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第1話 なぜ、紙幣をコピーしてはいけないのか?


紙幣に価値があるなら、コピーして増やせば
社会の中の価値が増えそうだ。
なのに、コピーすることは禁じられている。
その理由は、僕たちが紙幣を使い始めた歴史に隠されている。

Question2
日本中の人が紙幣を使い始めるようになったのは、
どうしてだろうか?

A 金(きん)に交換することができたから
B 税金を払わないといけないから
C 日本銀行がその価値を保証しているから



正解 B  税金を払わないといけないから


紙幣そのものに価値はない

 突然、見たことのない紙幣を渡されたらどう思うだろうか?

 ある日、あなたが営む花屋さんにお客さんがやってきた。「花を売ってほしい」と言って紙幣らしきものを渡された。どうやら外国の紙幣のようだが、どれくらいの価値があるのか見当がつかない。紙幣なのかも疑わしい。そんなものと大切な商品との交換に応じることはできないだろう。

 見たこともない紙幣に価値を感じることはできない。僕たちがいつも使っている一万円札だって、立場を変えれば同じ話だ。アマゾンの奥地に住む日本のことをまったく知らない人たちに一万円札を見せても、交換には応じてくれないだろう。

 僕たちが一万円札に感じている価値を、彼らに示すことはできない。それはつまり、一万円札自体に価値があるわけではないということだ。


 では、僕たちはどうして紙幣に価値を感じているのだろうか?

 辞書や専門書を開くと「政府が価値を保証し、みんながその価値を信用しているから」という説明から始まり、政府や中央銀行によってどうやって紙幣の価値が維持されているか、価値を保証する方法についての解説が続く。

 お金の話が、どんどん眠くなっていく。

 たしかにおっしゃる通りだ。政府が価値を保証しているから紙幣が使える。だけど、そんなことを意識して使っている人がどれだけいるのだろう。

 「みんなが使っているから」「みんなが価値があると信じているから」というシンプルな理由で使っている人がほとんどだろう。

 しかし、実は日本の中で、紙幣に価値を感じていない組織がある。

 日本銀行だ。彼らは大量の紙幣を破り捨てている。

 そこに、紙幣の価値を解き明かすヒントが隠されている。


すべてのチケットは「将来の約束」

 以前まで、日本銀行の見学ツアーに参加すると、シュレッダーで裁断された一万円札の入ったボールペンがもらえたらしい。一万円札を裁断するなんてもったいない話だ。なぜ、日本銀行は紙幣を破り捨てたりできるのだろう。

 一万円札をよく見ると「日本銀行券」と書いてある。紙幣は「券」、つまり「チケット」の一種なのだ。

 旅行ギフト券、デパートの商品券、映画のチケット。子どもの頃、親にプレゼントした肩たたき券。すべてのチケットに共通するのは、「将来の約束」だ。チケットを発行した人は、チケットを持っている人に「約束」している。映画のチケットは映画を観せる約束だし、肩たたき券は肩を揉みほぐしてあげる約束だ。

 たとえば、母の日にあなたが1回30分の肩たたき券を10枚プレゼントする。

 さっそく母親が1枚目を使う。1回につき30分も肩を揉みほぐすのはかなりの重労働だ。あなたは10枚も渡してしまったことをちょっと後悔した。

 でもしょうがない。あと9回は、肩たたきをしないといけない。その後も、2回、3回と母親の肩をたたいた。

 ところが、4枚目のチケットを使ったのは、隣の家に住むおばさんだった。彼女は庭の柿を母親に10個あげたらしい。そのお返しに肩たたき券を2枚譲り受けたというのだ。

 5枚目のチケットのお客さんは、向かいの家の中学生だった。おばさんの庭を掃除したお駄賃として、おばさんから肩たたき券をもらったらしい。

 あなたが「肩たたき券(1回30分)」とだけ書いた紙は、柿と交換され、さらに庭掃除のサービスと交換された。もはや、それはただの紙切れではない。紙幣と同じ役目を果たしている。母親に聞くと、すでに手元にチケットはないと言う。残りのチケットはすでに誰かの手に渡っているらしい。

 6枚目、7枚目と知らない人の肩たたきをしたあと、誰も肩たたきを依頼して来なくなった。あなたの肩たたきが街中で大評判になり、残りの3枚は紙幣のように出回っているらしい。

 今や、街中のみんながその紙に価値を感じている。そのチケットが道端に落ちていたら、誰かに拾われて財布の中にしまわれるだろう。

 しかし、この道端に落ちているチケットを破り捨てたい人物が一人だけ存在する。あなた自身だ。あなたにとっての肩たたき券は、30分ただ働きをさせられる厄介な存在になる。

 同じように日本銀行券も、発行した日本銀行からすれば、マイナスの価値を持っている。だから破り捨てることで、果たすべき将来の約束から解放されるのだ。

 では、日本銀行が紙幣によって果たすべき「約束」とは何なのだろうか?


