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〝掴んだ〟感触を持てるか否か。~スムーズに文章を書ける理由を分析~

取材(インタビュー)をして、人の想いなどを聞き、それを記事として文章で書くことが好きな私ですが、
いつもいつも、すんなり事が運ぶとは限りません。

着地点が見えていて意気揚々と書き始め、スムーズに言葉や表現が浮かんできて、一気に書き上げられる時もあれば、
なかなか筆が進まない、どころか、筆を持ち上げることすらままならない時もあります。

その差は何なのだろうか?

それが自分自身で謎で、
今後の自分の人生において取材というこの行為が切っても切れないものだろう(であってほしい)と思うからには少しでもスムーズな時の割合を増やしたくて、
その要因を突き止めておいた方が良いと思い立ち、自己探求してみました。


どうやらキーになっているのは〝掴めた〟という「感触」のようです。


〝掴めている〟取材では、記事原稿を書き出しやすいし、まとめやすい。

一方〝掴めていない〟〝掴み切れていない〟まま終わってしまった取材に対しては、記事原稿を書き出すにも、書き上げるにも時間がかかるのです。
おそらく自分のなかでの書くための準備が整っていないということなのでしょう。

私が日頃行なっている取材、特にインタビューは、大部分が「ことば」のやり取りです。
じゃあ、掴めている/いないというのは、「ことば」が十分/不十分の差なのかと言えば、必ずしもそうとは限りません。

ここで一旦、人の心の構造に注目する必要があります。

「人の心は三層構造になっている」
私が学んでいる大人の絵日記学では、心の構造をそのようにとらえます。
三層の一番外側に「思考」、その一つ内側に「感情・感覚」があり、一番奥底に「コア」というものがある。
絵日記学を学ぶ前の私は、自分の中の矛盾をよく感じていたのですが、それがおそらくこの三層、特に「思考」と「感情」が上手く一致していなかったからなのだと今ならわかります。

と、少し余談が入ってしまいましたが、
この心の三層構造を意識することが、
私の取材と文章作成における謎を解くにも重要な手掛かりになりそうです。

ある出来事が起こった時、
人はまずそのコア(コアとは、その人をその人足らしめるものとでも言ったらよいでしょうか、そこから価値観が形成されていったりするのだと思います)が反応し、何らかの「感情」「感覚」が湧き起こります。
ここで表情や体の動きとして反応が出ることも多く、
取材対象者の話しぶりや表情は、それこそ〝掴む〟上で大事な材料になったりします。

そして、感情や感覚は抽象的なものなので、
それを自分以外の人に伝えるために「思考」を使い、
「ことば」に変換している
わけです。

三層構造に照らし合わせると、

その「ことば」を使っている、選んでいるのには、その人なりの理由があり、
その過程には思考があり、
その思考はその人の中に生じた感情や感覚、
さらにその深層の価値観に端を発しているもの
だと理解することができます。

すると、たとえ表向き、字面としては同じ「ことば」を使っていたとしても、そこに至るまでのプロセスや裏側にある思い、そもそもの大前提が、
取材者(インタビューしている人)の持っているそれと違う
可能性があります。というか、違うことの方が自然でしょう。

つまり、相手のこと、相手の言いたいことを真に理解しようとするならば、
このプロセスと三層に生じている1つ1つ(どんな思考をしたのか? どんな感情を持ったのか? どんな価値観を持っているのか?etc. )を
完璧には無理であれ、理解しようとすることが大切なのだと思います。

少なくとも、「ことば」を「ことば」としてのみ受け取って、
それで相手のことを理解した気になって終わりにしないことが大切
なのではないでしょうか。

それで、〝掴めた〟の話に戻ると。
私が〝掴めた〟と思える時は、これらのことを(自分なりに)〝掴めた〟という時なのだと言えます。
こういう時、言葉の綾以上に、自分の中にリアルに手で掴んだかのような感触があります。

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逆に〝掴めた〟と思えない時には、その感触がなく、代わりにソワソワと不安な気持ちがあります(落ち着きません)。


そして〝掴む〟ためには、十分なコミュニケーションが欠かせないとも思います。
表向きの「ことば」だけにとどまらない、コミュニケーションが。
もちろんインタビューとしては「ことば」で質問し、「ことば」で答えてもらうわけですが、
同時に全神経を研ぎ澄ませて、自分の心の内の触覚で相手の内側を〝掴もう〟とする私がその場にいる気がするのです。


付き合いが長い、すでに何回は取材させてもらったことがあるなど、こちらがある程度考え方や想いを理解している(と思えている)人や、
初対面でも感覚や価値観が近いと感じられる人に取材する場合は、
パッと〝掴める〟こともあります。
それでも、やっぱり私とその人は「他人」で100%同じにはなり得ないし、
言葉を媒介するのであれば多少なりともずれや揺らぎが生じます。
もっと言えば、人は変化する生き物です。
その時その時で考えも感覚も異なるし、使う言葉も変化する可能性は十二分にあります。
なので、やっぱりインタビューの度に〝掴み〟にいこうとする姿勢が大事だと、私は思います。

初対面の人や、価値観がかなり違うと感じる人などに対しては、言うまでもなくなおさらです。


文章を書くというロジカルな行為に対して、なんとも感覚的な話になってしまいましたが、この感覚は大きく外れてはいないのではないかなと思います。
というのも、「理解する」という意味で「掴む」という表現を私たちは日頃から使っていますよね?
「相手の意図を掴む」とか、「イメージを掴む」とか。

さらに面白いのは、それが英語やドイツ語でも、同じような表現が見受けられるということ。
英語のgraspも、ドイツ語のgreifenも、どちらも「掴む」という意味ですが、「理解する」の意味でも使われます。
(私がわかるのがこの2つのみですが、ほかの言語にも当てはまるものあるかしら?)

言語や文化は違えど、人間の根本的なところでは通じている場合があるんだなということも、今回の探求のおまけとして学びました。



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