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2020年版ライオンズの偉大な100人+α

新型コロナウイルスの感染拡大予防の為、不要不急の外出が自粛されているこの週末、皆様いかがお過ごしでしょうか。

プロ野球の開幕も4月24日の開幕を目指しているとはいえ、実質的には無期延期状態になろうとしており、早い話がヒマです。

ではこの空いた時間に何をしようかと考えたところ、昨年書いた「ライオンズの偉大な100人+α」をアップデートして、2020年度版を書こうではないかと思い立ったわけです。

前置きは昨年書いているので、説明は省いて早速ではありますが、1位から100位。そしてプラスアルファとして、昨年から10人追加した110人を一気にアップしていきたいと思います。


1位~20位


1位:稲尾和久(1937~2007) 1966年に入団。NPB記録となるシーズン42勝、ライオンズ歴代最多の276勝など数多くの記録を残し、1958年の日本シリーズでは八面六臂の活躍で「神様・仏様・稲尾様」と称えられる。2012年5月1日、背番号24がライオンズ初の永久欠番となり記念試合が行われる

2位:三原脩(1911~1984) 1950年オフ、巨人で窓際に追いやられた恨みを晴らすべく西鉄の監督に就任。高卒の有望な選手を次々と獲得&育成し、1956年からの三連覇。ワンポイントリリーフや強打者を4番・3番・5番・2番の順に配置する「流線形打線」など現代でも通用する画期的な理論家でも知られる

3位:堤義明(1934~) 国土計画の社長としてクラウンライターを買収し、埼玉県所沢市に移転。独裁的で好きな選手を特別扱いするところはあったが、惜しみなくお金をつぎ込み、多くの選手を獲得。西武黄金時代を作る

4位:大下弘(1922~1979) 「青バットの大下」として戦後のプロ野球を牽引した国民的スター。1951年オフに東急と契約で揉め大騒動の結果、西鉄にトレード。4番打者として打線の中心を担い、精神的な支柱として若い選手が多いチームの支えとなる

5位:根本陸夫(1926~1999) クラウンライター・西武の監督を経て、フロント入り。「球界の寝業師」との異名どおり、豊富な人脈と多種多様な裏技で有力選手を次々と獲得。ゼネラルマネージャーの祖と言われる

6位:広岡達朗(1932~) 1982年監督に就任。初年度に西武を初の日本一に導く。管理野球を導入し、ベテランなど選手の反発は激しかったが、当時の若手選手(石毛宏典、辻発彦、工藤公康、渡辺久信)などは、その時の教えがその後の現役生活または指導者として役に立ったと語っている

7位:村上巧兒(1879~1963) 大の野球ファンで昭和18年に「大洋軍」を買収し「西鉄軍」として活動。戦後、すでに社長を辞していたが院政を引き、絶大な権力の下、ノンプロチームを結成し、昭和25年にこのチームを母体に西鉄の結成を指示する

8位:東尾修(1950~) 1968年、ドラフト1位で入団。黒い霧事件で戦力が乏しく負けが込むも投げ続け、シュートとスライダーを武器にライオンズ歴代2位となる通算251勝を記録する。1995年に監督就任。投手を見る目に優れ、西口文也・石井貴・豊田清・松坂大輔など数多くの投手を育てる

9位:伊東勤(1962~) 球団が所沢高(定時制)に転校させ球団職員として囲い込み、1981年にドラフト1位で入団。ライオンズ歴代最多の2379試合に出場し、リーグ優勝13回、日本一7回を経験。2004年に監督就任し、いきなり日本一。その後は多くの若手選手を抜擢し、世代交代を図る

10位:石毛宏典(1956~) 1980年、ドラフト1位で入団。ルーキーながら開幕からショートのレギュラーを掴み、新人王を獲得。明るい性格でベテランにも容赦なく叱咤し、チームリーダーとして牽引。森監督時代にはコーチ会議にも参加するなど全幅の信頼を得ていた

11位:中村長芳(1924~2007) 西鉄身売りの際、新たなスポンサー探しを行うも見つからず、自らロッテのオーナーを辞し、私財を投じて「福岡野球株式会社」を設立。オーナー会社不在で資金難の中、ネーミングライツ方式で福岡時代の難局を乗り切る

12位:中西太(1933~) 1952年に入団。1年目に新人王、2年目にはトリプルスリーを達成。他チームの総本塁打数を一人で上回るほど秀でた長打力があり、「ファールチップでボールが焦げた」「ショートがジャンプしたが捕れず、そのままスタンドに入る」など数多くの伝説を持つ。また打撃コーチとしても数多の打者を育てる

13位:森祇晶(1937~) 1986年監督に就任。選手を子どものように扱う広岡スタイルから大人として接するスタイルに変更。強力な投手陣を武器に犠打を多用した確実性重視の采配で9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一に導き西武黄金時代を確立する。2018年、24年ぶりにライオンズのユニフォームを着て、メットライフドームに来場する

14位:辻発彦(1958~) 1983年、ドラフト2位で入団。アマ時代はサードで4番と強打者だったが、プロでは出場機会を得るためにバットを短く持ち、求められた役割をこなす。セカンドでは歴代最多8度のGG賞を獲得するなど活躍。2017年から監督となり、2年目には10年ぶりのリーグ優勝、昨年もリーグ二連覇を果たす。残るは悲願の日本一

15位:渡辺久信(1965~) 1983年、ドラフト1位で入団。「西武」以降では唯一、3年連続15勝以上(1988~1990)を記録するなどエースとして活躍。引退後は2008年に監督就任。1年目から日本一に輝き、退任後はシニアディレクター兼編成部長を経て、2019年よりGMに就任。熱い言葉でFA選手を留意させるなどチームの強化に奔走する

16位:秋山幸二(1962~) 1980年、ドラフト外で入団。1Aでの野球留学を経て、サードのレギュラーを獲得。その後、センターにコンバートされ10年連続でGG賞を受賞。トリプルスリーや本塁打王と盗塁王に輝くなど走攻守揃った選手。日本シリーズでの「バク宙ホームラン」は見た目の派手さと身体能力の高さを同時に魅せるNPB史上最高のパフォーマンス

17位:西口文也(1972~) 1994年、ドラフト3位で入団。2年目からエースとして活躍。ライオンズ歴代3位の182勝を記録する。完全試合&ノーノー未遂、日本シリーズ未勝利など何かと「持っていない」が、生涯ライオンズを貫き、ファンの声援は一番「持っていた」愛すべきレジェンド。現在は一軍投手コーチ

18位:清原和博(1967~) 1985年、巨人入りを熱望するもドラフト1位で入団。1年目から3割30本以上記録したNPB唯一の打者で、ライオンズ歴代1位となる1121試合で四番を務めるなど黄金時代を支える。色々ありましたが、いつか球場に戻って来られる日を待っています

19位:中村剛也(1983~) 2001年、ドラフト2位で入団。2008年に大久保博元の指導で開花し、王貞治、野村克也に次ぐ6回の本塁打王に輝く。麻里恵夫人の誕生日(9月10日)に滅法強く、婚約後12年間(8試合)で8本塁打。また満塁ホームランはNPB史上一位となる20本。昨年は驚異的な成績を残し「満塁神」を崇められるほどに

20位:栗山巧(1983~) 2001年、ドラフト4位で入団。2008年、監督に就任した渡辺久信がハートの強さを買って2番で起用。片岡治大とのコンビで日本一に貢献。言葉と背中でチームを引っ張る終身名誉キャプテン。昨年、球団最多安打記録を更新。生え抜き初の2000本安打が徐々に見えつつある


21位~40位


21位:松井稼頭央(1975~) 1993年、ドラフト3位で入団。2年目の途中からショートのレギュラーとなり、スイッチヒッターとして初のトリプルスリーを達成。貧打に苦しんだ90年代末期、走攻守全てにおいて重責を担ったスーパースター。2018年には15年ぶりにライオンズへ復帰し、その年限りで引退。現在は二軍監督として後進の指導に当たる

22位:坂井保之(1933~) 中村長芳と共にロッテから「福岡球団」へ籍を移す。福岡時代はお金が無く、ロッテとの遺恨試合など禁じ手を使ってでもお客を呼ぶ方法を考え、金策に奔走する。「西武」以降は根本陸夫、戸田博之球団社長らと共に豊富な資金をバックに黄金時代を作る

23位:西亦次郎(1909~1974) 村上巧兒の指示で中島国彦と共に「西鉄」設立に奔走。設立後は「西日本」との合併や三原脩の招聘などに尽力する。球団経営が苦しかったこともあり、ドラフト制度を提唱し各オーナーを説得、導入にこぎつける

24位:後藤高志(1949~)
 西武グループ再建の為、メインバンクのみずほ銀行より社長に就任。リストラ策など経営改革を行う中、ライオンズを決して手放さず、2014年に再上場を果たす。2017年には総額180億の大改修計画を発表。新若獅子寮や室内練習場は既に完成して引っ越しており、全ての完成が待たれる

25位:豊田泰光(1935~2016) 1952年入団。1年目から強打のショートとして活躍。エラーが多かったが、負けん気が強い(しょげた姿を見せない)ため、罵声も浴びたが打ってファンを黙らせた。文化放送の解説では戸谷真人と名コンビを形成、2008年から始まった「ライオンズクラシック」では監修を務めた

