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【うつ】大学生からの問題提起

本来であれば参考文献の詳細な記述、または列挙、一言一句違わぬ引用が必要とされますが、事が事ですので、私なりの解釈を含めてお話しします。といっても解釈は本質的なところを要点をまとめて話すだけですので、そこのところをご理解いただきたく思います。

昨今、というより多く以前から不登校や精神障害を患う子どもたちが多くなってきました。そもそも異常と正常とに分ける二分法が病を扱う上では適切ではないと言われるのですが、それにしてもその「精神異常」はかつての類を見ないほどの増加を見せています。

要点から申しますと、社交不全の根本的な病理は「コミュニケーションへの絶望」と、児童精神科医の佐々木正美(ささきまさみ)先生の著書では語られています。

と言いますのもこれは自身に主体性がない、という事であります。人と関わる自分がない、故に人とのコミュニケーションが取れない、というわけです。

別の観点から考察してみたいと思います。

精神科医の泉谷閑示(いずみやかんじ)先生は人間が「心」と「頭」でできている、とお話しされます。その性質を簡潔に説明いたしますと、「心」は自然に由来した大きな感情と言いますか、これは自然につながっているものであり、基本的に「〜がしたい」「〜はイヤだ」という感情的な発語をします。それに対して「頭」は「人様にああ思われるのは嫌だからこうしなきゃ」「〜すべき」という命令口調の発語をします。

そして人がうつを発症してしまう時、皆例外なくこの「〜したい」が封印され、「〜すべき」の独裁体制が敷かれている状態にあるのだ、と言われます。つまり「心」に対して「頭」が蓋をしてしまっている、状態です。

つまり何度か過去に述べたように、うつの治癒では本人主体の「〜したい」を取り戻し、本人の内発的な自然な感情を取り返す必要があります。これが休職、不登校に該当するだろう、ということです。つまりは休むことは罪ではないということです。

しかしまたどうして、その独裁体制が敷かれるようになったのか、ここを深掘りしてみたいと思います。

私事で恐縮なのですが、私の親は毒親と言われる部類に該当するタイプで、母はまだ比較的軽度ですが、父は確実にそれに該当します。

そして毒親の本質として何が毒かと言いますと、これは多岐的な言い方になりますが、すべては連関していると捉えてください。このようなものになります。

本人が過去の夢を追っている
本人が自分の人生に不満を持っている
本人が生きづらさを抱えている
本人が生きづらさから目を逸らすために子どもを利用している(自己実現の転嫁)
本人は基本的に満足して生を終えられない

このようなものが素質としてあげられます。つまり親自体が「主権がない」状態であるため、その子どもである私にも必然的に主権がない、という世代間連鎖があった、ということです。

ではその主権とは何か、という話になりますが、それは愛です。愛とは「1人の人間の尊重」です。つまりは愛は心の「〜したい」の全面肯定であります。しかしながら親が愛を自身に獲得していない場合、どうやっても子どもの主権が認められることはなく、その結果として心身症を発してしまいます。

しかしこれはあくまで私の場合で、例外もあると思います。例えば親はいい人だったが、学校がダメだった、という人もあるでしょう。しかしながら学校がなぜダメだったかと考えると、学校自体が「〜すべき」「勉学に励むべき」「早く起きてしっかり登校すべし」という規範の道徳を振りかざすことによって、結果的に本質は同じで本人の「〜したい」が封印され、「〜すべき」一辺倒になっていることが認められます。

このような家庭的・社会的背景によって、本人の内に「圧」が顕在化してしまい、そのストライキとしてうつ、その他の心身症が発露しているのではないか、と考えられるのです。

ここまで来ると、「休めていなかった」ということが全面的に分かってくるので、誰一人としてうつに陥る人たちを「落ちこぼれ」と評価することができないことが分かってきます。

例えば話は変わりますが、また私事で恐縮なのですが、私は17歳の時に躁鬱を患っています。そしてその躁鬱の根本病理を長年の自己理解により文学的に表現したことがあるのですが、それは以下のようなものになります。「母の怒りと、父の期待が、自分の情緒を破壊して、反旗を翻したもの」ということです。

これは一概には万人に当てはまる病理とは言えないと思います。しかしながら一人の人間の経験としては、母が時には身体的にも暴力を振るい、父が一生をかけて自己実現を転嫁(てんか)していたこと、すなわち「俺の代わりに夢を叶えろ」と思っていたことに、私の身体が悲鳴をあげたのが躁鬱というものの根本病理だったのです。

