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Paris 12

 ポンデザールを渡ると、エコールデボザール(=国立高等美術学校)の脇の小さな通りを入る。人がようやくすれ違うことができるほどの狭い歩道をまっすぐ南へ。いつのまにか周囲の空気はふたたび変わっている。ありふれたマルボロの香りではなく、年を重ねた男の色香のようなジタンの香りが漂うのに相応しいその空気は、セーヌ左岸、サンジェルマンデプレが放つ唯一無二の幽香だ。その香りがもっとも濃く匂い立つ一角で、一服をすることにした。

 東のレ・ドゥ・マゴにいつも足が向いてしまうのは、二十歳の頃に偏愛した詩人アルチュール・ランボーの面影をそこに求めてしまうからだろうか。電車に乗って出かけるときは、いつでも彼の詩集をジーンズの尻ポケットに忍ばせた。初夏の宵の口には、決まって読む一編があった。

 まともになんかしてられない 17歳にもなったんだから

 美しい夜には ビールやレモネード、 

 カフェの騒めきも輝きも 要らないさ

 濃緑のライムの樹の下 さあ遊歩道を歩いて行こう

 6月の夜の素敵さに ライムの香りが漂って

 空気がこんなに穏やかだから うっとり瞼を閉じてしまう

 街の喧騒は遠くない それは風に運ばれて

 一緒に漂ってくるのは ワインの香りやビールの香り

 "Roman"と題されたこの一編が描く風景は、未だ嗅いだことのない夜の香りの記憶とともに脳裏に刻まれていた。それをいつからか、追い求めるようになっていた。レ・ドゥ・マゴのテラスが誘う。しかしこのときはすでに気持ちが固まっていた。人で溢れるフロールのテラスを見渡すと、いくつか空いているようだった。若いギャルソンに目礼して口の動きで挨拶をすると、私は端席に体を滑り込ませた。

 コーヒーを一杯注文してーー「アンカフェ シルヴプレ」と注文するたびに、学生時代に毎日読まされたフランス語の教科書の1ページ目に出てきそうな文だ、と笑ってしまう癖はまだ治っていなかったーーひとつ大きく深呼吸をすると、特徴的な香りがした。ジタンの煙がどこかで昇っている。ゲンスブール。バタイユ。ピカソ。ボーヴォワールにサルトル。亡霊たちの狂気は、1世紀以上に渡ってこの神域のエスプリを守るギャルソンたちによって、霧散せずにその場に留まっていた。むせかえるほど濃厚に。

続く

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