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古代中国の宰相・将軍たち0028


穣公魏冄と武安君白起 主にウィキペディアより

 魏 冄(ぎ ぜん、拼音: Wèi Rǎn、生没年不詳)は、中国戦国時代に仕えた公族出身の政治家。姓は[1][2]、氏はで別名を魏厓[3]または魏焻とも書かれる。封ぜられた地から穣公・陶公とも呼ばれる。秦の恵文君(恵文王)・武王昭襄王の三王に仕え、丞相相国となり権勢を誇った。

 昭襄王時代に秦で権勢を振るった自身と異父同母姉である宣太后、左丞相を務めた華陽君(羋戎)と併せて三貴[4]、または自身と華陽君(羋戎)、昭襄王の弟である高陵君(公子巿)・涇陽君(公子悝)を指して四貴[5]とも称される。

 宣太后(恵文君夫人)の弟で、恵文君の義弟に当たる。宣太后の一族の兄弟、甥の中でも最も賢かったため、恵文君の時から職に任ぜられ、国政に携わった。

 武王4年(紀元前307年)、武王が急逝し、その弟たちで王位継承争いが起こった。その際に魏冄だけがにいた昭襄王を擁立した。魏冄の導きで、昭襄王は王位についた。魏冄は将軍となり、咸陽の守備にあたるようになった。
{武王さま亡き後、昭襄王さまあなたが王位につくべきです」
「私を支持してくれるのか」
「年若いあなたこそ可能性があるのです」

 昭襄王は年少で即位したため、母である宣太后が摂政し、その弟であった魏冄が実権を握るようになった。

 昭襄王2年(紀元前305年)、先の後継者争いに敗れた公子壮は兄弟の公子雍ら昭襄王の即位に不満を抱く勢力を結集し、反乱を起こした(庶長荘の反乱、季君の乱)。この乱は魏冄らにすぐに鎮圧された。反乱を起こした者らで昭襄王の兄弟で従わない者は全て滅ぼされ、武王の母の恵文后も処刑、武王后は故国のに追放され[6]、この乱をきっかけに魏冄の権力はますます強まっていった。

 昭襄王10年(紀元前297年)、楼緩が秦に来て宰相となった(この楼緩は趙が秦と結ぶ連衡策を趙の国に提案し、秦と敵対する合従策を唱えた虞卿と有名な論争を繰り広げた)。趙はこれを自国の不利になると考え、仇液という者を遣わせて、楼緩を罷免して魏冄を宰相とするように請うた。秦はこれを受け入れ、昭襄王12年(紀元前295年)に魏冄は宰相となった。

 昭襄王14年(紀元前293年)、魏冄は白起を登用した。
「白起殿、ぜひ秦の将軍として思う存分腕を振るって下さい」 
 白起は昭襄王に重用されていた向寿に代わって将軍となり、・魏を攻めて伊闕の地で大勝した。昭襄王15年(紀元前292年)、魏冄は病のため、請うて宰相を辞め客卿燭寿がその後任となった。しかし昭襄王16年(紀元前291年)、燭寿は罷免され魏冄が再び宰相となった。この際に穣(現在の河南省南陽市鄧州市)の地に封じられ、さらにかつての春秋時代の首都だった陶(現在の山東省菏沢市定陶区)も増封された。魏冄はこの封ぜられた地から穣侯・陶公と号した。

 昭襄王17年(紀元前290年)には魏を討った。魏冄は魏の河内の地を攻略し、60余りの城を陥れることに成功した。その後、昭襄王24年(紀元前283年)にまた宰相を罷免されたが、昭襄王26年(紀元前281年)に三度宰相となる。このように、魏冄は宰相を何度も免ぜられているがその度に返り咲いている。

 昭襄王29年(紀元前278年)、魏冄は白起に命じて楚を討たせた。楚の首都を落として秦の版図とした。白起は武安君に封じられた。

 昭襄王31年(紀元前276年)には相国となり、秦では魏冄に並ぶものがいないほどの権勢を誇るようになった。

 同年、魏冄は自ら兵を率いて魏を討った。魏の武将芒卯を敗走させ、魏の国都の大梁を包囲するまでに至った。この際、魏の大夫須賈の説得で包囲を解き兵を引き上げた。しかし昭襄王32年(紀元前275年)、魏が秦に背いてと従親したので、再び魏を討った。またもや大梁に迫り、芒卯と援軍に訪れた韓の武将暴鳶の軍を破った[7][8]。この功で封邑を追加された。

