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わたしの特性

自分の性格と特性は分けてしまえるものではないだろう。発達「障害」と認められるほどのことはなくても思考、嗜好、の特性で人間関係の中で自己肯定感が低くなってしまう。わたしは自分をそうだと思います。大人になってマシになったような、思春期もわりとのんびりしていただけのような、ともかく人に害を与える方ではなかったようで(迷惑を被った人ももちろんいたと思うけれど)問題児にはならなかった、、と、思います。

そもそもわたしもふくめオタクになっちゃうのは、特性アリなんじゃない?と思いますが、、暴論かな。繊細さん、という言葉もあって、しかしそれほどでもなくて。でも人とは違うなと思うんだ。それを恥じてしまうんだ。

もっとあのとき、あの人を思い遣りたかった、恥ずかしい。自己中だとバレたかな?、、わたしはいまでも人と会った後そんな風に思う。たぶんもうとっくに、周りの人にわたしが自己中で子供っぽいことはバレてるし、それをハイハイと流されてると思う。そして、自分が思うほどそんな自己中なこともないと思う。。思いたい。

わたしは「発達障害」というような話題に自分を寄せて考えがち。自分をそうでないか?と常に疑って見張ってるからだと思う。自分の両親が、父は自分で言ってたし、母は私から見て、その要素がありそう。

父は「通知表にはつねに落ち着きが無いと書かれていた。いわゆる発達障害だったと思う」と。

母は「嫌味ですか?って言われたんだけど、あなたそう思う?」とわたしに自分の言動を確認してきた。ちょっと、人の気持ちが読めないほうかな、と思う。わたしの気持ちも含めて。

両親のことは、アレコレ思いつつも好きで大事で、そしてそんなふたりに大きくしてもらった。それで、ふたりともなんか普通じゃないや、と自分のことを思ってるみたい。うーん、自分も揺らぐよな。

自分のことを言うと、そもそもオタクになる思考が独特だもの。言葉は、話すより書く方がだいぶ饒舌だ。現実でないファンタジーに現実を侵されるほど心惹かれるのは、たぶん人一倍感情移入してしまうからだ。

これからも、たぶん自分を疑いながら見張りながら生きちゃう。でも、自己肯定感は上がってきた。

こどもたちのおかげ。こどもたちのためにも自分を卑下しない。


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