紙幣はもともと金(きん)の引換券だった

 ひと昔前までは、紙幣は金(きん)と交換する約束だった。

 そもそも紙幣は、金(きん)を預けたときに受け取る「預かり証」だった。

 紙幣が存在しなかった時代には、金(きん)や銀などで支払いが行われていた。しかし、大きい取引をするときに大量の金塊を持ち歩くのは危険すぎる。

 そこで、金(きん)を支払う側の買い手は両替商に金(きん)を預かっておいてもらい、その預かり証を売り手に渡して支払いを済ませる。預かり証を両替商に持っていけば、いつでも金(きん)に交換してくれるというしくみだった。

 取引をするたびに両替商のところで金(きん)と交換しなくても、受け取った預かり証を次の取引に使うこともできる。こうして、預かり証は現在の紙幣に近づいていった。


 時が経ち、紙幣を発行できるのは日本銀行だけになった。日本銀行が1兆円分の紙幣を発行していれば、日本銀行の金庫には1兆円分の金(きん)が保管されている。日本銀行に紙幣を持ち込めば、いつでも金(きん)を受け取ることができた。

 紙幣の出現によって金(きん)を持ち歩かなくてもよくなったが、新たな問題が出てきた。貨幣経済の発展によって、より多くの紙幣が必要になったのだ。一方、金(きん)の量には限界がある。新たに発掘するか輸入してこないと、これ以上紙幣を発行できない。

 そこで法律を変えて、日本銀行が紙幣と引き換えに金(きん)を渡す義務をなくしたのだ。それでも、誰も困らなかった。その頃には紙幣を使うことに慣れていて、現在の僕たちみたいに紙幣の価値を信じ切っていたからだ。

 かといって、日本銀行がいくらでも紙幣を発行できるのは良くない。そこで、金(きん)の代わりに日本国債(※)を保有するようにした。日本銀行が新たに10兆円を発行する場合、その紙幣で国債を10兆円分購入することになった。これによって、新たな紙幣が出回ることになった。

 さて、紙幣の価値を支えるものは金(きん)から国債に変わったわけだが、紙幣を持っていけば国債と交換してくれるわけでもない。日本銀行は、何の約束も果たさなくなってしまったのだ。それでもなお、僕たちは紙幣を欲しがっている。

 僕たちはダマされているのだろうか?

 そうではない。じつは「脅されている」のだ。

(※)日本国債とは日本政府が発行する債券。日本政府の借金の借用証書のようなもので、保有していると定期的に利子がもらえて、一定期間後に元本が返済される。


ジャイアンリサイタルのチケットが完売する理由

 約束の内容とは別の理由で、チケットが必要になることがある。

 『ドラえもん』に出てくるジャイアンのリサイタルはいつも満員だ。音痴なジャイアンの歌なんて誰も聞きたくないのに、みんなそのチケットを欲しがる。

 理由は簡単だ。リサイタルに行かないとジャイアンに殴られるからだ。言い方を変えれば、ジャイアンリサイタルのチケットは「ジャイアンから殴られないこと」を約束してくれている。

 じつは、僕らが紙幣を使っているのも同じ理由だ。紙幣を手に入れないと、刑務所に入れられてしまうから紙幣を欲しがっている。信じられないかもしれないが、僕たちはその法律を受け入れている。

 それが納税だ。税金は円貨幣(紙幣や硬貨)で払わないといけない。税金を滞納すれば国税庁の人たちが徴収しにやってくる。それでも支払わなければ刑務所に入れられる。実は、この法律があるからこそ僕たちは円を使うようになったのだ。

 だから、冒頭の問題は、選択肢B「税金を払わないといけないから」が正解になる。紙幣が金(きん)と交換できても(A)、日本銀行がその価値を保証していても(C)、みんなが紙幣を必要とする理由にはならない。