 昭襄王33年(紀元前274年)、白起や客卿の公孫胡昜とともに、趙・韓・魏を攻めた。再び魏の武将芒卯を趙将賈偃ともども華陽の城下で破り、魏・趙の地を取った。魏冄は趙に援軍を求め斉を討とうとしていた。 斉の襄王はこれを恐れて説客の蘇代に命じて魏冄に書を送ってきたため、兵を引き上げた。しかし昭襄王36年(紀元前271年)、魏冄は客卿の進言を聴き入れて斉を討った。これは自己の封邑である陶を広めるためで、斉の地を得て自身の領地に組み込んだ。

 一方范雎が昭襄王に取り立てられ、宣太后が専制であること、魏冄が諸侯に対してほしいままに権力を振るい、魏冄の弟の華陽君や、昭襄王の弟の高陵君・涇陽君らが奢侈で王室よりも裕福なことを述べた。范雎を信任した昭襄王は魏冄の相国位を罷免し、華陽君・高陵君・涇陽君らを函谷関の外に追放し、それぞれの封地に移住させた。

 魏冄は封地の陶で天寿を全うした。魏冄の死後、秦は陶を回収した。魏冄が函谷関から出たときの荷車は千余りもあったという。魏冄の富は王室を大きく凌いでいた。

 宰相として内政を行うだけでなく、自らも将軍として戦地に赴くなど軍事に優れた面もあった。しかし、魏冄自身の封地や異父同母弟の華陽君羋戎、昭襄王の弟の高陵君・涇陽君などを富ませるための戦役が多かった。

 最も大きな評価は白起の登用・重用である。宰相魏冄・将軍白起の秦の内外の両輪は当時無敵であり、特に白起は常勝であった。宰相魏冄の内政・外征は、公私混同ではあったが、他国の力を大きく削り、秦の国力を大きく肥大させた。

史記』穣侯列伝では、「黄河の中流とその向こうの山地をとりこみ、大梁の都を包囲して、諸侯たちが手を縮め、秦に仕えるようになったのは、魏冄の功であった。ゆえに穣侯列伝第十二を作る」と列伝の12巻に「穣侯列伝」として取り上げられている。司馬遷は列伝に「貴賤を問わず、正義を保持し、ひとに屈せず、機を失わずして世にあらわれた人々」を取り上げており、列伝70巻のうち比較的最初の方に取り上げていることから、司馬遷の評価は高かったと思われる。


白起

白 起
(はく き、? - 紀元前257年11月)は、中国戦国時代末期のの武将。公孫[1]とも表記される。秦国の人。昭襄王に仕え、各地を転戦してなどの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。王翦廉頗李牧と並ぶ戦国四大名将の一人。

 武安君出生不詳
死去昭襄王50年(紀元前257年)11
杜郵拼音Bái Qǐ別名公孫起官位左庶長→左更→大良造主君昭襄王テンプレートを表示

 以下は『史記』白起・王翦列伝による。
昭襄王13年(紀元前294年)、左庶長に任ぜられ、新城を攻めた。
昭襄王14年(紀元前293年)、左更にすすみ、韓・を攻め、伊闕の戦いで24万を斬首した。また、魏将の公孫喜を捕え、5城を落とした。
昭襄王15年(紀元前292年)、大良造に任じられ魏を攻め、大小61城を落とした。
 昭襄王29年(紀元前278年)、を攻め、楚の首都のを落とした(鄢・郢の戦い)。このため、楚はに遷都した。同年、武安君の称を賜っている。
 昭襄王34年(紀元前273年)、魏の華陽を攻め、韓・魏・の将軍を捕え、13万を斬首した(華陽の戦い)。また、趙将の賈偃と戦い、士卒2万を黄河に沈めた。
 昭襄王43年(紀元前264年)、韓の陘城を攻め、5城を落とし、5万を斬首した(陘城の戦い)。
 昭襄王47年(紀元前260年)、長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。このとき20万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした[2][3]。しかし、本国にあった宰相の范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都の邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。
 昭襄王48年(紀元前259年)、秦は王陵を起用して邯鄲を包囲し、昭襄王49年(紀元前258年)には増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と昭襄王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。
 だが、これがさらに立場を悪くし、昭襄王50年(紀元前257年)、ついに昭襄王によって賜死を受けた。自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。

 司馬遷は、『史記』において、白起を「料敵合変、出奇無窮、声震天下(敵の能力を図って作戦を変え、奇策を無限に繰り出した。彼の勢威は天下を震わせた)」と評している。一方で、その伝の末尾に「非常に有能な将軍であったが、(身内であるはずの)范雎の患いから逃れることができなかった」と記し、王翦と共に優れた人物でありながら、欠点もあった人物であったと評価する。のち、三国魏の将軍の鄧艾が讒言をうけて殺される前に、自らを白起になぞらえて身の危機を悟ったとの記述が『三国志』にある

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