日記(4/17~4/23)

月曜日
地図上では大学構内から川沿いの道を進むのが自宅までの最短ルートである。少なくとも地図上ではそのはずだった。四限が終わってすこし辺りが暗くなって、サークル勧誘でガヤガヤしているあたりを離れてひとり小川のほうへ向かった。
少し遠くの喧騒と小川のせせらぎを聞きながら歩くと、下草が急に揺れて水音が響いた。水鳥が慌てて水に飛び込んだらしいのが薄暗いなかでも分かった。建物と建物の狭いあいだを縫うように川は流れていて、川面は窓から漏れた明かりをうけてぬらぬらと反射していた。しばらく進むと川は一度橋の下を潜って暗い林の方へ流れて行った。小川沿いの道はそこで途切れた。ここから先は下草が茂っていて進めないようだった。水が渦を巻くぐもった音を聞きながらしばらくぼんやりしていた。そばの道に進むと、いつのまにか賑やかな夕方の街のほうへ出ていた。なんだか夢を見ているようだった。

火曜日
とりたい講義があるのに、同じ時間に必修があるのは何なのか。なお学生証がICで読み取られるので厳密に出欠をとられている。ピッってやるだけやって講義に出ないというのも考えたが、なんと講義室への入室時と退出時で二度ピッしないといけないのである。さらに入念な教授はそれに加えて課題の提出状況を確認して出欠とするのである。大学側は生徒の善性を一切信用していないようである。で、必修科目は何をやるのかというと英語試験のための自習時間なのだ。そこに意味はあるんか。その時間で「詩をよんでみよう」の講義に出てはダメなのか。あれをやれこれをやれと言われてその通りにするだけでは、内容が高度になっただけでやっていることは小学校生活と同じではないか。憤懣やるかたない。たたかえ。支配体制に抗え。バイクを盗んで走り出すしかないと思い詰めてお友達に話したら、「それはおまえ、分身術を身に着けていないおまえにも責任があるよ」と言われる。目から鱗である。わたしが爆睡していた入学式で分身のガイダンスがあったようなのだ。反省した。自己を磨き内省を深め、分身術を身に着けるべくそこらへんの山にこもります。

水曜日
まだ詳しいことは言わないが、詩を載せてもらえてとてもうれしい。うれしすぎて最近ずっとニコニコしている。ほかの人のつくった詩であったり表紙であったりタイトルであったりが、自分の詩に幅を持たせてくれているように感じた。ニコニコしていたらお友達に「機嫌良すぎできもい」と言われた。見せていただいた原稿を見返してはニコニコしている。確かにきもいなと自分でも思った。

木曜日
遠回りを心がけると思いがけないものに出会う。ビル群に囲まれた古い屋敷であったりとか、写真の現像屋とか、うずたかく本の積まれた古本屋とか。

金曜日
「こういうことをやったら詩が面白くなるのでは」と考えても、私の頭で思いつくものはだいたい先人がはるか上を行くクオリティで実践済みだったりする。別に先人の跡を追ってもいいのだが、明治期くらいに取られた手法をさも自分が始めたかのような顔をするのも恥ずかしい。それに私はあまりに詩を読んでいないし、あまりに詩を知らない。いい詩にぶつかるとそのあと数週間まったく書けなくなるので、純粋な鑑賞とは少し違うアプローチで詩を見つめたいという気持ちがずっとあった。というわけで、近現代の詩の流れについてちょっとづつ勉強しようということになった。まだ学科移行していないので大学での本格的な研究はできない。まあ自由研究ということで気楽にやりましょう、と思って参考資料を探しに図書館へ行った。

土曜日
素敵な外国人留学生の方が「大学の図書館には行きましたか?」と聞いてきた。「行きました」と言うと「書庫は見ましたか」と言われる。書庫はまだ、と言うと、「ぜひ行ってみてください。閲覧室の本は氷山の一角です」と、滑らかだけど独特のイントネーションで囁かれた。書庫の妖精か何かなのだろうか。「氷山の一角」という言葉選びのせいで、なんだか無数の本たちが寒々しい海の奥底でじっと息を潜めている想像をした。

日曜日
お友達と遊び、新歓に行く。オンライン新歓は何も奢ってもらえない。

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