 江戸時代までは、銀、銅銭、小判などの貨幣や米など円ではないものが商品の売買や給料の支払いなどのために使われていたが、明治時代に突如円貨幣が普及し始める。「円の普及」を大きく後押ししたのが、1873年の地租改正だ。歴史の授業でこの年号を憶えたとき、僕は大して重要な事柄だと思っていなかった。

 歴史の授業では「米の収穫高に関係なく、土地の所有者から税を一律に集めるようになったこと」に焦点が当てられる。しかし、お金の歴史を知る上で重要なのは、「税の支払いを円貨幣でしか認めなくなった」という点だ。

 これ以降、金(きん)でも米でもアメリカドルでもなく円貨幣で税を支払わないといけなくなった。税を払わないと刑務所に入れられる。円の価値を信じていなくても、納税者は円貨幣を手に入れる必要がある。

 こうして、税の徴収によって円貨幣の流通が加速し、誰もが交換に使う「通貨」になったのだ。


「税」がお金を循環させる

 昔から、税と通貨は切り離せない関係にある。

 江戸時代には、収穫した米の一部を農民から税として徴収していた。年貢米だ。武士の給料も米で支払われ、米はいつでも金(きん)、銀、銅などの貨幣と交換できた。だから、お米を蓄えることは富の蓄積でもあり、お金としての機能の一部を担っていた。

 飛鳥や奈良に都を置いていた律令時代にさかのぼっても同じことが言える。租庸調という税制度では、米や綿布や絹布、そして貨幣で税が納められていた。当時の通貨もまた、米、綿布、絹布、貨幣だったらしい。これらの通貨を市場に持っていくと、自分の欲しいものと交換できた。

 どうして税は通貨になるのだろうか?
 そもそも、税は何のためにあるのか?

 政府は本来、国民のためにより良い社会を作ろうとする。時代によっては支配者層のためでもあったが、それでも「みんなのこと」を考えないと共倒れになってしまう。

 より良い社会を作るためには、もちろんみんなの協力が欠かせない。租庸調の「庸」のように、国民に労役を課してみんなのために強制的に働かせることもあったが、国民の自由が大きく制限されたし、国中を移動させるのは効率が悪かった。

 そこで、「税を納める」という方法によってみんなで負担を分け合っている。

 そして集められた税は、「みんなのために働く人たち」に支払われる。

 律令時代、税として集められた貨幣は、役人や平城京を建設する労働者に支払われた。貨幣が出回り始めたばかりの時代で、貨幣を初めて見た労働者は「何だこれは?」と思ったかもしれない。彼らが暮らすためには、得体の知れない貨幣よりも衣食住を満たすための物資が必要だったはずだから。

 一方で、貨幣を欲しがる人もいた。貨幣を税として納めないといけない人たちだ。たとえば、彼らの手元に米が余っていれば、貨幣を持て余している役人や労働者たちに交換を持ちかける。そこに、貨幣で米が買えるお店が生まれる。

 同じように、魚や塩、土器などを売る店も次々に生まれる。最初は得体の知れなかった貨幣が、いろいろな物と交換できる便利なものになっていく。みんなが保有する貨幣の一部は税として徴収され、再び「みんなのために働く人」に配られる。

 こうして、税システムによって貨幣が通貨として普及し、社会の中を循環するようになった。これは律令時代でも現代でも変わらない。

図1

 現代の日本の税金は、教育や警察などの公的サービスだけでなく、道路などのインフラ整備、年金や医療費などにも使われている。そして「みんなのために働く人」は広範囲に及ぶ。役人だけでなく、学校の先生、警官、建設会社の従業員、医療関係者などに、直接もしくは間接的に円が支払われている。


 さて、ここまでの話を踏まえて、第1話の冒頭の問題に戻ろう。

 「なぜ、紙幣をコピーしてはいけないのか?」

 新しい紙幣を作ってみることを考えれば、その答えがわかりやすくなる。


家の中に新しい紙幣を作ったらどうなる?

