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仕事に対する認識を改めた日

昨夜ふと、考え続けていた事の答えが出た気がした。

「別に仕事に生き甲斐ややり甲斐を見出さなくてもいいんじゃない?」
「仕事はお金を稼ぐための手段と割り切ってしまっていいんじゃない?」

前に「仕事はお金を稼ぐ手段として考えること」と聞いた時は、精神状態が不安定で、言われたとてすぐ切り替えられる状態ではなかった事もあって、聞き流していた。

最近の私は、主治医からもうそろそろ少しずつ働くために情報収集をし出してもいいと言われてから、様々な求人だったり、就労移行支援だったり、職業訓練だったりを調べていた。

どうにかこうにか、長く働けるところ、スキルを身につけられるところ、資格の取得について、人とはあまり関わらないけれど、それでも誰かの役に立てる仕事、、なんかを探していた。
しかしそうやって情報を集めて続けることに、少し疲れてしまった。

そもそも、もうこんな状態になってしまってから、母からは近くのパートやアルバイトでもいいと言われているのに、なぜ自ら高望みをしてしまうのか。
きっと、私の心の奥底にある「世間一般の常識」が今の状態の自分を拒んでいるからかもしれない、なんて考えた。

世間の目は常に誰かを見張っているような気がして。その中には自分も含まれている気もして、気が漫ろじゃなかった。(どうでもいいけど「気がそぞろじゃない」っていい日本語だな、そわそわする、という言い回しらしい)

実際はそんなこと一切なくて、誰かに見られていると思っても、実際に誰も見ていないのはわかっているし、何をどうしたって自分はもう精神障害者の仲間入りなわけだし、もう諦めた方が明らかに楽なんだ。
世間一般の、いわゆる普通の、平日フルタイムで働ける大人にはもうなれない。


話が逸れた気がする。
私は今まで就いてきた仕事で、生き甲斐ややり甲斐を見出してきた。
接客や販売をしていた時はお客さんが喜んでくれるのが嬉しかったし、病院の病棟クラークの時は関わる人の役に立てるのが嬉しかったし、鬱になったきっかけとも言える電話対応でさえ(クレームは別として)感謝されたり、アンケートで名指しで「またこの人に対応してもらいたい」と言ってもらえるのはかなり嬉しかった。しばらく自己肯定感を高められた。
普通の一般事務だって、同じ会社の人たちの役に立てるのが嬉しかった。

しかし、そのうち「このまま自分は同じことを永遠に続けていくのか?」と思うと、何とも言えない気持ち、絶望とも呼べるような気持ちに苛まれてきた。

私は勝手に仕事に対して生き甲斐ややり甲斐を見出しては、自ら絶望していたんだ、と。
仕事を生き甲斐にして働ける人も中にはいる。世間の役に立っている人も勿論いる。でも全員がそうである必要はないし、向き不向きもあるし、自分だってそうじゃなくていい。まさに十人十色。

私は仕事に対して何も考えていなかった学生だった。
その時が楽しければいいし、大学4年の時だって就活もまともにしていないし、何を今更生き甲斐だのやり甲斐だの、普通の人みたいに取り繕っていたのがボロを出しただけだ。

そうして今やっと「仕事はお金を稼ぐ手段として考えること」がスッと耳に入ってくるようになった。
私の人生としての生き甲斐ややり甲斐は、別に仕事で見出さなくていい。

という事を書くことによって脳内を整理したかったのに、危うく「どんな仕事でもやり甲斐を見出すことができたから今更何考えてる!何やってもオッケー!」みたいになるところだった。あっぶな!

要するに、仕事で生き甲斐ややり甲斐を見出す必要は無いし、仕事以外に生き甲斐ってたくさんあるはずじゃん、という事。

そうして昨夜は自分にとって好きなものや好きな人のことを考えていたらいつの間にか寝ていました。幸せな寝つきだこと。


何も無くなったら、いっそ何でもできる!という気持ちも出てきてくれるようになったから、色んなことにも挑戦したいと考えてる。そう考えられていることが嬉しい。

高校生の時にとった漢字検定2級、準1級も受験したけど数点足らずで落ちてしまって、そのままだから、漢検を受験したいなとか、むぎちゃんの影響で色彩検定も取りたいなとか、役に立たなくても、自分にとっても達成感を大事に生きていきたいなと思う所存です。

そのうち心理カウンセラーとかも取りたいなとか考えていて、自分の状況をどうにか上手く使いこなせられるようになりたい。
ヒロアカの個性じゃないけど、自分の能力だったり、状況だったりを上手く使いこなすって最早才能レベルで難しい。



そういえば、2024年の手帳についての情報がたくさん出ていますね。
色々考えている最中だけど、また折を見てnoteに手帳会議として書きたいなと思っています。

終わり。

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