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空の身体

身体というものを、空のもの、虚ろなものとして捉えてしまう癖がある。
私が感じていること、表現しようとしているものは、この身体なしには外界に放出できないものなのに、どこかで身体を軽視してしまう。

空の身体、殻としての身体。
いずれ魂が背中を割って空に還っていく。
身体は冷たい骸として置き去りにして。

身体でしか外界を捉えられないのに、身体なしには誰ともつながり得ないのに、どこか遠いところにいる私が冷たい眼差しで佇んでいて、滅びゆく前のその有機物を眺めている。

「だから子供が生まれないのか」
ふと、そんな言葉が降りてきた。
「滅びる骸としての身体、魂の器としての身体しか見ていないから、子供の魂が怖がって天上から降りてこないのではないか?」
かといって私が、身体の輝きを賛美する歌を今すぐ歌えるようになるとは思えなくて。
「じゃあ、生身としての身体を観察させるために、そろそろ子供を授けてくださったらいかがですか?」
なんて取引を持ちかけたくもなる。
誰に? 何かに。
全てが書かれているのなら、それを書いた手は、私の思考程度お見通しだろう。

身体は「からだ」。
「殻」「空」にも通じることは、その音からも容易に導けるではないか。
その器に満たされた魂は、身体なしには知覚されえないのだから、魂を大事にするならその器も大事にするべきではないか。眼差しも心も変えられなくても、他の視点が存在することを認識しつづけることしかないのだ。

空としての身体に宿りながら、そんなことを考える。私はいつか身体に、優しい眼差しを向けることができるだろうか。

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