 ここに、両親と四兄弟で暮らす6人家族がいる。子どもたちはスマートフォンばかりいじっていて、自発的に家事を手伝おうとしない。そこで両親は一計を講じ、家庭内で流通する紙幣を作って税金を徴収することにした。

 中央銀行の役割を担うお父さんは、「1マルク」とだけ紙に書いて自分の印鑑を押す。この1マルク紙幣を100枚用意した。

 政府であるお母さんは「100マルク借ります。1年後に返します」とだけ書いた借用書をお父さんに渡して、お父さんから1マルク紙幣を100枚受け取る。この借用書は、まさに国債(政府の借金の借用書)だ。

 お父さんは100マルク分の借用書を保有して、100マルク分の紙幣を発行した。これは、日本銀行が国債を保有して円の紙幣を発行しているのと同じ状況だ。

 お母さんの手元には100マルクあるが、借用書をお父さんに渡しているから100マルクの返済義務もある。紙幣発行によってお母さんが儲けているわけではない。この時点では、1マルクに価値を感じている人は誰もいない。

 これで準備完了だ。

 ある晩、四兄弟は夕食の準備を手伝わせられる。そのお駄賃として、4人それぞれに、1マルク紙幣が5枚ずつ、手渡された。

 「え、この紙は何?」とつぶやく長男。

 長男を横目に、お母さんが言う。

 「これからは、お父さんもお母さんも会社の仕事に専念します。みんなが自分たちで家事をして生活してください。その代わり報酬を出します。調理担当者には毎日10マルク支払います。食器洗い担当者には毎日5マルク。洗濯は1回につき10マルクです」

 きょとんとしている子どもたちに向かって、最後にお母さんはこう宣言する。

 「そして今日から税金を払ってもらいます。税額は一人につき毎日5マルク。将来的には変わる可能性もあります。税金を払わないとスマートフォンを取り上げます」

 「えーーーー!」

 スマートフォンが生活必需品の四兄弟にしてみれば、強制力のある徴税だ。この瞬間、4人の手元にあるただの紙切れが価値をもった。紙幣が誕生した瞬間だ。


 子どもたちの視点でマルクは価値ある存在になった一方、一家全体の視点では価値が増えたようには思えない。100マルクという紙幣が作られただけでは、この家の生活が豊かになったわけではないからだ。

 しかし、新たな紙幣と税の導入で、4人は自発的に働くようになった。調理担当の長男と、食器洗い担当の次男は、みんなのために働く公務員だ。四男は洗濯という公共事業を、毎日1回受注している。

 家事が苦手な三男は、毎日四男から5マルクもらって勉強を教えることにした。三男は塾を経営しているようなものだ。これで4人全員が税金を払えるようになった。マルクの導入によって、みんなのためにみんなが働く社会が作り出されたのだ。

 しばらくすると、税金の支払い以外にもお金を使うことが増えていく。長男は5マルクを次男に払って自分の部屋の掃除をしてもらい、次男は、四男が摘んできた花を4マルクで買った。

 こうして、紙幣を使った貨幣経済は、公的サービスだけでなく民間サービスにも広がり、家庭内に通貨として普及する。これが僕たちの使っている紙幣だ。


 この家庭内紙幣の例でわかるように、紙幣自体に価値はない。税金というシステムを導入することで、一人ひとりにとっての価値が生まれる。そして、紙幣を手に入れるために、みんながお互いのために働くようになるのだ。

 ここまでで、経済の羅針盤をこう書き換えることができる。

【🧭経済の羅針盤】
○ お金には価値がある(削除)
  ↓
○ 個人にとって、お金は価値がある
○ 社会全体にとって、お金自体には価値がない


紙幣をコピーすると、働く人がいなくなる

 さて、さっきの四兄弟がマルク紙幣をコピーするようになったら何が起きるか? 

 四兄弟は面倒な家事から解放される。コピーした紙幣を税金として払えばいいから、働く必要がなくなるのだ。でも、彼らに働いてもらえないと困る人たちがいる。

 それは、お母さん(政府)ではない。困るのは、四兄弟自身だ。

 みんなのために働く人がいなくなってしまった。四兄弟一人ひとりが、自分のために食事を作り、自分のために洗濯をしないといけなくなる。マルク紙幣が生活を支えているわけではない。マルク紙幣を手に入れるために四兄弟が働くことが生活を支えているのだ。

 紙幣をコピーしてはいけないのは、「価値が薄まってしまうから」ではない。

 「みんなが支え合って生きていけなくなるから」だ。

 たった4人の社会だろうと、1億人の社会だろうと本質的には同じだ。


 だけど、まだ引っかかることがある。この四兄弟の家族はあくまでたとえ話であって、普通は家の中でお金を使って家族に働いてもらうことはない。ところが、家の外では、お金を使わないと生活が成り立たない。

 どうして、家の外ではお金を使うのだろうか?

 そこに羅針盤の精度を上げるヒントが隠れている。



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