26位:工藤公康(1963~) 
1981年、プロ入り拒否を表明していたが強引に6位で指名され、根本陸夫に口説かれ入団。サウスポーではチーム歴代1位の113勝を記録し、背番号47の価値を高める。渡辺久信・清原和博と共に「新人類」の代表的な選手として「新語・流行語大賞」で表彰されるなど、プロ野球のイメージを変えた一人

27位:郭泰源(1962~) 
巨人との壮絶な争奪戦の末、1985年入団。150キロを超える4シーム、現在で言う2シームとカットボールが武器で三冠王を3回獲得した落合博満、正捕手としてボールを数多く受けた伊東勤が共に「最高の投手」と高い評価をしていた

28位:石本秀一(1897~1982) 
広島商業の監督として4度の優勝を果たし、広商野球の礎を築くとその実績を買われ、大阪タイガースの監督に就任。その後、広島カープの初代監督として後援会の設立など球団存続に奔走する。1954年、西鉄にNPB初の投手コーチに就任。テストに来た稲尾和久(当時高校2年生)を獲得するよう進言したと言われる名伯楽

29位:土井正博(1943~) 
1975年、トレードで近鉄から移籍し中心打者として活躍。身売りの際、所沢への移転を渋る選手に対し「俺は野球がしたい。だから所沢に行く」と言い、みんなを納得させる。引退後は打撃コーチとして、清原和博・松井稼頭央・中島裕之・秋山翔吾など数多くの打者を育てた名指導者

30位:オレステス・デストラーデ(1962~) 
1989年、途中入団ながら83試合で32本塁打を記録。翌年、NPBでは初となるスイッチヒッターでの本塁打王に輝くなど、勝負強いバッティングで三連覇に貢献する。ホームランを打った後、弓を引くようなガッツポーズでもファンを魅了した

31位:アレックス・カブレラ(1971~) 
2001年、ライオンズに入団。60cmはあると言われた二の腕から繰り出される豪快なスイングで、2年目には当時のNPB記録に並ぶ55本塁打を記録する。大振りするイメージだが、追い込まれると広角に打つスタイルへ変更。通算打率が3割を超えるなど器用な一面も見せた

32位:川崎徳次(1921~2006) 
福岡で育ったと言う事から、球団経営のノウハウがない西鉄が相談に乗ってもらう為、1950年に巨人から譲ってもらう形で入団。エースとして活躍する傍ら、三原脩招聘の橋渡しを行う。1960年から監督に就任するも、三原監督と比較されることが多く、性格的に非情になり切れなかった事もあり、2年で解任される

33位:松坂大輔(1980~) 
甲子園春夏連覇を果たした1998年、3球団が競合の末、ドラフト1位で入団。ルーキーシーズンから3年連続最多勝に輝くなど球界を代表する投手となる。ポスティング費用の60億円で球場整備やファンクラブ改革など、夢とお金を残してくれた。そして2020年、14年ぶりに復帰。伝説の最終章へ、再び時計が動き始める

34位:中島裕之(1982~) 
2000年、ドラフト5位で入団。背番号3を与えられ、期待されて臨んだ2004年にショートのレギュラーを獲得し、2度の日本一に貢献する。勝負強いバッティングとイケメンですこしヤンチャ、でも関西弁のほんわかとした話し方など「2.5枚目」なキャラクターで人気を博した

35位:宇高勲(1907~1979) 
戦後、NPBとは別の組織となる国民リーグを設立も1年で破綻。その後はプロスカウト第1号として中島国彦と共に大下弘の交渉を成功させる。関東地区を担当し、独自のネットワークを用いて、豊田泰光など多くの選手を獲得する

36位:秋山翔吾(1988~) 
2010年、ドラフト3位で入団。2015年シーズン最多安打のNPB記録(216本)を樹立し、日本を代表する選手へと成長。Radikoを利用して、出場した試合や深夜放送を聞く、ラジオ愛好家としても知られる。2019年オフ、シンシナティ・レッズへ移籍。名前の由来通り「吾(われ)は《世界へ》翔(はばたく)」

37位:関口清治(1925~2007) 
1950年、西日本パイレーツに加入。巨人時代に喧嘩別れをした三原脩が西鉄の監督に就任となり気まずい思いをしたが、頼れる選手が少ない事もあってか「今までの事は水に流す」言われ、その後は強打の5番打者として三連覇に貢献する

38位:吉永小百合(1945~) 
堤義明にスキーを教わったことがきっかけで西武ファンとなる。応援していた清原和博には手紙を送り、それを受け取った清原は始めて貰う、結語に「かしこ」と書かれた手紙をまわりに自慢していたらしい

39位:大田卓司(1951~) 
1968年、ドラフト9位で入団。怪我が多くペナントレースなど長丁場は苦手だが、短期決戦には無類の強さを発揮し「必殺仕事人」と呼ばれる。歴代のライオンズ(西鉄・太平洋・クラウンライター・西武)全てで4番を打った唯一の打者

40位:戸谷真人(1946~) 
1969年、文化放送に入社。1985年からライオンズ一辺倒のスタイル「はっきりいってライオンズびいきです!!」に変更。特に解説の豊田泰光とのコンビは名物となった。またキャッチフレーズを付けるのが得意で「オリエントエクスプレス(郭泰源)」などの名付け親


41位~60位


41位:手塚治虫(1928~1989) 「鉄腕アトム」など数多くの作品を世に出した国民的な漫画家。西武が買収したことをきっかけに、堤義明から直接『ジャングル大帝』の主人公レオをペットマークや帽子、球団マスコットとして採用したいとの打診があり、了承する

42位:高倉照幸(1934~2018) 1952年入団。2年目のシーズン、塚本悦郎が結核で倒れたことで得たチャンスを掴み、センターのレギュラーを掴む。その後は1番を任され、初球から積極的に打つスタイルで長打も多く「切り込み隊長」呼ばれ、三連覇に貢献する


43位:田淵幸一(1946~) 1978年オフ、新球団の目玉として阪神からトレードで入団(実は南海と決まりかけていたらしい)。広岡監督就任後初のミーティングで「一番の高給取りなのに、守れないし、走れない…」と酷評されたが、初めて優勝を経験させてもらい感謝しているとの事。2020年、野球殿堂入りを果たす

44位:テリー・ウィットフィールド(1953~) 
1981年に入団。1983年の日本シリーズでは第7戦に走者一掃の逆転二塁打を放ち日本一に貢献。選手としての活躍もさることながらポケットマネーで座席を購入し、恵まれない方々を招待した「テリーズボックス」を企画。球界で馴染みの無かった社会貢献活動を世に広める

45位:阿久悠(1937~2007) 
西武発足に際し、新たな球団歌として「地平を掛ける獅子を見た(作曲:小林亜星)」の作詞を担当する。またピンクレディーの大ヒット曲「サウスポー」はオールスターゲームで王貞治を抑えた永射保に感銘を受けて書いたと言われている

46位:池永正明(1946~) 
1964年入団。1年目から20勝、5年で99勝を記録するが「黒い霧事件」に巻き込まれ永久追放に(現在は処分を解除される)。その後はバーを経営し、球団から選手には「行くな」とお達しがあったが、熱心に来る選手に対しては根負けしてアドバイスを送っていた

47位:永射保(1953~2017) 
1973年オフ、広島からトレードで加入。ステップした右足を極限まで地に着けない「ローリング」という独自の技法で左キラーとして鳴らし、L.リーやT.ソレイタからは「顔も見るのが嫌だ」と嘆かれ、あまりに打てない為、打ったことの無い右打席に入るほど。引退後はシニアリーグの監督となり、永江恭平を育てる

48位:基満男(1946~) 
1966年、ドラフト外で入団。1年目からセカンドのレギュラーを獲得、7年連続で二ケタ本塁打を記録するなど強打のセカンドとして活躍する。真弓明信から「あの人は悩みたがる人なんです」と言わせるほど、職人気質で一匹狼な選手。少年時代の辻発彦が好きな野球選手でもあった

49位:潮崎哲也(1968~) 
1989年、ドラフト1位で入団。甘いマスクで女性のファンが多く、それとは対照的な強心臓と魔球とも言われたシンカーを武器にセットアッパーとして活躍する。2016年、投手コーチとして前近代的とも言える起用法で評価を下げ、一軍監督の座が遠ざかってしまった。現在はフロント入りし、編成グループのトップに立つ

50位:鈴木健(1970~) 
1987年、ドラフト1位で入団。4年目には二軍で4割以上の打率を残し首位打者に輝くも、選手層が厚く中々出番が得られず、デストラーデ退団後、ようやくレギュラーを獲得。4番に座った1997~1998年、リーグ二連覇に貢献する

51位:浅村栄斗(1990~) 
2008年、ドラフト3位で入団。2011年にレギュラーを獲得、送球に不安を抱えることからショートでは失格の烙印を押されたが、2014年からセカンドに固定される。2017年から背番号3に代わり、キャプテンに就任。2018年は打点王に輝くなどリーグ優勝に貢献するが…。それ以上は何も言うまい

