずである。が、プログラム・ノートにはそういった点に関して特に言及がない。プログラム・ノートには次のように記されている。「(注:コンサートシリーズの)全編にわたってエレクトロニクスが入る現代の室内楽作品を取り上げます。世界各国で電子音楽スタジオが開設された1950年代から半世紀が経ち、テクノロジーの発展とともに、私たち音楽家は常に新たな道を切り開いてきました。そして過渡期を経て、多くの人がこれらのツールに簡単にアクセスできる現在、テクノロジーと同様に生きる身体をどうとらえるのかシリーズを通して再考してみたいと思います」
あえて身体に言及するのなら、身体を備える奏者と電子音響とが互いにその場において影響し合うさまにもっと焦点を当てるような、生演奏の中で両者が次々に姿を変えていくような作品が望ましかった。コンサートの趣旨と、プログラムとの間に乖離があるように感じられたことが残念だった。(2024年7月3日 両国門天ホール)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?