思弁日記2020.10.07

状況を変えるには、その状況にコミットしなければならない。
コミットするとは「状況のなかに自らコマの一つとして参与する」ことである。コマが動けば全体の布置がすこし変わる。状況を変えるにはそうして「自らがその絵の一部である絵を描き変えていく」しかない。
コマは、自分の動きと全体の布置がどんな相関関係を持つか、動きながらつねに考えていなければならない。
この知的負荷に耐えるために勉強するのである。いくら勉強しても状況を俯瞰する視点は得られない。そこを勘違いしないことである。

人は自分が「正しい」と思ったことを主張する。それはいい。だがその「正しさ」もまた「状況を俯瞰的に捉えた絶対的な正しさ」ではなく「状況のなかのコマの一つとしての相対的な正しさ」でしかないということを自覚しておくべきだろう。
そうでなくては「正しくない他者」との対話の回路が遮断される。

知的であるとは、議論に開かれること、自分が間違っているかもしれない可能性を受け入れることだ。
だがそれだけでは十分ではない。そのように「知的であること」もまた特殊な態度でしかないことを知ること、多くの人はそのようには「知的」ではないことを受け入れ、その上で状況に参与すること。

つまりね、真面目で説教がましい印象を振りまく人間は、十分に知的であるとは言えない。
本当に知的な人間は、他者へのあたりが基本受容的で、周りに柔軟な印象を与える。
さらに怒っていてもその暴力性が愛嬌があってセクシーってところまでいかないと、本当に知的であるとは言えません。


寺田寅彦は「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」と書いた。これを受けて、池内了がこう書いている。

頭のいい人は、物分かりがよく、飲込みが早く、見通しが利き、前途の難関をいち早く見抜き、そして自分の頭の力を過信する傾向がある。そのため上っ面しか撫でず、初めから困難を回避し、難関に遭遇すると意気阻喪しやすく、自分が考えたことと一致しないと相手が間違っていると思い込む傾向がある。ところが、頭の悪い人は、物分かりが悪いために地道に努力し、呑み込みが遅いために段階を追って進まねばならず、前途の難関が見えないために楽観的な気分のまま難関にぶつかり、頭のいい人が考えてダメに決まっているような試みでも一生懸命続けることになる。その結果、頭のいい人には見えなかったことが見えるようになり、頭のいい人が手を着けなかった問題に挑戦し、頭のいい人が回避した難関をくぐり抜けたりする場合がある。


生きる才能は「考える」と「笑う」というこのふたつの能力に依拠している。
思考を手放さず、すべてを笑い飛ばすことができるなら、生の健全さを保つことができるということだ。
「考える」ということは、言葉を自分の周りに巡らすことではないし、「笑う」ということは、引き攣った自己弁護のことではない。
それでは、「考える」とはどういうことか。一定の厳密な手続きで、自分を事物のひとつとして、世界へと外化する操作のことである。
「笑う」とはどういうことか。自らを含めた事物の在りようを、無根拠に、一気に、肯定することである。


お金で買える最も価値のあるものは「時間」である。
お金で買った「時間」をお金を稼ぐために使うなど本末転倒としか思われない。
お金で買った貴重な「時間」は、“無駄遣い”して、初めて“活きる”。
時間を“無駄遣い”するとは、観点を変えて見れば、“時熟を待つ”という構えを取るということだ。
各々に固有の「時間」が熟していくのを、“ただ待つ”ということ。
“待つ”というのは、期待せず、予測せずに、“無為において信じること”、その高度な構えに自らを保つことである。
お金で買った「時間」をお金を稼ぐのに使う、お金でお金を買う、そのサイクルから抜け出すこと。
時間を“無駄遣い”して、“各々の自由”が育っていくのを、“ただ待つ”こと。

本当の未来は誰かの建設的な意志においてではなく、各々の自由が向かう先にしかないのだと知ること。


何かに気づいて、考えて、いい線までいってるんだけど、無駄に言葉を費やして、けっきょく今の自分に居心地のいいように言葉で塗り込めてしまう。そういう残念な文章を読んでるといつも思うのは、「言葉ではどうとも言える」。
それは、やはり「考えが足りない」んだと思う。
思考を実践に繋げて自分の生を更新していく、そこまで十分に考えつめてないにもかかわらず、言葉だけで繋ごうとする。
だから、小難しい、饒舌な、変に威勢がいい、どこか言い訳がましい、ルサンチマンに引きずられた、…要は「嘘」に堕してしまう。

ある言葉が「わからない」というのは、頭が悪いからではない。身体がその言葉に追いついていない。だから、リアリティが感じられないのだ。
「わかっていない」人間が、言葉巧みにわかったふうなことを言う。「わかっていない」人間には、その言葉はリアリティをもつ。
わかっていないことがわかった気になる。害悪でしかない。
自分が何をわかっているか、わかっていないのか、それを自覚するのは、言葉を発する者の最低限の倫理である。
何にでも口に出して、それなりのことを言ってみせる。「わかっていない」人間のあいだで、「知識人」ともてはやされる。「わかっている」人間が聞くと「半可通が、みっともない」ということになる。

自分が変化しないまま、周りの変転する世界を解釈しようとするから、ちょうど天動説での惑星軌道が複雑になるように、その言葉は異様なまでに複雑になっていく。
必要以上に複雑な言語体系は、けして解像度の高さの証ではない。単に不動の視点を取ったことからくる倒錯的な世界像に過ぎない。

to be continue.


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