52位:レオ(1978~) 
12月5日生まれ。「大人になったレオ」の姿との要望で『ジャングル大帝レオ』でレオの父親「パンジャ」をモデルに制作される。連続でバク宙を披露するなど身体能力に優れているフィジカルモンスター。妹(ライナ)に甘い一面を見せたり、相手チーム(T-岡田)の応援をついしてみたりとお茶目な一面も

53位:松崎しげる(1949~) 
「愛のメモリー」などのヒット曲で知られる声量豊かなヴォーカリスト。ライオンズの球団歌でもある「地平を掛ける獅子を見た」は西武黄金時代、優勝すると西武グループ各所で流れていた事もあり、この曲を聞いただけで圧倒されるセ・リーグの選手もいたほど、西武の強さを象徴する曲となっていた

54位:和田博美(1937~2009) 
1955年入団。1学年下で同郷の稲尾和久とは黄金バッテリーと称され、二ケタ盗塁を4回記録するなど捕手としては珍しく俊足でもあった。引退後はコーチとしてアメリカ野球留学も引率役をこなし、デーブ(大久保博元)・バニー(相馬勝也)などの名付け親でもある

55位:河野昭修(1930~2011) 
1949年、ノンプロ時代の西鉄に入社。西鉄には出向という形で入団。サードの練習を始めるが、中西太の入団でショート、豊田泰光の入団でセカンド、仰木彬の入団でファーストと転々とする羽目に。しかし結果的にはユーティリティプレイヤーとして重宝される

56位:松沼博久(1952~) 
1978年、巨人との争奪戦の末、ドラフト外で弟(松沼雅之)と一緒に入団。西武の記念すべき初勝利を挙げる。1983年の日本シリーズ第6戦終了後、広岡監督が「目をつぶったまま、明日先発したい奴は手を挙げてくれ」と聞いたところ、手を挙げる強気な一面も。現在はお茶目なライオンズおじさんとなりつつある

57位:ライナ(1981~) 
5月5日生まれ。レオの妹として手塚治虫によってオリジナルで製作される。キレッキレのダンスとセクシーさでファンを魅了する。2017年5月30日よりTwitterを開設→https://twitter.com/lions_lina

58位:涌井秀章(1986~) 
2004年、ドラフト1位で入団。「先発したら最後まで投げる」という昔からのチーム方針もあり、150球を超えても投げ続けたタフネスエース。勤続疲労からか2011年以降、不調に陥るがクローザーとして10試合連続で登板するなど、やはりタフな投手だった

59位:片岡治大(1983~) 
2004年、ドラフト3巡目で入団。歴代名内野手が付けてきた背番号7を貰い、時期尚早かと思われたが、4年連続盗塁王に輝くなど期待以上の活躍をみせる。2008年日本シリーズ第7戦での「死球(&ガッツポーズ)→初球盗塁→ギャンブルスタートで同点」の流れは伝説的

60位:和田一浩(1972~) 
1996年、ドラフト4位で入団。入団当初はキャッチャーだったが、素直な性格から向いてないと判断した伊原監督が外野にコンバート。その結果、3年連続で3割30本を打つなど大成功となる。あだ名は「ベンちゃん」だが、松井稼頭央だけは「ピカチュウ」と呼んでいた


61位~80位


61位:中島国彦(1923~) 村上巧兒の指示で西亦二郎と共に「西鉄」設立に奔走。設立後はスカウトとして宇高勲と共に大下弘の交渉を成功させる。素人が故に「南海」が狙う選手を横取り、稲尾和久などの選手を獲得する荒業も見せた

62位:菊池雄星(1991~) 2009年、6球団が競合した末、ドラフト1位で入団。入団当初は左肩を痛めたり、二軍コーチからパワハラを受けるなど回り道をしたが、土肥義弘コーチの指導で才能がようやく開花し、エースの座に就く。2019年、念願のメジャー移籍(マリナーズ)が決まり、記者会見では数年前から勉強していた英語で堂々とした受け答えを行う

63位:豊田清(1971~) 1992年、ドラフト3位で入団。2001年、当時クローザーだった森慎二の不調により、東尾監督に口説かれクローザー転向。「右のこぶしで胸を叩き、レフト・センター・ライトの順に一礼する」ルーティーンは味方には勝利を、敵には敗北を予期させるポーズとなった。2020年より一軍投手コーチに就任

64位:中川充四郎(1951~) マクドナルドの店長を経て、1982年から2008年まで文化放送のベンチレポーターを務める。現在の監督やコーチとは選手時代にリポーターとして交流があった事もあり、独自のルートでの取材網がある。文春野球コラムでは初代西武監督を務める

65位:細川亨(1980~) 2001年、自由獲得枠で入団。伊東勤の後継者として期待されるも伸び悩み、炭谷銀仁朗を獲得し競わせると、お尻に火が付いたのかレギュラーを取り返し、2008年の日本一に貢献する。ど真ん中の球を平気で空振りするが、期待していないと打つ意外性の男

66位:河村英文(1933~2005) 1953年入団。西鉄投手陣の中でも随一のマウンド度胸を誇り、カミソリシュートを武器に5年連続で200イニング以上投げるなど主力投手として活躍する。投手コーチとなってからは球団首脳が決めた東尾修の野手転向に真っ向から反対し、直伝のシュートでエースに成長させる

67位:森繫和(1954~) 1978年、ドラフト1位で入団。入団直後は先発、その後クローザーとなり、西武では初のセーブ王に輝く。引退後は投手コーチとして各チームで辣腕をふるい、ドミンゴ・マルティネス(元西武・巨人)スカウトと共にドミニカとのルートを開拓する

68位:増田達至(1988~) 2012年、ドラフト1位で入団。150キロ近いストレートはナチュラルにスライダー回転するのが特徴。4年目からはクローザーに転向し、豊田清に続くチーム2人目の100セーブを達成する。2018年から選手会長に就任。マイペースな性格から不安視されたが、リーグ優勝時にはキッチリとビール掛けの音頭を取る

69位:炭谷銀仁朗(1987~) 2005年、高校生ドラフト1巡目で入団。高卒ルーキーでは51年ぶりとなる開幕スタメンマスクを被るなど若くから期待され、2011年から正捕手となる。甲斐拓也も参考にした二塁送球時のステップワークなどチーム内外からの評価は高い。現在は日本プロ野球選手会の第9代会長として球界の発展に奔走する

70位:スティーブ・オンティベロス(1951~) 1980年途中、後期からの巻き返しを狙って入団。通算打率は3割以上、三振数が四球数より少ないなど左右両打席からのシュアなバッティングが特徴的。髪が薄くカツラを着用していた

71位:斉藤一美(1968~) 1990年、文化放送に入社。松坂大輔のデビュー戦を実況し、その投球に衝撃を受ける。試合前の「口上」と米野智人の逆転満塁ホームラン時の号泣実況が印象的。夕方のワイド番組「ニュースワイドSAKIDORI」を担当するため、野球実況からは離れたが、現在もライオンズを愛し、ファンから愛されるアナウンサー

72位:いしいひさいち(1951~) 「おじゃまんが山田くん」や「ののちゃん」で知られる漫画家。1979年から「がんばれタブチくん」を刊行。このアニメがヒットしたことで、タブチくん(言うまでもなく田淵幸一)と西武、そして小手指町の地名度アップに貢献

73位:小宮山栄蔵(1912~1979) 岸信之と懇意の関係で平和相互銀行が母体となっていた「太平洋クラブ」の知名度アップの狙いもあり、スポンサーとなる。しかし初年度3億、以後三年間毎年2億という約束は果たされなかった。孫に小宮山雄飛(ホフデュラン)がいる

74位:桜井義明(1921~2004) 「太平洋クラブ」に代わるスポンサーとして、廣済堂グループに加入した「クラウンライター」を年1億の二年契約でスポンサーとなる。またほぼ決まりかけていた「東尾修⇔堀内恒夫&柴田勲」のトレードを寸前で留意させる

75位:今泉京子(?) 「西鉄」設立と共に本社事業部から出向。一般事務全般と球場のウグイス嬢を兼任し、23年間一日も休まず担当する。本当は「みやこ」と読むが、選手などから「きょうこ」ちゃんと呼ばれ、本人もその都度訂正しなかったため、その名前で定着してしまう

76位:伊原春樹(1949~) 1970年、ドラフト2位で入団。1981年からコーチとなり、1987年の日本シリーズでは三塁ベースコーチとして「伝説の走塁」を演出。ベースコーチの存在を一躍有名なものとする。2003年から監督。伊東勤の繋ぎとして2年間指揮し、リーグ優勝1回の後、バトンタッチする。二度目となった監督時代は…触れないでおきましょう

77位:山崎裕之(1946~) 1979年のキャンプイン間近にトレードで入団。職人肌で内野の要としてセカンドを任される。引退後は解説者一本で厳格な解説で知られるが、2017年8月30日、俗にいう「鳥騒動」では、意外な?鳥の知識を披露し、試合再開までの穴埋めをキッチリこなす

78位:田邊徳雄(1966~) 1984年、ドラフト2位で入団。1Aなどの野球留学を経て、石毛宏典のコンバートで空いたショートのレギュラーを獲得。引退後は二軍打撃コーチとして根気強い指導で中村剛也・栗山巧の才能を開花。2014年途中から監督代行として、2年半指揮を執る。2020年より新たに創設された三軍統括コーチに就任