これを未だ親には言っていません。あれから5年が経ちましたが、これを今言ったとしても親にはすぐにそれを理解できる知恵がないからです。実際のところあなたたちの行動とわたしの精神病理とが、密接に関連し合っているということをすんなりと理解する心理学的な素地がないのです。

またこの素地がない、ここが世代間のディスコミュニケーションと言われるものに該当します。夏目漱石の著書で言われる高等遊民、この人たちはかつての日本で高度な学識を収めたために、世の中から浮浪して生きた人たちのことを指すようですが、その中に父に対しての猜疑が語られる場所があります。要点だけまとめるとこのようなものです。

「父は何者かになれ、働けるようになれ、そのような社会的規範を第一の道徳としているが、実はそれが己が社会的規範を本当の意味で理解していないところからこの者は社会的規範に固執している、ということを分かっていない。しかしながらそれを一から話すとなると途方もない労力がかかるので、父からは時折りお前はダメだというレッテルを貼られるが、なるべく反抗しないようにして、何も言わないようにしている。」

というものです。これは私の解釈になりますが、本質を要約したものです。

このように道徳を振り撒く親が、実際のところ道徳というものを理解せず、それ故に道徳に固執している、このところから子どもへの自己実現の転嫁が派生している、ということがポイントです。このようなことが実は社会のあちこちで起きている、ということです。

また私の言葉でお恥ずかしいですが、「ドーナツの社会」と言うことを以前から言っており、つまりみなは経済原理で働くのはいいが、その内実をよくよく見てみると誰一人として「働く」ということがどういうことかということを理解しないで働いているのではないか、つまり真ん中が空洞で、そこには底なしの滝壺だけが待ち構えているのに関わらず、人は何の疑問もなしにヘラヘラ笑っている状態なのではないか、ということです。

これは特段その人たちのみを罰則せよということにはなりません。本人たちも頑張って働いているからです。しかしながら働く(はたらく)とは、「はたをらくにする」つまり「周りを楽にする」が語源だと言いますが、ではこれが正当にできる心理的状態はどうなのか考えてみたいと思います。

結論から言いますと、人は自身が幸福でないのならば絶対的にはたをらくにする、というのはできない構造となっています。それはなぜかというと幸福の派生で他人に親切をする場合、それは見返りをまったく期待せず、やりたいからやったことなので実に望ましい社会貢献の姿となりますが、そこに我慢が入ってしまいますと、「俺はこんなにやってあげたのに」という見返りを期待してしまう感情が起こります。これが諸々の社会問題の根底に潜んだ病理なのではないか、とも考えられるのです。

つまるところ休職のことをHSP専門カウンセラーの武田友紀(たけだゆき)さんは「心を守り育てる時期」と言っていますが、それこそが自分の「心」の「〜したい」を取り戻し、自身が幸福になる、まず自身を満たす、ことに他なりません。そういう意味で言えば、生まれた時から効率主義で生きてきた私たちにとっては、休職というものははじめて「私が私として生きる」ある意味人生においての転換点なのではないか、とも言えるのです。

こうなってくるとますます休むことが悪いことだという話は通用しなくなってきます。

では人は望ましく「休む」ことができた時、どのような変化を経験するのか、次はそこについて述べていきたいと思います。

人間は社会的動物と言われるように、本来本当に何もしないで生きれるほど強くできていない、と言われます。それは罪悪感を埋めるためではなく、つまりむしろ「望むべき休職を経た後には〜すべきがなくなって、〜したいが現れてくる」ということです。つまり「頭」の強権体制だったのが、「心」が勢いを盛り返し、一度その心が主権を取り戻した状態です。こうなると「頭」は「心」と繋がり、非常に望ましい心配のない姿となります。

また、これは第二の誕生(だいにのたんじょう)とも言われ、「〜すべき」で働いていた時とは一線を画するような本人の内面における変化が起きています。

簡潔にまとめますと、一度心の主権を取り戻したクライアントは陰と陽、繊細さと大胆さ、こういう対立した精神が共存した次元の高い精神性を獲得すると言われます。少し怪しい言い方になりますが、これを精神の深化(せいしんのしんか)とも言われたりします。

こうなりますと見かけ上、その人はまったくもって繊細さのかけらもないような見栄えとなります。しかしながら本人は諸々の体験を通り抜けてきていますので、繊細さもありながら大胆でもある、と言われるのです。少し理解が追いつかないかもしれませんが、これがうつに込められた意義だと言われます。

