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ぬくもり

手を伸ばしたところで届かないものがあり、声を上げたところで届かない耳があり、それでも不安定な五感を抱えながら生きている。
彼が自殺未遂してからちょうど2年が経った。
その彼は今、私の隣ですやすやと眠っている。

「小説」というタグをつけさえすれば、これは小説になるのだろうか。
他人にとってはフィクションであることは、どんな人生でも変わらないけれど。

パワハラと長時間労働。未送信メール内の遺書。
片道7時間かけて彼の赴任先に行った私は、いつも以上に冷静だった。
「未送信メールだとなかったことにされちゃうよ。パワハラ扱いにするなら送信しないと」
過労でぼんやりとした彼が生きていること。それだけが確かで、自分が話していること、自分が考えていること、自分の感情、肉体、全てがばらばらだった。
それでも、彼の未遂を知ってからの私は、新幹線の予約や冷蔵庫の生物処理、自分の職場に連絡して有休もらってからの義両親への電話。全て機械的にこなした。
一皮剥けば多分泣いてしまう。薄い被膜だけが頼りだった。

退院の日、光が射していた。
ふたりで絵に描いたような観光地に行った。
まとわりつく初夏の風、眩しい日射し、潮のかおり。
神様は彼を返してくれたのだ。そんな言葉が降ってきた。

幸い今は後遺障害もなく、上司にも恵まれ、彼は生き生きと働いている。
それでもやはり、私は忘れてしまうことはできない。

彼が私を置いて死のうとしたこと。
それほどまでに追い詰められていたこと。
運がよくなければ、彼は今、白い骨となっていたこと。
運がよかったから、彼は今、私の隣のぬくもりとして存在すること。

そろそろ彼は起きてくるだろうか。
カーテンを開けてお湯を沸かす。沸いたら彼は寝ぼけ眼をこすりながらコーヒーを淹れてくれるだろう。そして、密やかにふたりで分け合うだろう。
誰かの大切な人が皆、今日の夕日を眺めることができますように。そして、明日を迎え続けることができますように。そんなことを祈りながら、私は彼の目覚めを待っている。

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