79位:岸孝之(1984~) 2006年、大学・社会人ドラフト希望枠で入団。キレのある4シームにスライダーとチェンジアップ、そして2008年の日本シリーズで巨人打線を翻弄したカーブを武器に活躍。しかし2016年オフにイーグルスへFA移籍。移籍後初登板となったメットライフドームでの試合では、愛憎半ばのファンから大量のブーイングを浴びることに

80位:小倉智昭(1947~) シーズンシートを購入するほど筋金入りの西武ファン。2011年、1毛差【西.5037/オ.5036】で3位が決まった時、朝の番組で「1毛差ではなく5糸差【西.50370/オ.50365】だ!」と紹介。毛には触れないこだわりを見せた


81位~100位


81位:片平晋作(1949~2018) 1982年、春季キャンプ中に南海からトレードで入団。一本足打法から繰り出される長打と堅実な守備で活躍する。解説者としては良いところを見つけて評価する好々爺なスタンスでファンが多かった。2018年の1月にすい臓がんで惜しまれながら死去

82位:石山健一(1942~) 堤義明に誘われ、1978年に就任。球場設計時、後のプロ野球チーム誘致を見越して、敷地内に第二球場・室内練習場・合宿所の設置や近くに湖や貯水池があり、雨が通る道の為、将来的に屋根を付けられるようアドバイスを行うなど、先見の明を持つ

83位:山川穂高(1991~) 2013年、ドラフト2位で入団。入団当初は一軍の壁にぶつかるも、渡辺直人の助言で才能が開花。2018年から二年連続で本塁打王になり、2020年から新たに栄光の背番号3を付ける。幼少期から見よう見まねで、習字・ピアノ・アイススケート・水泳・バレーボールをこなすなど、スーパーアスリートな一面を持つ

84位:春日俊彰(1979~) お笑いコンビ「オードリー」のボケ担当(現在はツッコミに磨きがかかっている説も)。所沢市出身で子供のころから西武ファンで高校時代は球場でアルバイトをしていたとの事。球団の公式イベントでは無敗で、プライベートでの観戦でも長年負けていないらしく、ファンの間から「春日不敗神話」が生まれるほど

85位:源田壮亮(1993~) 2016年、ドラフト3位で入団。空席となっていたショートのポジションをがっちり掴み、チームの変革に大きく貢献。Twitterで「#源田たまらん」のハッシュタグが生まれるほどの華麗な守備は、栗山英樹監督をして「球史に名を残すレベル」と絶賛するほど。オフには同郷の元乃木坂46衛藤美彩と結婚。うらやましいぞ!

86位:石井貴(1971~) 1993年、ドラフト1位で入団。1997年、セットアッパー及びクローザーとして活躍。以後は先発として気持ちを前面に出すスタイルで、その様から「投げる金剛力士像(命名は斉藤一美アナウンサー)」と呼ばれ、投手陣のリーダー格として頼られる存在に

87位:森友哉(1995~) 2013年、ドラフト1位で入団。入団当初より非凡な打撃センスを見せるも、守備位置が決まらず回り道をする。しかし2018年、チーム方針のもと、キャッチャーに専念し、2019年には捕手として4人目の首位打者を獲得。パ・リーグMVPに輝くなどリーグ二連覇に貢献。先輩にもタメ口で話すが、栗山巧だけは敬語に

88位:牧田和久(1983~) 2010年、ドラフト2位で入団。1年目から先発・セットアッパー・クローザーと様々なポジションを任されるも、全てこなす優等生な投手。2018年、パドレスへ移籍するもメジャーの洗礼を浴び、契約満了の後、イーグルスへ。また一人、仙台へ行ってしまった…

89位:金森栄治(1957~) 1981年、ドラフト2位で入団。3年目の1984年、デットボールを受けるたびに大声を出し、身をよじらせる様子が「珍プレー好プレー」で注目され「爆笑生傷男」として一躍有名となる。打撃コーチとして和田一浩・A.カブレラなど多くの打者を育て、流浪の打撃コーチとして様々な球団を渡り歩く

90位:高木浩之(1972~) 1994年、ドラフト4位で入団。年間通しての活躍こそ少なかったが、堅実な守備で貢献する。見た目から足が速いと思われるが、実はそれほどでもなく、普段見ていない解説者がそれを言うと「何も知らないな」とファンがほくそ笑む、リトマス試験紙的な選手。引退後は主に二軍のコーチとして若手の育成に携わる

91位:鈴木あずさ(?) 札幌ドームの場内ツアーガイドの職を経て、2004年から西武球団に入社し、ウグイス嬢を務める。2014年10月2日の試合前に杉谷拳士をいじるアナウンスをして以来、ファンの間で話題となり、2018年にフジテレビで放送された「珍プレー好プレー」では、平成最後の珍プレー大賞を受賞する

92位:土肥義弘(1976~) 1997年、ドラフト4位で入団。左のワンポイントとして活躍。T.ローズ(近鉄)を得意としており「ローズキラー」と呼ばれていた。投手コーチに就任してからは菊池雄星と二人三脚でフォーム固めを行い、2017年は無理をさせない投手起用でAクラス入りに貢献。現在は渉外担当として外国人選手の獲得に尽力する

93位:渡辺美里(1966~) 1985年デビュー。翌年発表した「My Revolution(作曲:小室哲哉)」のヒットで一躍有名に。1986年より西武球場で夏のコンサートが開催され、2006年まで20年間行われる。2018年、40周年記念イベントで生歌を披露。試合が押したため二曲のみとなったがファンを歓喜させる

94位:赤田将吾(1980~) 1998年、ドラフト2位で入団。多少の伸び悩みはあったが、外野にコンバートされ、スイッチヒッターとなり、2004年にレギュラーを獲得し日本一に貢献。引退後、二軍のコーチに就任。若手選手を中心に指導、特に精神面が甘かった森友哉を重点的に指導する。現在は一軍打撃コーチとして「山賊打線」を支える

95位:十亀剣(1987~) 2011年、ドラフト1位で入団。スリークォーターから投じる力強い速球が武器で、2015年には自身初の二けた勝利を記録するなど先発ローテとして重宝される。松田宣浩を大の苦手にしており、あまりの打たれっぷりにライオンズファンは怒りを通り越して、笑いが起きるほど

96位:永谷脩(1946~2014) 選手の懐に入り信頼を得ることで多くの選手から本音を聞き出す。結果的には遺書となった、西武と巨人の裏面史を書いた「西武と巨人のドラフト10年戦争(坂井保之との共著)」は何度、読んでもヒリヒリさせられるほど、きわどい内容が描かれている名著

97位:DJリスケ(1980~) 本名は久米理介。2010年からライオンズのスタジアムDJに。現在は翌年(2011年)から就任したBリーグ、千葉ジェッツアリーナDJなど多岐にわたる活躍を見せる。本人のTwitter曰く、2006年西武の通訳を受けに行くも落選したとの事。鬼崎裕司が現役時代、コールが年々長くなっていた

98位:森慎二(1974~2017) 1996年、ドラフト2位で入団。剛速球と落差のあるフォークを武器に主にセットアッパーとして活躍する。その後、POシステムでメジャー移籍するも右肩を脱臼し志半ばで断念。2015年から投手コーチに就任するが、2017年6月28日急死。皆が悲しみに暮れた

99位:加藤弘士(1974~) 2011年より西武と日本ハムの遊軍記者となり、スポーツ部のデスクを経て、2020年3月よりデジタルの部署に配属される。何かと西武情報が少ない事に不満があったファンとして、紙面やブログ、そしてSNSでの硬軟取り混ぜた記事は大いに楽しませてもらいました

100位:江川卓(1955~) 1978年、ドラフト1位で指名するも入団拒否。翌年買収が決まった西武はグループ総出で口説き落とそうとするが断られ「空白の一日」で巨人入り。堤オーナーにとってこの屈辱が「巨人を倒す」大きな原動力になったので、敢えてランクインさせていただく


プラスアルファ

※ここからは「選手(投手・捕手・内野手・外野手)」「監督・コーチ」「ライオンズ関係者(外部・内部)」をあいうえお順に紹介させていただきます


投手


アレックス・グラマン(1977~) 2006年入団。当初は先発として期待されるも結果を残せなかったが、2年目の途中から後ろに回ると結果が出始め、小野寺力の不調もありクローザーに。翌年はシーズンを通してクローザーとして活躍、日本シリーズでは胴上げ投手にも輝く

石井一久(1973~) 2007年オフ、FAによって移籍。先発ローテの一角として2008年の日本一に貢献。経験が豊富で人望もあることから、多くの投手に慕われ、特に菊池雄星は「師匠」と崇められる。2018年途中よりイーグルスのGMに就任し、いきなり浅村栄斗を口説き落とすなど、現在は厄介な存在となっている

石井丈裕(1964~) 1988年、ドラフト2位で入団。入団当時は先発ローテの谷間として経験を積み、1992年にブレイク。沢村賞に輝き、その年の日本シリーズ第7戦では自ら同点タイムリーを放ち、10回を完投して胴上げ投手になる。現在はライオンズアカデミーのコーチ