アダルトチルドレンや機能不全の問題を語る時、カウンセラーが決まって話されることが「自分の感情を味わってください」ということです。つまりそれまで主権がなかった人、その本人の疑問、怒り、恨み、それは正当なものだから、自分でまず認めてあげましょう、ということです。ただ誤解していただきたくないのは味わうことと復讐することは別ということです。あくまで内面で味わうことは自分でできるので、カウンセラーはそれを推奨しているということです。一方で復讐は味わうをすっ飛ばして、内実は自分の感情を見ていないと言われます。またこれが先に述べた親の子どもへの自己実現の転嫁となるのです。つまりは自分の生きづらさから目を背けるために、子どもを利用し自分の肩代わりとなってもらうことで、自分が比較相対的に優位に立てることを、無意識的にやっている状態、これが毒親の内実なのです。こういうわけでその子どもさんの主権が摘まれ、本人に抑圧が内在化してしまうのです。

この感情を味わい尽くす、このプロセスが休職期間になり、「心を守り育てる時期」になります。つまりはその眼目は主権を取り返すことにあります。その時に必要とされるのがカウンセラー、精神科医なのです。

アダルトチルドレンや機能不全を取り扱うカウンセラーの言う、「自分を大切にする」ということと、うつで行き詰まり「休職してゆっくり遊ぶ」ことは連関しています。

本来ならばこれを伝えるのがカウンセラーであり、精神科医です。しかしこれを伝える人がとても少なく、というのも病院で働いている公認心理師や精神科医までもが「〜すべき」の神経症性の途上にある人であることが多く、内実その人は行き詰まっていないので、行き詰まった人の悩みを原理的に扱えない、ということが往々としてあるのです。そこのところから「壁と話しているようだった」「薬の自動販売機」という揶揄される言葉が生まれたと考えられます。

また、従来の心理学というものは心理学者の河合隼雄(かわいはやお)さんの講義によると、物理学と同じように客観性が重視される、と聞きます。客観性をもって心を捉える。しかしこのことには問題があると河合隼雄さんは言います。というのも、心はみな主観でありますから、その主観を扱えるだけの実存的な悩みを本人が抱えていないと(つまり本人自身にそのような普遍な人間理解がないと)いくら症状を語ってみても、それは何ら役に立たない、と言われているのです。

また泉谷閑示先生は、そのことを詳しく教えられています。一言でまとめると、客観性というものはそれぞれの主観に異論が出ないだけの最大公約数的なものでしかない、と言うのです。分かりやすく説明すると、客観で心を捉えても、病気ですね、ということはできても、その病気を治すことはできない、ということです。

つまりはカウンセラー自身が一回行き詰まって、そこを抜け出している必要がある。それを泉谷先生は「主観の純度を上げる」と表現されています。つまり本人が本当の意味で悩んだ時、それは一つ人類の普遍性に達し、ここに至るところから、「たとえその症例が見たことのないものであっても、適切に自身の経験からクライアントの援助ができる」というのです。つまりは自分が悩んだ質量があるからこそ、その質から派生してクライアントの悩みを扱える、ということです。その点に関して言えば客観性というものは何ら機械と変わらず、むしろ主観の純度を上げる(ゆっくり休み自分の感性を大切にする過程)ことが必要となります。これが本来のうつの治癒の過程だと言うのです。

概論としてはこうなりますが、私も一般人であり、さして臨床経験もありません。もちろんこれを書けている時点であるところまで悩みが質量をもったことは証明されますが、それにしても臨床経験がない。しかしあまりにもこれを理解する精神科がないものですから、もう大学生でもいいから情報発信していくしかない、と思った次第です。

本来これはカウンセラーがやることで、精神科医がやることです。ましてや大学生が言うようなことではない。しかし時として行き詰まった人たちが、その悩みに途方に暮れ、日々爆弾を抱えるような気持ちで生きているとするならば、それは憂慮すべき事態だと思います。私は言葉を変え、このようなことを変わらず発信していきたいと思っています。

最後に著書の紹介になります。うつの理解に何か役に立てば嬉しく思います。

武田友紀『繊細さんが「自分のまま」で生きる本』

泉谷閑示 『「普通がいい」という病』
     「うつの効用」

時として人生は大変ですが、みなが立ち止まって悩むことが何も変ではないと言われる社会になればいいなと思います。

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