笠井一子『配膳さんという仕事』(平凡社)

配膳とは、京都の料亭や能楽堂などで、客をもてなすことに特化した専門職である。京都の料亭では、中居が給仕するのは、台所から宴席の入り口までで、座敷では専門の配膳が、客の動静に影のように寄り添って、宴席の設えから、客の送り迎え、下足番役までの一切を担当する。言わば、客が最大限リラックスできるように、宴の場の呼吸に応じて、そのサポートをするホスティングのプロフェッショナルといえよう。
もともと京都固有の文化や人間関係のなかではぐくまれた特殊な職業であるせいか、歴史的な資料も乏しい。御所に大膳職というのがあって、それが幕末になって町中に流れていったという口伝もあるようだが、真偽は定かではないようだ。
ともあれ、配膳のホスティングが、京都の料亭のホスピタリティを一段上等のものにしてきたのは、疑いを入れないところだ。

(配膳の)星野がいう。「ホテルへ行って、なんぼうまいもん食べてもね、周囲の壁はただのクロス張りですよ。そういうことを考えると、ちょっと障子開ければ庭があり、灯籠が見え、池がながめられる料亭とは比較にならんですわ」
賞味するのは料理だけにあらず、ということだ。蹲をおおう苔の色合い、木漏れ日の降りそそぐさま、疎水のせせらぎ、刻一刻と時がうつろい、いつのまにか木立の翳りが深まりたそがれはじめる。夜気がしのびやかにただよい、灯籠や行燈にポッと灯がともる。そうした景観のうつろいを心ゆくまで堪能する。また座敷に目を転じれば、その日の掛け物の選び方、花器、香合の取り合わせに亭主の趣向を読みとる。そうした部屋のしつらいにも料亭のたのしみがある。

配膳は、この部屋の設えにも関わるのだという。宴席の背景を設え、さらにその進捗をサポートする、というわけだ。
配膳からの密な連絡のおかげで、厨房は客に、熱いものを熱く、冷たいものは冷たくして供することができる。さらに配膳は、調理長の気分にも配慮して、例えば忙しいときには道化になって気分転換させ、板場の空気を一新するというようなところにまで気働きをするという。

居心地のいい「場」とは、もてなす方ももてなされる方も、皆の呼吸が調和して、緊張も弛緩もしていない、適度な張りのある空気が漲っている空間であろう。配膳は、つまりその「憩いの空気」をつくっているのである。
これは、先に書いたように、京都に固有の、梅棹忠夫が言う「お客をもてなす芸術家」としての独特の文化的伝統において発生した職業であろう。

京都には、例えばものごとを依頼するときに「急いて急かんのですが…」というような矛盾する物言いをする文化がある。気持ちは急いている。でも急かすと相手に悪い。深謀遠慮のすえ、そういう言い回しになる。
京都人に、なにごとかを主張して意見を求めても、「さあ、どうでっしゃろか」とか、「そないに思うてはるのやったら、それでええのとちがいます?」と軽くいなされてしまうのがオチだ。なにごとも波風を立てずにやんわりと優美に、言葉のあやで包む婉曲な物言いで、相手をまったりとした粘液質の世界にからめとり、そのうえでしぶとく自分の言い分は通してしまう。
要するに京都人にとって、ことばは、人間関係を円滑に運ぶためのツールに特化されているのである。
こうした、ある意味特殊に洗練された「人あしらい」の文化の精髄が、配膳さんというホスピタリティの専門家を生んだ。

京都の長い「人あしらい」の文化、その精髄としての配膳という職業。そこからは、「場」を限りなく居心地のいいものとする柔らかな「空気」を創造するには、ホスト役はどう振る舞うべきなのか、そのヒントが多く潜んでいる。


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