井上善夫(1941~2019) 1960年、三原監督に口説かれ入団。その後すぐに退任したので置き土産となる。2年目から先発の一角を任され、1964年には17勝を記録。ライオンズの歴代サウスポーではシーズン最多勝。1964年5月16日の阪急線でノーヒットノーランを達成

江夏豊(1948~) 1984年、ファイターズからトレードで加入。しかし広岡監督とはそりが合わず、ホテルで朝食を取っている際「なんで監督はこういうの(自然食を中心とした食事)を食べているのに痛風なの?」と同じく通風で苦しんでいる身として、素直な気持ちでスーパーKYな事を言い、その後何故か二軍降格され出番がないまま退団となった

大津守(1931~2007) ノンプロ時代の西鉄に入団し、その流れでプロ入り。プロ2年目の1952年から先発として活躍、リーグ初優勝に貢献する。1955年6月4日の近鉄戦でライオンズ史上初のノーヒットノーランを達成する。酒豪揃いの西鉄選手の中でも一番の酒豪だった

小野寺力(1980~) 2002年、ドラフト4位で入団。150キロを超すストレートと落差の大きいフォークを武器に2006年、豊田清が抜けた穴を埋め、クローザーとして活躍する。しかし翌年以降は制球難から不安定な投球に逆戻りし、中継ぎでの登板が多くなる。2011年、鬼崎裕司とのトレードでスワローズへ移籍

岡本篤志(1981~) 2003年、ドラフト6位で入団。6年目となる2010年に中継ぎとして結果を残し、翌2011年はセットアッパーとして後半戦、大車輪の活躍を見せる。人望も厚く、渡辺監督から「ブルペンキャプテン」に任命された。ただ突発的に打たれることがあり、2011年と2012年には自身の誕生日(5月20日)に大逆転負けを喫することも

長田秀一郎(1980~) 2002年、自由獲得枠で入団。2010年および2012年に中継ぎとして活躍するが、2013年、渡辺直人とのトレードでベイスターズへ移籍する。松脂アレルギーのため、ロジンバックが使えず、ライオンズ時代は中島裕之などがマウンドから遠ざけるようにしていた。現在はライオンズアカデミーのコーチ

小田真也(1961~) 1981年、ドラフト3位で入団。永射保から始まる「ライオンズ左の変則投手」の系譜に名を連ね、80年代後半に活躍する。引退後は大泉学園でお好み焼き屋「おだちゃん」を開業したが、その後は故郷(和歌山県新宮市)に戻り、林業を営み、現在はスポーツデポ沼津店で野球のアドバイザリースタッフとして働く

鹿取義隆(1957~) 1989年オフ、西岡良洋とのトレードで加入。後ろの投手不在が四連覇を逃した要因だったこともあり、1990~1992年は潮崎哲也とコンビを、1993~1994は杉山賢人を加えたトリオ、通称「サンフレッチェ」を組み、リーグ五連覇に貢献する

ザック・ニール(1988~) 2020年入団。開幕直後は結果が出ずに二軍落ちするが、周囲のアドバイスを聞き入れる柔軟さと修正能力に長けており、一軍昇格後は12球団屈指の二遊間にゴロを打たせる投球スタイルで、NPB外国人投手記録に並ぶ11連勝とチームの救世主となる。インタビューでの「あざーす」が決まり文句

島原幸雄(1933~1995) 1952年入団。入団当初は上から投げる本格派投手だったが、結果が出ない事もありサイドスローに変更。すると5年目の1956年に3試合連続完封など25勝を記録し、日本一に貢献。その後も先発投手の一角として活躍する

許銘傑(1976~) 2000年入団。「郭泰源二世」との評判だったが、快速球というより横の揺さぶりを得意とした。入団して3年間は先発として活躍するもその後は低迷。しかし2011年、この年から導入された低反発球の後押しもあってか、セットアッパーとして復活を遂げる。2018年から二軍投手コーチに就任

新谷博(1964~) 1991年、ドラフト2位で入団。28歳を迎えるシーズンでのプロ入りだったが、層の厚い投手陣の中、中継ぎを中心に谷間の先発などで活躍し、森監督時代の後期から東尾監督時代に掛けて活躍。引退後は女子野球の監督として優勝に導き、今年新たに設立されたライオンズ・レディースの初代監督に就任

杉山賢人(1968~) 1992年、ドラフト1位で入団。当時の救援陣は鹿取義隆・潮崎哲也と二人とも右のサイドスローだったため、左打者対策もあり中継ぎ陣に加入。この年、Jリーグが開幕したこともあり、「野球版サンフレッチェ」として日本一に貢献する。2018年から二軍投手コーチに就任

高橋直樹(1945~) 1980年オフ、当時カープの江夏豊とトレード話が出た際、ファイターズの大社オーナー並びに大沢監督から「絶対に出さない」と約束されたにもかかわらず反故にされ、広島でやる気を失っていたところ、根本陸夫からお呼びがかかり、1982年の6月にトレードで移籍。西武としての初優勝に大きく貢献する

武隈祥太(1989~) 2007年、高校生ドラフト4巡目で入団。下積み期間が長かったが、2014年に便利屋的ポジションで一軍に定着すると、タフネスな投手に成長する。常に後ろ向きな発言をするが、その「ツンデレ」な態度に愛せるようになればあなたも立派なライオンズファン?!

田中勉(1939~) 1961年都市対抗に参加後、シーズン途中に入団。気が強く、プロデビュー戦で投げた初めての球をボールと判定され、球審に文句を付けたというエピソードも。1966年5月12日の南海戦でライオンズ史上2人目の完全試合を達成

多和田真三郎(1993~) 2015年、ドラフト1位で入団。背番号18番をいきなり渡され期待される中、三年目となる2018年、開幕から先発ローテを守り続け最多勝を獲得。2019年は新エースとして期待されたが、開幕から調子が上がらずオフには自律神経失調症に。時間を掛け、ゆっくりと治していきましょう

張誌家(1980~) 2002年、シーズン途中に入団。ゆったりとしたフォームから繰り出される140キロ半ばの4シームとチェンジアップで三振の山を築き、28イニング連続奪三振のNPB新記録(当時)を作る。1年のみの活躍だったが、不敵な笑みを浮かべながら抑える様は味方にとって頼もしい存在だった

西村貞朗(1934~2015) 1953年入団。2年目から先発投手の一角として活躍。西鉄初のリーグ優勝に貢献する。1958年7月19日の東映戦でライオンズ史上初の完全試合を達成。1-0の緊迫した試合展開にもかかわらず「ワシはやるぜ」と公言して見事やってのけた

野上亮磨(1987~) 2008年、ドラフト2位で入団。2011年に二軍で最多勝となり、翌年以降、先発ローテの一角を担う事となる。6回100球前後で「カラータイマー」が点滅する投手であったが、2017年は速めに交代させたのが功を奏したかキャリアハイの成績を残す。その年のオフ、FAでジャイアンツへ移籍

橋本武広(1964~) 1993年オフ、西武(秋山幸二・渡辺智男・内山智之)とダイエー(佐々木誠・村田勝喜・橋本武広)の大型トレードで加入。当時は最も低い評価だったが、入団後は左の中継ぎとして7年連続で50試合以上投げるなど、チームにとって最も貢献した選手となった

畑隆幸(1937~) 1956年、南海との争奪戦の末に入団。同期の稲尾和久をして「並んで投げるのが嫌だ」と思わせるほどの速球の持ち主であったが、コントロールに難があり、腰痛も相まって大活躍とはいかなかった。「ムツゴロウ」さんこと畑正憲はいとこにあたる

平井克典(1991~) 2016年、ドラフト5位で入団。一年目から順調に登板数を増やし、三年目となる2019年は驚異的なペースで登板。回跨ぎも多く、あまりの酷使ぶりに「どうして平井が投げるんですか?」と声が上がるほど。結果、パ・リーグ新記録の81試合に登板。今年、疲労が完全に抜けているか心配なところ

藤原虹気(1986~) 2004年、ドラフト6位で入団。中学時代、松浦亜弥と同級生だったことでマスコミからネタにされたが、高校時代に負ったひざの故障もあって、一軍登板が無いまま引退となる。現在は二軍マネージャーとして試合終了後、手書きのスコアシートがアップされるように。字が奇麗でこだわりの色遣いなどとても見やすく、重宝しております

ブライアン・ウルフ(1980~) 2016年、シーズン途中に入団。その年4勝を挙げると、翌2017年は2シームを中心に動くボールを武器にゴロの山を築き、後半戦はバテたものの貴重な先発投手として活躍する。ホークス戦の登板が多く、内容はイマイチでも最終的にチームが勝つ強運もあり、重宝される投手に

帆足和幸(1979~) 2000年、ドラフト3巡目で入団。2003年から一軍に定着、伝家の宝刀パームボールを中心に多彩な変化球で打者を翻弄。2000年代の先発ローテーションを支え、ライオンズ通算75勝はサウスポーでは工藤公康に次ぐ2位の成績

星野智樹(1977~) 1998年、ドラフト3位で入団。本格派のサウスポーとして期待されるも伸び悩み、2004年にサイドスローへ変更すると左のワンポイントとして一軍に定着。2009年までの6年間で5度の50試合以上の登板を果たす活躍を見せる。ホールド数105個はライオンズ歴代1位の記録。現在はライオンズアカデミーのコーチ

