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ルーマニア公演の延期について

本来であれば、本日は『しあわせな日々』ルーマニアのブカレスト、クルージュの2都市ツアー初日でした。昨年2月から助成金申請や、日程調整や、現地に実際に行って話したり、わざわざ羽田まで出向いてカタール航空のカウンターに行き、「このバカでかい鉄の塊運んでくれるの? ほんと? Webでは大丈夫って書いてあるけどほんと?」と問い詰めたりとあれやこれやを重ねて来たわけですが、このご時世なので延期になりました。

もし、実現していたら、きっと前回のツアーと同様、ヘドロのような日記をFacebookに書き散らし、アフタートークのための英語の準備をしたり、本番への緊張で開演前に何回もトイレに行くのを座組の人々から小馬鹿にされたり、あたふたと落ち着きのない演出家の行動が主演女優の逆鱗に触れていたりしてた頃でしょう。

さて。

我々が上演を予定していた『しあわせな日々』というのは、サミュエル・ベケットという劇作家が書いた、なぜか丘に埋まった女(ウィニー)と、歩けない男(ウィリー)の夫婦を描いた不条理劇です。第1幕では腰まで埋まっていた女が、第2幕では首まで埋まります。そんな身動きの取れない状況で、女は1時間半にわたって、意味があるのかないのかよくわからない話をし、男はほんの数回、全く意味のわからない言葉を喋ります。

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懸命なる諸兄はおわかりのように、「身動きが取れない」という彼らの状況は、今の我々が置かれている状況の隠喩のように捉えられます。しかし、そんなベタな類似で「ほら、今を描いた作品でしょ?」と言えるほど僕は下品ではありません。そういう安易な作品を見ると、演出家を引きずり回したくなりますよね。僕はなります。

しかし、その一方で、僕は普遍性を信じていないので、上演を行う場所、状況、時代によって、作品は変わることが適切であると考えています。今回は、「政治」をその中心に据えようと思っていました。

この作品は、過去2回日本で上演しています。そして、過去2回とも、僕は執拗にこの作品が「政治的な話」であると主張してきました。しかし、それは伝わっていません。それもそのはず、僕自身、ほとんど直感と意地で言い張っているような状態なのでした。だから、それをちゃんと昇華させたかったのがひとつ、もう一つが、今の、感染症が蔓延している状況に対して「政治」としてこの作品をぶつけたらどうなるか、と考えたからです。

「政治」と言っても、じつはその指し示す意味が「政局」であったり、「反政権」と受け取られるような昨今ですが、そのような小さなことを演劇で語ることについては、個人的にはあまり興味がありません(尾崎行雄は「内閣を倒すことなど手柄でもなんでもありません」と演説で述べています)。あるいは、政治と言えば、権力機構の話や再分配などの統治機構の話も指しますが、もうちょっと大きな話、あるいは原理的な話としてこの言葉を捉えたいと考えています。

「politics」という言葉がギリシャにおける「polis」を語源とすることから拡大解釈をして、政治は「場」について、あるいは「場を構成しているシステム」を指す言葉なのではないか、と解釈します。

しかし、それだけではどうも具体性に欠けます。もう何個かステップを用意しなければなりません。どうしたもんだろうか……、と考えあぐね、カタール航空の言うことが二転三転してイライラしていた頃、偶々入った古本屋で偶然買った、岸政彦の『断片的なものの社会学』(朝日出版社)に書かれた次のような言葉は、僕にとって「政治」の言葉であるように思えました。

「私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界に一つしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである」

小学校の時、岸は道端に落ちていた小石をじっと眺めるのが癖であったといいます。この前段で、彼は「この小石が『かけがえのない存在であることが明らかになる』というようなありきたりな『発見のストーリー』なのではない」と念を押しています。「固有性の発見」ではなく、無数の「断片」によって世界が構成されることを、彼は発見したのでしょう。

生きているこの「場」について、普段、我々は「全体」を把握しているかのように振る舞います。あるいは、把握している範囲を「全体」と矮小化してしまいます。まるで演劇のように、さも観客席から「世界を見渡せている」と考えてしまう。例えば、それ知ったからといっても「この私」にとってはほとんど意味を成さないはずの感染者数を、それでも確認せずにはいられないように。

私たちは、今、そんな「全体」がないことによって引き起こされる不安にさらされています。しかし、我々は本来的に「断片」にしか過ぎません。そして、『しあわせな日々』という作品にひきつけて言うならば、ウィニーという丘に埋もれた女が指し示すのは、この全体から切り離された断片としての姿だったのではないか。彼女が話している(つまり、観客に手渡される)とりとめのないその言葉も、彼女が経てきたことの断片に過ぎません。

私は断片にすぎない。

感染症が蔓延する中で僕が得たのは、そんな、ひどく当たり前の認識です。

そして、そのような認識の上で、「断片が断片として屹立すること」「あるいは断片が断片であるままに満たされること」、もったいぶった言い方をしなければ「舞台に登場するどう見てもマトモじゃない2人のどうしようもない身体がやばいくらい魅力的になること」、それは、私たちが生きるこの「場」や「場を構成するシステム」を描く「政治」であり、それが成功したならば、「断片」によって「全体」を凌駕する、つまり「場をくつがえす」という意味で「政治的な作品」となりうるでしょう。

もしも、この状況で奇跡的にこの作品が上演できていたのなら、きっと上記のような思考のアウトラインをより精緻にして、なんとか具現化しようと試みていたはずです。もちろん、思いつきで好き勝手言うのは簡単で、それを実現するのには大変な労苦が待っていたのでしょうが、そんな方策を思いついたのに実現できないということは、そんな労苦よりも遥かに辛いものがあります。

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抽象的な話ばかりなので、最後に現実的な話。

今回のツアーは、アーツカウンシル東京の助成プログラムに採択されていて200万円以上の助成金が内定しており、また、僕はセゾン文化財団のジュニアフェローに採択されているので年間100万円の活動資金を獲得しています。上記のような助成金の支えによって、今回の延期に伴う赤字額は、ジャイアントパンダ2〜3日分のレンタル料といったところでなんとかとどまる見込みです。しかし、これらの助成金がなかったら街をさまよいながらメルカリで売れるものは無いかと血眼で探したり、今原油を買ったらきっと……などと両目を$にしながら考えていたことでしょう。

金銭的には恥ずかしいほどに余裕がないのですが、それでも我々は演劇の中ではまだ「恵まれている」方です。

もし、金銭に余裕がある方は、公演自粛を迫られた劇団(多くの劇団が法人ではなくほぼ任意団体であり、個人単位で借金をしなければならない)、もしくは何週間もの拘束になるため、仕事のオファーが半年〜1年以上先というサイクルで動いている(つまり、ある公演がキャンセルになっても別の案件で穴埋めできない)演劇の出演者・スタッフ、あるいは、自粛によって劇団からキャンセル料も取れず、家賃や人件費がかかる一方の民間小劇場などに対して支援をお考えいただければ幸いです。例えば下記のような支援の窓口があります。また、各劇団でも個別にクラウドファンディングを行っていたり、映像配信を行うなどしてなんとか収益を確保しようとしています。

泡沫劇団の主宰者という立場から感じるのが、もちろん金銭的な支えがあることも嬉しいけれど、それよりも、100円でも支援してもらうことによって「続けていいよ」と背中を押されること。「励み」は何にも代えがたいものです。







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