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言葉や文章が好きな理由

昨日撮った写真データを保存するためにUSBのデータを確認していたところ、いくつかWordデータが保存されているのに目が留まりました。
中身の記憶がほとんどなく(笑)読み直してみたら、自分的に面白かったので、拙いのですがアップしてみます。

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(大学時代、ドイツ語を主専攻しており、その時に授業で書いたレポート)

ドイツ語を言語学的に眺めてみて感じたこと
 
「ドイツ語」とタイトルに掲げ、もちろんそれはこの授業がドイツ語の概論の授業であったからであり、授業では当然ドイツ語を扱ったが、もっとも印象に残っていることというのは、言語全般に関すること、更には人間の考え方に関すること。それが何かというと、「言語は生きている」ものだということである。

ドイツ語を含め、言語には規則があり、それがその言語を特徴付けたりしているわけである。しかし、全て規則でがんじがらめではなく、例外と言うべきものは必ず、何個も見つかる。言語の全てを、理論や数式できっちり説明しようとしても、無理な話なのである。そう、論理というものは絶対ではなく、不十分・不完全なものなのである。しかし、そういった欠落があっても、私たちは言語を使う時に困ることはなく、コミュニケーションは成立している。

その欠落部分を埋めるのは、実際に言語を理解し、使いこなすために必要なのは、「生きた想像力」だったり、現実に即した「共通認識」だったりする。それを我々、言語を操る人間は、無意識のうちになしているのだと、改めて思った。

例えば、「傘を電車に忘れた。」ドイツ語では、“Ich habe den Regenschirm im Zug vergessen.“ 当たり前のように使っていたが、その意味するところ、事実は、「傘を持ってくるのを忘れた。」“Ich habe den Regenschirm mitzunehmen vergessen.“ ということである。しかし、先に挙げたような、部分的削除が為されている表現でも、互いに会話は通じる。これは何故かといえば、聞き手の方が想像力によって、省略された部分を補っているからなのだろう。普段生活している中で経験してきた日常的な感覚、互いに通じる共通の認識があるからこそ、といえる。

また、言葉と想像力の結びつきを強く感じたのは、ドイツ語の前置詞あるいは前綴りである。ドイツ語を習い始めた時は、とにかく単語の意味を暗記するしかなかった。しかし、それなりの期間習い、また留学してドイツ語を日常的に使う中で、単語をイメージで理解できるようになっていった。それが一番通用したのが、この前置詞・前綴りだと言えると思う。
例えば“ab“なら、その行為や出来事の結果、話題のものがなくなる状態を想像できる。“mit“なら、共にというイメージであるのは、明白だろう。そんな風に、イメージで単語の意味を解釈できるようになってからは、単語を覚えるのも、理解するのも、使うのも、すごく楽になった記憶がある。自分の言いたいことをより多く、より正確に表現できるようになった。

そのようなことを自分で分析したことはなかった。しかし、だからこそ、このドイツ語学の授業で「事実と解釈」の話題が出てきた時に、ストンと納得がいったのだと思う。日本語は、よく省略が多く、曖昧な言語だと言われる。しかし、ドイツ語でだって、表現が省略されることはあるのだと認識することができた。

結局、言葉を操るのは人間であり、そこには常に感覚や想像力が伴う。発する側も、受け取る側も。それによって成立するのが生きたコミュニケーションと言えるだろう。

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今回読み返してみて感じたのは、ここに書いたことはすっかり忘れていたのだけれど、考えている内容については今も変わらずそう思えることでした。成長していないと言うこともできるかもしれないけれど(笑)

私が言葉や文章が好きだったり興味をそそられたりする理由は、
そこに、コミュニケーションや人間の思いみたいなものが関わってくるから、それらを表現するためのツールであるから。それゆえに想像力(あるいは創造力)や感性が必然的に備わってくるから
ということが大きいのだなと改めて気づくこともできて良かったです。
そして、昔学んだことは意外と無駄になっていないなと嬉しくもなりました。


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