松沼雅之(1956~) 1978年当時、東都大学リーグの記録となる15完封勝利を記録するなど活躍したが、巨人が囲っていると見抜いた西武のフロントが兄(松沼博久)と一緒に口説き、1978年にドラフト外で入団。2年目の1980年から5年連続で二けた勝利&170イニング以上を投げ、先発ローテの一角として活躍する

マリオン・オニール(1930~?) 1952年、当時は勝率が3割を割ると罰金を払わなければいけないため、板付基地(現福岡空港)に勤務していたM.オニールと協約の抜け穴を利用し、アルバイト契約を結ぶ。2年目には10勝を記録。2020年、Z.ニールまで二けた勝利を記録するまで、台湾人以外の外国人投手では唯一シーズン二けた勝利だった

横田久則(1967~) 1985年、ドラフト6位で入団。2年目に5勝を挙げ期待されるも、その後は右肩の故障に苦しみ、10年目となる1995年に同郷でもある東尾監督の積極的な起用もあり、先発ローテ入り。1998年にはキャリアハイとなる21試合の先発&129イニングを投げる活躍を見せる。現在はライオンズのファームディレクター

ランディ・ウィリアムス(1975~) 2012年入団。コントロールはさほど良くなかったが、190cm以上の長身から繰り出される150キロ前後の4シームを武器に打者を圧倒。3年間、573人の打者に対し、被本塁打わずか2本と西武では珍しく、複数年に渡って活躍した外国人(not台湾人)投手

若生忠男(1937~1998) 1955年入団。12年連続で35試合・100イニング以上を投げ、貴重な先発投手として活躍する。内角をどんどん攻める強心臓が持ち味で、打者に当てヤジられると「文句があるなら出てこい!」と怒鳴り返していた

渡辺智男(1967~) 1988年、ドラフト1位で入団。アマチュア時代から右ひじを手術しており、全盛期は3年ほどだったが、150キロ近い剛速球とスライダーを武器に先発ローテの一角を担う。引退後は四国担当のスカウトを経て、現在はスカウト部長となる


捕手


上本達之(1980~) 2002年、ドラフト6位で入団。強打と意表を突くリードが持ち味で、2011年は西口文也とバッテリーを組み、6年ぶりの二けた勝利をサポートする。一番のいじられ役で、それでいて若手からベテランまで、アドバイスを送れる貴重な存在。引退後はブルペンキャッチャーを経て、2020年より二軍育成コーチに

岡田雅利(1989~) 2013年、ドラフト6位で入団。入団当初より森友哉のサポートと二番手捕手として期待される難しい役回りながら、忠実にその仕事をこなすだけでなく、ムードメーカーやピンチバンターなどもこなし、チームになくてはならない選手となる。2020年より背番号2となり、黒子役としてさらなる活躍が期待される

相馬勝也(1963~2013) 1981年、ドラフト外で入団。アメリカ独立リーグへ野球留学した際、引率の和田博実から「バニー」と名付けられ、それが定着する。引退後はコーチを歴任するが胃がんのため、50歳で死去。1987年に日本一を決めた時、胴上げには参加せず、カメラに映ろうとして、工藤公康と共にバックスクリーンへ向かって、バンザイをしたパイオニア

高木大成(1973~) 1995年、逆指名で入団。入団当初はキャッチャーとして期待されるが、バッティングを生かすためファーストにコンバート。リーグ二連覇に貢献する。引退後はコクドやプリンスホテルの仕事に就き、現在はフロントの仕事に戻り、2018年途中からはTV中継のゼネラルプロデューサーも務める

中嶋聡(1969~) 1997年オフ、メジャー移籍を目指してFA宣言するが契約がまとまらず、西武に入団。伊東勤に次ぐ2番手キャッチャーとして活躍。入団1年目の松坂大輔に責任を負わせない為、東尾監督から「お前が全責任を負え」と専任キャッチャーを命じられる酷な役回りもこなす

野田浩輔(1977~) 2000年、ドラフト6位で入団。伊東勤の後任の座を細川亨と争うも破れ、第二捕手としてサポート役に回る。2008年の日本シリーズ第7戦では同点に追い付いた後、平尾博嗣に回す貴重な四球を選んだのは殊勲の働き。バットの真ん中を持ち、バトントワリングの如く、グルグル回す動きがクセ


内野手


上田浩明(1969~) 1987年、ドラフト2位で入団。強打の内野手という触れ込みで入団したが結果が残せず苦労するが、1998年以降は内野ならどこでも守れる守備の上手さを買われ、守備固めとして重宝される。現在はゴールドジム・ベースボールクラブでコーチとして指導する

エステバン・ヘルマン(1978~) 2012年入団。1番打者としては選球眼に優れ、出塁すれば盗塁の出来る選手であり、5番打者ではチャンスに強く、長打力こそないものの、在籍2年で全試合出場するなど、頼れる外国人打者。四球を選ぶ際、自信満々に見逃し、バットを放り投げ一塁へ歩く姿が印象的

エルネスト・メヒア(1985~) 2014年、C.ランサムの不振により急遽来日。途中入団からの本塁打王はNPB初。その後もチームの中軸を担うが、不振により山川穂高にポジションを奪われる。契約満了によりチームを去るかと思われたが、チーム愛もあり年俸が1/5となったが残留。またお立ち台で「メヒアサマサマヤー」と聞きたいところ

仰木彬(1935~2005) 1954年入団。高校時代は「九州一の速球投手」とも言われたが、内野で唯一決まっていなかったセカンドにコンバートされレギュラーに。その後は将来の幹部候補生として、練習後「三原学校」に呼ばれ、英才教育を受ける。それを生かして後年、近鉄やオリックスの監督として、西武の大きな壁として立ちふさがる

鬼崎裕司(1983~) 2011年、小野寺力とのトレードでスワローズから加入。中島裕之が移籍し、源田壮亮がレギュラーを掴むまでの「ショート不毛時代」に堅実な守備としぶとい打撃、そして「根性バント」で貴重な戦力となる。2017年に引退し、現在は二軍育成担当の球団職員として若い選手を見守る

クリス・カーター(1982~) 2012年に入団。小さい頃から右膝が悪く、代打もしくはDHでの出場に限定されたが、勝負強い打撃とスタンフォード大学を飛び級で卒業した秀才でありながら、ミーティングでは熱い言葉を投げかけるなど熱血漢だった。現在もライオンズ関連のツイートに対して、熱いメッセージを送るなど、変わらぬ熱血漢ぶりを見せている

黒田哲史(1975~) 1992年、ドラフト4位で入団。大型内野手として期待されたが活躍できず2007年に引退。その後は長きに渡り二軍でコーチとして活動し、2019年から一軍内野守備・走塁コーチに就任。三塁コーチを任されると、本塁突入率が12球団トップの成績を残すなど、見事な仕事ぶりを見せる

コーディ・ランサム(1976~) 2014年、複数年契約を求めたE.ヘルマンとは契約を結ばず、代わりとして獲得したものの、全く打てずシーズン途中に解雇となる。選手として活躍した記憶はないのに、一度聴いたら癖になる応援歌が多くの人の記憶として残る

後藤武敏(1980~) 2002年、自由獲得枠で入団。A.カブレラが怪我をしたため、開幕戦にいきなり4番で先発出場。11本塁打を記録するなど上々のデビューを果たしたが、2年目以降は怪我などで結果が残せず出番が減る。しかし2008年に数少ないチャンスをものにして復活。日本一に貢献する

竹之内雅史(1945~) 1967年、ドラフト3位で入団。踏み込んでいくスタイルでボールを避けなかった事もあり、2年目から毎年10個以上の死球を受け、通算166四球はプロ野球歴代2位でパ・リーグ(142個)では歴代1位。試合ごとに打撃フォームを変えることでも有名だった

外崎修汰(1992~) 2014年、ドラフト3位で入団。入団当初はつなぎ役を意識しすぎて結果が残せなかったが、高木浩之コーチからの助言もあり、才能が開花。攻守に何でもできる「スーパーユーティリティー」な選手として、侍JAPANでも貴重な存在に。ボールを避けるアクションが独特で本人は悪いが、つい笑ってしまう

笘篠誠治(1964~) 1982年、ドラフト2位で入団。俊足好打が売りで辻発彦が怪我の時はセカンドで、それ以外で左投手が先発の時はレフトでスタメン出場するなど貴重なバイプレイヤーとして活躍する。「レフト笘篠・センター秋山・ライト平野」の布陣は鉄壁と言われた

ドミンゴ・マルティネス(1965~) 1997年入団。2年続けて30本塁打以上記録するなどリーグ2連覇に貢献。しかし日本シリーズに負けたことから「守れない・走れない」短所を気にしすぎた結果、解雇。代わりの外国人打者が打てなかった事もあり、超貧打打線に陥る羽目となった。現在は古郷ドミニカでスカウトとして大活躍

奈良原浩(1965~) 1990年、ドラフト2位で入団。非力でバッティングには難があったものの、アマ時代に大学日本代表合宿で見た宮本慎也が「東京にはこんなに上手い選手がいるのか」と驚いたほどの守備力で、田邊徳雄とショートのレギュラー争いを繰り広げるなど黄金時代を陰で支える。とにかく一歩目のスタートが抜群に速かった

