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赤ちゃんは科学者

我が家には1歳児がいる。どこかの育児書に、「赤ちゃんは科学者」とかそんな風な言い回しがあって、それは確かにそうだなと思った。

例えば、ほぼ全ての赤ちゃんが行う、「ティッシュを箱から延々と出す」行為は、大人から見ると「いたずら」とか「もったいないからやめなさい」と反射的に感じて、禁じてしまうこともあるだろう。しかし赤ちゃんにとっては、悪いことをしているという自覚も当然ないし、地球環境を破壊しているという罪悪感もない。

ただ感触や音が、快感なのだ。握って引っ張ると「ズッ」という快適な音と共に引っこぬける。抜いたはずなのにもう次のティッシュが補充されている(誰がやった?)。これはもう抜いてくれとティッシュが叫んでいるように赤ちゃんには思えるだろう。ティッシュ箱は赤ちゃんに延々と抜かれるようにデザインされていると言って良い。ティッシュを引き抜く感覚を楽しみ、赤ちゃんは世界を学習している。引き抜いたティッシュは無駄にはせずに、きちんと「ビリビリ」と引き裂いて、紙の山を築き、手や足につけて移動し床に広げる。

例えば、ボールを落として、跳ねる様子を観察する。これを何度も繰り返す。何度も試行しているように見える。同じことをすると同じ結果が得られることを学んでいるし、予想した結果が得られることが快感なのではないかと思う。世界の法則を学ぶことは大事だと思う。どこに生まれるかわからないので、生まれた環境を学習する能力は必要だ。人類だって、地球に生まれるかもしれないし、月、宇宙船に今後生まれるかもしれない。

例えば、ボールか何かを、筒に入れたり、ソファーの裏など自分の見えない場所に手放すことがある。見えなくなった後に、自分で見つけに行くのだが、これは「永続性」の概念がついていることらしい。赤ちゃんにとっては、まずは「見えないもの=存在しないもの」らしい。だから、ママがいなくなると、泣いたりするのだろう(「ママは存在しない! 絶望したっ!」)。一見、ただ遊んでいるように見える赤ちゃんだが、実際は過労なまでに学習しているのだと思う。同じことの繰り返しに見えるが、なるべく多くの数を試行するという科学的な姿勢の現れかもしれない。

赤ちゃんはパターンを愛している。「Aの次にBが来る」と言う予測が当たるととても嬉しそうにしている。「いないいない→ばあ」など。歌なども、既知の歌が想定通りに進行するのが心地よいのではないかと思う。また、最近は、パターンの中のイレギュラーを検知して、反応するようになった。「いないいない→いない(ばあをしない)」など。

ところで、今さらだが「科学的」とはどういうことだろうか。

上記によれば、科学的とは「再現性」と「因果関係」を挙げている。1歳の子供はまさにそう、「科学的」な態度がある。自分で何度も繰り返し、再現性のある事象を学ぶし、物事の因果も関連づけているように見える。おそらくどの赤ちゃんもそうだろう。大人が「遊んでいる」と表現する時、彼らは実に「科学的」である。

ではなぜ我々は成長するにつれて、「科学的」な態度を失う傾向にあるのか。

ここでは考えないが、社会には多くの阻害要因があるのだろう。あるいは加齢による脳の変化も多少はあるかもしれない。

ひとりの親としては、子供の「遊び」を「遊びだから」と軽視せず、なるべく本人が納得いくまでできるようにしたいと思う。親がやれることは少ない。多分、「邪魔をしないこと」くらいだ。


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