見出し画像

2+2=5

去年、渋谷の歩道橋を歩いていると、大きな虹が架かっていた。
ビル群に覆いかぶさるように架かる虹は、街行く人々の視線を集めていた。歩道橋は見晴らしが良く、足を止める人も多い。
その人々のほとんどが、スマホ越しに虹を見ていた。
それを見て、なぜか、ぞっとした。

私の脳内に浮かんだのは、小説1984年のディストピア世界だった。
人間の感情とそれを表現する方法は、案外簡単に変わってしまう・変えられてしまうのではないかと、怖くなった。
こんなに簡単に人間の感情とそれに伴う行動が変えられるなら、いかなる倫理観も社会常識もじわじわと変えることが本当に可能なのではないか
「綺麗」「すごい」を表現する方法が「スマホで撮影」になったら、あらゆる言葉が要らなくなって、言葉が排除されていって
感情は行動に直接紐付けられて、行動を誰かが裏で操作して、つまり人々の感情も操作して、そしたらみんなビッグ・ブラザーを愛するようになって
まで頭を駆け巡り、家に帰って1984年を読み返した。

庵野秀明氏『巨神兵東京に現わる』で、「圧倒的に得体の知れない非日常を携帯で撮影する人々」を観たのはもう8年前。携帯・スマホで撮影するという行為は、私たちの日常の当たり前になっている。私が生きているまだ短い人生の中で、当たり前でなかったものが、当たり前になっている。
人々の好奇心を表現する手法として「スマホで撮影する姿」を見るようになってからも久しいけれど、渋谷で、不気味なほど綺麗な虹を大勢の人々が撮影する姿を目の当たりにして、ああ本当にこうなるんだなと、生々しく感じてしまったが故の戦慄だったのだと思う。

変わるわけがないものなんて、ないのかもしれない。
変わるしかない世界の中で、ひとり物思いに耽っていた自粛期間中、私はこれまでの人生で一番、戦争を身近に感じていた。
平和ボケって、世界はそう簡単に変わるわけがないって、どこかで思っている状態のことだ。

この数ヶ月で、一席空きの映画館に数回足を運び、先日久しぶりに、両隣の席に人が座っている状態で映画を観た。なんだか落ち着かなかった。
他人と距離が近いことと、うっすらとした恐怖が、すでに紐付けられつつある。放っておくと、コロナとか関係なく、他人との距離感の当たり前が簡単に変わる。「世の中がそうだから仕方ない」で諦めないためには、本当に何が大切で何が好きで何を守りたいのか、たまに立ち止まって自分に言い聞かせないとだめだ。変えることだけじゃなくて、変えないことにもエネルギーが必要なんだきっと。

ひとりでこんなこと考えて、しょうもないやっちゃなと思う。
でも、こんな不毛なことを自由に考えられる世界が、私は好きだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?