平尾博嗣(1975~) 2001年、シーズン途中にトレードで加入。身体は大きくないもののパンチ力があり、内野の控えや代打の切り札として活躍。2008年の日本シリーズでは第7戦、決勝タイムリーを放つなど大活躍。ラッキーボーイ的な存在として日本一に貢献する。現在は二軍打撃コーチとして若手の育成を見守る

ホセ・フェルナンデス(1974~) 2004年、S.マクレーンに替わる外国人選手として獲得。怪我で前半戦を離脱したA.カブレラの穴を埋める活躍で日本一に貢献。2005年に退団するが、2010年途中に二度目の契約。2011年にはCS進出に貢献する。2018年から編成部の駐米担当としてアメリカは勿論、中南米の選手ともパイプを作るべく、活動中

真弓明信(1953~) 1972年、ドラフト3位で入団。入団当時から期待されており、コーチの日野茂や基満男、東尾修などの指導を受け、1978年ショートのレギュラーを獲得。経営が苦しかった福岡時代は相手チームの練習用ボールを「借りパク」する様に指示されるなど、様々な苦労を味わう

行澤久隆(1953~) 1979年、トレードでファイターズより入団。規定打席に達することは一度も無かったが、内野ならどこでも守れるユーティリティー選手で守備固めなど貴重な戦力として活躍する。2014年から日本経済大学野球部の監督となり、2018年のドラフトでは同校出身の東野葵を送り出すことに

渡辺直人(1980~) 2013年、シーズン途中にトレードで加入。拾ってくれた恩義もあり、2014年当時はレギュラー不在だったショートで100試合以上出場するなど貴重なバイプレイヤーとして活躍する。自己犠牲をいとわず「黒子」の大事さを説く先生役として多くの選手から慕われた。現役では残り5人となった「松坂世代」のうち、唯一の野手


外野手


大塚光二(1967~) 1989年、ドラフト3位で入団。俊足と堅守で貴重な外野の控えとして活躍。日本シリーズでの活躍が目立ち、1992年の第6戦では右中間寄りのヒットで一塁から長躯ホームイン、1998年は6打数連続安打を記録する。現在は母校「東北福祉大学」の監督となり、2018年には「全日本大学野球選手権」で大学を優勝へ導く

小関竜也(1976~) 1994年、ドラフト2位で入団。4年目の1998年にレギュラーを獲得し新人王に輝くと、その後は堅実な守備とつなぎ役として活躍する。登場曲は「ジーパン刑事のテーマ」でメロディーに乗せて「オ・ゼ・キ」とコールを行うことでも知られる。2020年から一軍外野守備・走塁コーチに就任

垣内哲也(1970~) 1988年、ドラフト3位で入団。身体能力が高く「秋山二世」として期待されるも、中々出番が巡って来ず、同郷の東尾監督が就任してからレギュラーに。1996年には28本塁打を放つも、その後は低迷。「ミカン(未完)の大器」と呼ばれたが、残念ながら熟すことはなかった

金子侑司(1990~) 2012年、ドラフト3位で入団。俊足を生かすため外野へコンバートされた2016年、盗塁王を獲得。守備でどれだけミスしようとも打って取り返そうとするハートの強さが売り。昨年まで外野フライを追いかける度に落ちていた帽子を秋山翔吾に拾ってもらっていたが、今年からはどうする?

河田雄祐(1967~) 1995年のオフ、野々垣武志とのトレードでカープから入団。俊足好打の外野手として東尾監督時、貴重な戦力となる。引退後は13年間に渡り、一軍・二軍の外野守備走塁コーチを歴任。2015年をもって退任するが、2016年からはカープで連覇に貢献し、2018年からはスワローズでコーチになるなど、引く手あまたとなっている

熊代聖人(1989~) 2010年、ドラフト6位で入団。一年目から守備固めなどで出場することも多かったが、年々出番を失っていく。プロ野球選手としてピンチを迎えた2018年、試合前に選手たちを盛り上げる「声出し」で存在感を発揮。いまや無くてはならない存在となる。しかしその台本は炭谷銀仁朗がゴーストライターだったという説も…

佐藤友亮(1978~) 2000年、ドラフト4位で入団。2004年には1番打者として日本一に貢献。「プロ野球選手になれなかったら弁護士を目指していた」とコメントするなどクレバーな選手で、和田毅を得意にしていたことから「和田キラー」としても知られる。2016年から一軍外野守備走塁コーチに就任し、持ち前のクレバーさでチームを支える

G.G.佐藤(1978~) 入団テストで伊東勤に見いだされ、2003年ドラフト7位で入団。屈強な身体を武器に強打でライトのポジションを獲得。お立ち台での「キモティー」は決め台詞に。現在は父親が社長を務めるトラバースで働き、戦力外となった選手の受け皿としても活動する

立花義家(1958~) 1976年、ドラフト1位で入団。2年目には開幕から3番に入り「19歳の3番打者」として注目を集める。この年、レギュラーを掴むと1980年には全試合に出場し3割以上打つなど、キャリアハイの成績を残すなど、80年代前半に活躍する。引退後は様々な球団から声が掛かり、パ・リーグ4球団でコーチを務めている

玉造陽二(1936~) 1955年入団。俊足好打の外野手として活躍する。2年目のシーズン、443打席(390打数)に立つが、当時は400「打数」が既定の為、ランキング入りならず。これに三原監督が抗議したことによって、翌シーズンから打席数【※132試合×3.1=409打席】になったという逸話がある

ドン・ビュフォード(1937~) 1973年入団。メジャーで1000安打以上打った実績のある選手だが「本物のメジャーリーガとしての模範となる選手になる事」を考え、常に100%でプレーした。若き東尾修に対し「もっと内角を攻めろ」とアドバイスしていた

西岡良洋(1961~) 1979年、ドラフト外で入団。「左キラー」で知られ、1985年の日本シリーズ第4戦では福間納から決勝2ランを放ち甲子園球場を静まり返らせる。また強肩で守備力が高く1986年には規定打席不足ながらGG賞を獲得する。現在は沖縄で肉料理屋を営む

羽生田忠克(1964~) 1982年、ドラフト外で入団。野球留学時には若きK.グリフィーJr.を抑え、ベストアーム賞に輝くほどの強肩。しかし当時はまだTV中継が少なく、羽生田自身もレギュラーではなかったため、中々プレーする姿を見ることができず「幻の強肩外野手」として野球ファンの記憶に残る

平野謙(1955~) 1987年オフにトレードで加入。元々投手で強肩としても知られ、GG賞9回を誇る高い守備力、2番打者としては走者を先の塁に進めるスタイルを確立。当時の西武において「辻が出て、平野が送る。そしてAKDで返す」というのが代名詞になるほど

マティ・アルー(1939~2011) 1974年、F.ハワードに代わり途中入団。メジャー時代、首位打者にも輝いた実績があり、まだ肩を冷やしてはいけないことが常識となっていた日本でアイシングの効用を勧めたり、状況に応じてバットを使い分けるなど、教師のような存在だった

森本稀哲(1981~) 2013年、ライオンズにテスト入団。「暗黒時代」とも言われる時期に明るいキャラクターと二軍でも一切、手を抜かない姿勢は選手たちに大きな影響を与え、引退試合では「稀哲さんに回せ」を合言葉に打線が奮起、本当に打席を回す奇跡を演出する。現在、YouTubeチャンネルを解説し、活動する


監督・コーチ


江藤慎一(1937~2008) 1974年オフにトレードで加入。選手兼任監督として迎えられ、豪快なチームカラーから「山賊軍団」と呼ばれるが、行き当たりばったりの采配で、思うようにいかなくなると選手やコーチに対し、罵倒したり時には殴る蹴るといった暴行を働きチームは崩壊。1年で解任される

黒江透修(1938~) 1990年から1993年まで一軍ヘッドコーチとして森祇晶監督を支え、2008年も監督一年目となる渡辺久信監督の元、嫌われ役を買って出てチームを日本一に導いた名参謀。ただし渡辺監督の方針とは合わずに一年で辞任。その後、チームが「緩んだ」事もあって優勝から遠ざかる事となり、逃した魚の大きさを後悔することに

須藤豊(1937~) 1997年、ヘッドコーチに就任。東尾修監督の参謀として2度のリーグ優勝を陰で支える。松井稼頭央にスイッチヒッターとしての心構えとして「右は右、左は左で人格を変えなさい」とアドバイスし、成長をサポートする。ちなみに先の言葉はジャイアンツにいた、レジー・スミスから聞いたもの

宮崎要(1916~1965) ノンプロ時代の西鉄に入団し、セカンド兼監督として西鉄初代監督に就任。ただしプロの経験が無く、厳しさに欠けるとの評価から三原脩を招聘。しかしノンプロ時代から共にする選手から反発があり、1952年までは一応「兼任監督」の肩書が残った


ライオンズ関係者(外部)


安藤かなみ(1991~) 2017年よりNACK5「SUNDAY LIONS」のレポーターに就任。シーズン中はもちろんの事、シーズンオフにも公式Twitterにライオンズの情報を逐一アップし、1000人以下だったフォロワーを2年で15000人にまで増やす。現在は「Full-Count」でe-スポーツの記事などを執筆中

