きっと現実的な多様性

であればいいなと思った話。

休日の夜に友人と二人でカフェに入り、本を読む。
読まなきゃいけない本を集中して読むって案外難しいよねってことで、頼んだ飲み物を机に置いて、黙々と本を読む。

他の客はカップル数組、博物館帰りの2人組、でかいヘッドホンをつけたPC作業者。

くちゃくちゃくちゃ…ピチャピチャくちゃピチャ…
本能的に背筋がぞわっとする音がする。
食べ物を口開けたまま嚙んでる音だ。

本を読み始めた時にはいなかった場所に座ってる人たちから聞こえる。
一度気になるとぞわぞわしてしまって集中できない、視線が泳ぐ、飲み物を飲むスピードが上がる、気になる、本が読めない!!

思わず視線を上げて咀嚼音の発信元をチラッと見ると、母親らしき女性と12歳くらいの女の子が楽しそうに手話で会話をしていた。

すぐに少しの罪悪感と理解。
不思議なことなんだけど、急に咀嚼音がそこまで気にならなくなった。
正直嫌な音を嫌と感じることに罪悪感を覚える必要はないと思ったし、気にならなくなった理由が罪悪感であるならば…いや、2人が楽しそうに話してるならそれがいいじゃんで私の中では完結した。
全体を見てもみんな手元の作業や連れとの会話で咀嚼音は届いていないみたいで勝手に安心。

本に目を戻そうとすると、あ、友人も気づいたんだと思う。
不愉快そうに少し顔を歪めた後に、少し振り返って彼女たちを見る、多分理解した。
少し考えた後で直ぐにイヤホンをだして耳につけて読書に戻った友人を見て、ああこの子頭いいな、とかぼんやり視界の端で思いながら私も読書に戻った。

他人同士の利害を考えるときには、損得が平等になることは少ない。
他人だから何が良くて悪くて、快か不快かも違うんだけど、その違う人間たちは確実に存在してるし同じ場所でコーヒーを飲む。
そうなった時に皆が同じ場所に居られる環境であるための手段が「理解による許容」や「知恵(発想)」なのかなと思った。
私は理由を知って気にならなくなったし、友人はイヤホンという名の耳栓で耳を塞いだ。
多様性ってこんな感じで沢山の人が同じ場所に居られることなのかもなって考えてたら本は読み終えられなかった。

カフェを出ても咀嚼音の話は1文字も出ることなく、お互い読んだ本の感想や面白かったことで楽しい帰り道だった。

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