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やりたいけど、できない。でも、大好き。

好きなことって言ったら、趣味として・息抜きとして、普段からやっていることを示すことが多い。

でも、好きなのに、やりたいのに、できなくて、我慢しないといけない。そんなこともある。

***

ほぼ毎日行っている、オンライン英会話。
一度、幼少期の習い事について聞かれたことがある。

「バレエ習ってたよ」

「バレエ!」と先生は目を見開いて、”すごい!”の表情で反応してくれる。オーバーなリアクションが、ちょっと嬉しいし楽しい。

「どれくらい習ってたの?」と先生が続けて聞く。

「うーん、10年くらいかなあ。小学校から中学校までやってたよ」

「なんでやめちゃったの?」

「高校受験のために勉強しないといけなくて」

「ああー」と察した表情の先生。「それからもうやってないの?」

「うん」と答えて、ちょっと身構えた。

”またやったらいいのに”とか、”どうしてまたやらないの?”とか言われるんだろうなあ。で、”お金ない”とか”時間ない”とか言うんだろうなあ。

本当は、いまでもバレエ、やりたいのだ。
正確には、私が習っていたのはモダンバレエ。白鳥の湖とかじゃなくて、もうなんでもありの自由なダンスなのだ。
もうすっかり身体は鈍っているし、かたくなっているけれど、でも、音楽に合わせて身体を思い切り、自由に動かしたい。

思いっきり踊って、”生きてる”って感覚を存分に味わいたい。

でも、バレエやダンス教室は、高いのだ。
オンライン英会話の月額料金の2倍はする。院生のお財布には、ちょっときびしい、贅沢品だ。

こうやって、やりたいのに、”できない”って言うたび、私の心はちくりと痛む。
やりたいことのために、他の好きなことややりたいことを我慢する生活を自分で望んで、受け入れたはずだ。それなのに、”やりたいのにできない”を思い出すと、ほんの少し悲しい気持ちになってしまう。欲張りな痛みだ。

今回も、”できない”と言って、胸がちくりと痛むのを覚悟した。

でも、先生は、”またやったらいいのに”とも、”どうしてまたやらないの?”とも言わなかった。

「それからもうやってないの?」の質問に、「うん」と答えた私に、にっこり笑って言った。

「あーそう。でも、いまでも身体は覚えているんじゃない?」「街中で音楽聞こえたら、踊り出したくなるんじゃない?」

「Yes! Yes!!」と、ぶんぶんうなずいた。

そうなのだ。すっかりなまった身体であっても、”踊る”ということは覚えているのだ。
いつだって、流れてくる音楽に対して、頭の片隅で振り付けをしている。ストレスが溜まると、ひとけのすくない道を歩きながら軽くステップを踏んだり、手を動かしちゃったりする。

気づけばもう、バレエを習っていた期間よりもやめた後の期間の方が長くなってしまっている。足だって全然上がらないし、身体もきっとゆがんでる。体力だってない。踊ること以外の運動は大嫌いだから、いざ踊るっていったって、ひどい有様なのだろう。

でも、私は踊ることが好き。
踊ることは生きることだと思っている。踊っている瞬間は、何物にも変えられない気持ち良さがある。

こんな長文を英語で語ることはできず、ひたすらYesを連呼してぶんぶんうなずくだけだったけど。先生はどうやら私の気持ちをわかってくれたみたいだった。

「あなたの心の中には、いつでもダンスがあるのね」

わかってくれるのか、と、嬉しかった。泣きそうになるくらいに、嬉しかった。

***

やりたいけど、できなくて。
いまはやっていないけど、でも、本当に好き。

矛盾しているって思うだろうか。
好きなことって言ったら、やっていることだって思われるのだろう。
いまはやっていないのに好きって、ちょっと変かもしれない。

でも、私の心の中では、これは矛盾でも変でもないんだ。
それを、あの先生はわかってくれた。

習っていなくても、私の心の中にはいつもダンスがある。

いまは、我慢のとき。
狭い寮の部屋や、ひとけのない道で、ときたま音楽にのって少し手足を動かすことくらいしかできないけれど。

踊り出したい心を携え、近い将来、存分に踊ってやるぞと机にむかうのだった。


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