猪狩ともか(1991~) 2014年から芸能活動開始。西武ファンで長年の夢だった始球式を2017年9月8日行う。2018年4月に強風で倒れてきた看板の下敷きとなり、脊髄を損傷。車いすでの生活を余儀なくされるが、9月に二度目となる始球式を行うなど、現在もアイドルとして精力的な活動を行う。2020年9月をもって「仮面女子」及び「スチームガールズ」を卒業予定

江頭重利(1932~) 1952年に久保田スラッガー入社。豊田泰光から「俺は下手やからエラーをしないグラブを持ってきてくれ」と無理難題を吹っ掛けられ、悪戦苦闘しながらもこれに応え、信頼を得る。お湯につける→型を付ける→乾燥→スチーマーで温める→再び揉み解し理想的な軟らかさにする独自の技法を編み出したグラブづくりの神様

河合じゅんじ(1959~) 1987年「月刊コロコロコミック」にて「かっとばせキヨハラくん!」開始。1994年まで連載される。現在は「週刊ベースボール」にてイラスト付きコラム「私情の空論」などの連載を持つ

けらえいこ(1962~) 1994年、読売新聞にて「あたしンち」の連載が開始。2002年~2009年までテレビ朝日系列で放送される。ご自身が住んでいるマンションに涌井秀章が引っ越してきて、その時の紳士的な対応がきっかけで西武ファンとなり、2015年9月23日には「新あたしンちDAY」として、始球式とコラボグッズが発売された

サトウハチロー(1903~1973) 「ちいさい秋みつけた」や「りんごの唄」など多くの作詞を手掛けた名作詞家。1951年、ライオン歯磨(現LION)がタイアップを兼ね「西鉄ライオンズの歌(作曲:藤山一郎)」を楽曲提供する。1958年3月4日には主力選手が集まり、合唱した貴重な音源が今も残されている

塩畑大輔(1977~) 2016年11月より西武の番記者になり、現在はLINE株式会社第3メディア局ニュース編成2チーム。わずか8か月ながら濃密な記事を次々を書き、ファンの心を一気につかむ。加藤弘士記者は水戸一高の3年先輩にあたる

惣田紗莉渚(1993~) 「SKE48」に2013年加入。さいたま市出身でお父様がファンクラブに入っていた影響でファンに。栗山巧がイチ推し。2016年9月9日、始球式を務め、その後もたびたび観戦しており、その模様をTwitterにあげている。2020年3月、芸能活動と並行しながら通っていた青山学院大学を無事卒業する

武井壮(1973~) 大学時代に十種競技を始め、国内のタイトルを数々獲得した元日本チャンピオン。2012年ごろから「百獣の王」を本気で目指しているとの触れ込みでテレビに出演することが多くなり、現在はタレントとして活動している。子どもの頃から西武ファンで、テリー.Wとスティーブ.Oを応援していた

CHAGE&ASKA(1979~2019) CHAGE(柴田秀之)とASKA(宮﨑重明)は共に福岡県の出身で西鉄のファン。1985年に「Vのシナリオ」の作詞作曲、1996年には子供の頃の情景を描いた「NとLの野球帽(作詞&作曲:CHAGE)」を発表

土屋礼央(1976~) アカペラグループ「RAG FAIR」のボーカル。国分寺市出身で子どもの頃から西武ファン、特に石毛宏典を応援する。2008年9月10日、球団サポートソング「全員がヒーロー」を作詞&作曲し、球場で披露

中島大輔(1979~) 『中南米野球はなぜ強いのか(2017年)』「野球消滅(2019年)」など日本の野球界に対して、鋭い筆鋒で提言を行っている。2019年から「文春野球コラム」の西武監督代行に就任。小野和義投手コーチに平井克典の起用法について取材するなど刺激に満ちた内容で、一年目から宣言通り、リーグ優勝を勝ち取る

博多檄獅会(?) 公式ホームページによると1986年に結成。西日本の球場で行われる試合で活動しているが、ポストシーズンなど大きな試合では遠征もしている。ライオンズの公式戦だけでなく、ジュニアトーナメントや栗山巧が主宰するイベントにも参加するなど神出鬼没な活動でも知られる

堀口文宏(1974~) 1991年に萩本欽一が主宰する欽ちゃん劇団に入団。1994年には「笑っていいとも」のいいとも青年隊としてレギュラー出演する。2016年より「LIONS CHANNEL」のメインMCに就任。自身は黒子役に徹し、選手を前面に出すスタイルで信頼を得る。オフには斉藤一美アナとトークライブ「野球愛(ラブ)が止まらないっ!」を毎年開催中

松島茂(1972~2020) 1994年、文化放送に入社。野球だけではなく箱根駅伝や相撲などオールラウンドな実況は、先輩の斉藤一美アナをして「私の遥か上を行った男」と言わしめる。しかし2020年2月23日、肺腺ガンの為死去。文化放送が悲しみに暮れる。なおフリーアナウンサーとして活躍する加藤暁アナは高校・大学でアナウンス部の同期

百田夏菜子(1994~) 2008年より「ももいろクローバー」として活動開始。2017年「ライオンズフェスティバルズ」ではイメージカラーが同じ赤であることから応援大使を任命され、球界にいる「モノノフ」は大いに羨ましがる

山田太郎(1976~) 水島新司原作『ドカベン』の主人公。プロ野球編では1994年に「西武」が指名権を獲得し入団。その後は正捕手として活躍し、2003年オフにFA移籍


ライオンズ関係者(内部)


青木一三(1926~1994) 「マムシの一三」と呼ばれ、阪神などで辣腕スカウトとして活躍。中村長芳に就いた縁で「福岡野球」の取締役となり球団を支える。D.ビュフォード、F.ハワード、M.アルーなどお金が無い中、優良な外国人選手の獲得を行う

池田義定(1922~?) あけぼの通商社長。1978年、ドラフト2位で西武が柴田保光を獲得。それをきっかけに根本陸夫とパイプが生まれ、買い付けで台湾に行くことから出来た台湾人脈から、高校時代の郭泰源を紹介する

市川徹(1978~) 楽天→データスタジアム→西武→阪神を経て、2013年再びライオンズに入社。トラックマンの活用や選手がいつでも動画を見られるようにアプリを開発。管理栄養士の導入やトレーナーの支援、三軍制の導入など他球団から後れを取っていた分野で活躍。今やなくてはならない存在に

太田秀和(1951~) 2006年球団社長に就任。翌年、裏金問題の責任取って副社長に降格するも、以前からの慣習的なものであり、就任以降、球場の一塁側に立って出迎えていた事もあって、ファンは同情的だった。現在は学校法人西部学園の理事長として幼稚園の運営に当たる

黒岩彰(1961~) カルガリー五輪ではスピードスケート(500m)銅メダリスト。引退後は国土計画からライオンズへ出向し、広報などを務める。松坂大輔無免許運転&駐車違反の際には身代わりで出頭し、二人とも書類送検となる

鈴木恵一(1942~) スピードスケート(500m)の選手として、世界選手権3連覇。札幌五輪にも出場し選手宣誓を行う。引退後はチーム広報を経て、清原和博入団後は教育係としてマンツーマンで対応する

鈴木照雄(1946~) 関西地区のスカウトとして、松井稼頭央・和田一浩・中島裕之・中村剛也・栗山巧・炭谷銀仁朗などを探してくる優れた目利きの持ち主

薛森唐(1958~) 読み方はセツ・シントウ。郭泰源を獲得した際、通訳と日本語や日本の習慣を教えるため、慶応大学を卒業したばかりで聡明な人柄を買われ採用される。現在は「富士之堡華園ホテル」の社長

毒島章一(1936~) 現役時代は「Mr.フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)」と称される巧打者。引退後はライオンズのスカウトとして「根本陸夫の右腕」となり、松沼兄弟(博久・雅之)獲得において、懐に入り込み巨人を制して口説き落とす。退団後はJ-SPORTSの解説者として、辛口の解説を行っていた

bluelegends(2006~) 2006年に「Blue Winds」として活動を開始。2011年から現在の名前となる。球場でのパフォーマンスだけでなく、地域活動にも参加している

マーティー・キーナート(1946~) 中村長芳が保有していた「ローダイ・ライオンズ(1A)」のGMを経て、「福岡球団」の営業開発室長に就任。自らライオンの着ぐるみを被るなどファンサービスを企画する

ララ(1974~) ファンサービスとして「本物のライオンを飼おう」というM.キーナートのアイデアで、アメリカの動物園から生後4か月の雌ライオンを50万円で購入。しかし成長スピードを見誤り扱いきれなくなり、数年後動物園に引き取って貰う事に


以上、210人。皆様全員読めましたでしょうか?

順位付けに関してはあってないようなものですが、私の中でライオンズは1970年代、球団存続の危機にあり、その時代を救ってくれた方々を含め、リアルタイムでは見ていないor知らないが、先人たちの敬意を表する意味でも球団関係者を上位にランクインさせたつもりです。

その他、昨年と比較して順位を替えたところもありますので、お時間があるときに読んでいただければ幸いです。


では👋👋

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