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故犬を想う、いつもやけども

たまに、以前飼っていた犬のことを書いている。亡くなってからこのブログを始めたので、故人ならぬ、故犬として思い出を書いている。


動物を飼っている人(飼っていた人)はたぶん、わかると思うんだけど、犬は特になのかわからんけど、動物とはいえ本能だけで生きているわけではないということを知る。

人間みたいな言葉は、話さないけれど、割としっかりめにコミュニケーションはできるし、喜怒哀楽という単純な感情だけでなく、しぶしぶ感やヘコんだり、気を遣ったり、これじゃない感を出していたり、時にドン引いてる時もある。人間に訴えていること(言いたいこと)は目は口ほどに物を言うというか、表情や全身で、正直に伝えているんだと思う。

犬種による大まかな性格もあるんだけど、個体差ももちろんあるし、好奇心旺盛な私の故犬は、家に修理とか何かしらの用事で訪問に来た人が何してんのか興味深々やったし、持ち運びできる小型のプリンターから紙が出るのを首を傾げながら見ていた。

全然無関心でもなく、ただ恐れて吠えるでもなく、不思議な様子で見ているのが好奇心と、知ろうとする探究心すら私には感じられて(飼い主やからあれやけど) エンジニアの見習いみたいで、「賢っ」と思ったし、かわいかった。

人間はいちいち科学的な認知で納得しがちやけど、動物のが人間にわからんことがわかっているような気がする時がある。

だって、非言語的なコミュニケーションをする人間と動物の方が通じていると感じられるのに、なぜ、言葉を話せる人間同士の方がコミュニケーションが難しかったり、ややこしいんだろう。

犬は人間の話すことを言葉通りに理解しているのかはわからないが、私は大半を理解しているんじゃないかと思っている。


そして、動物を飼ったことがない人からすると意味不明なことだと思うけど、誰にでも理解されようとは思わないが、亡くなった今でも、私からは見えないが、故犬からはいつでも私が見えているんだと思っている。

ペット禁止の区域にだって、どこだって形のない故犬は悠然と私と共にいるのだ。

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