漂流日記2020.09.19

今日は一気に秋めいた。秋らしいものを食べようと思い立ち、金目鯛の煮つけと松茸ご飯をつくった。残っていた茄子と湯葉をおひたしにして副菜に添え、デザートは今年初の梨。完璧である。秋を満喫した。

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自炊をして食ったときの満足感は特別だ。自炊だと店のような原価率だの料理時間だのといった制約がない。料理の腕さえよければ、端的に美味いのである。それだけではないような気もする。家庭料理の魔法。これは料理研究家だった亡父がよく言っていた。HOME×EATのMAGIC。

30代をヒモとして暮らしていた頃は、毎日料理の腕を振るった。居候の相手はほとんどが夜職の女の子だった。たいていは夜中の一時か二時くらいに帰ってくる。野菜がたっぷり入ったスープと魚料理、豆腐料理なんかで帰宅を迎えた。あまり腹にずしんとこないように、そして塩分で翌日顔が浮腫まないように、でも満足はできるよう、出汁やスパイスに凝った料理をこしらえた。昼前に彼女が起きだすときには、ちょっとした「お目ざ」を用意しておく。夕方、出勤前に食べる食事がディナーだ。同伴がないときは、ここで本格的な料理をつくることになる。和洋中華、彼女の好物の素材をメインに使って、毎日違うものをつくっていた。

彼女が出勤するとき、一緒に家を出て翌日の食材を買って帰るのだった。食材は「もし出来合いのものを買ったら一人でこれくらいだよな」というお金で、二人分の材料がまかなえるよう家計を考えて購入していた。つまり、おれがいることで、ひとりで中食を買って食べるより、すこしは安く済むように考えていたのである。なんだかこう書くと完璧な家政婦じゃん、という感じだが、そう、おれは完璧な家政婦だった。

夜職ってのは、肉体的にも精神的にも、ものすごくハードな仕事だ。美味しいものでも食べないとやってられないでしょ?と思っていた。美味しいものを食べると、人は救われる。大げさかな?あのね、「不味くない」ってレベルじゃだめだよね。「美味しい!」じゃないとさ。思わず「美味しい!」って感激するようなものを食べると、心身の深いところがほぐれるんだ。生命の根源的なところで祝福されているような心地になって、安心するんだね。

プライドを否定されて弱気になったり、労働に疲弊して感情が麻痺してしまったようなとき、本当に美味しいものを食べると、涙が出てくることすらある。美味しくて泣いているのか、自分が美味しいと感じられることに泣いているのかも、よくわからない。おれは辛いとき、美味しいものを泣きながら食べてることあるよ。
居候させてもらってた女の子たちも、ときどき泣きながら食べていた。何があったかのかは知らないけど。いや話を聞いたかもしれないけど、忘れちゃったな。人の話は適当にしか聞いてないからさ。
でも、そういうときは、言葉で慰められても仕方ないでしょう。身体に訴えかけた方がいい。EAT&SEX。普通のヒモはSEXで慰めてあげるんだろうけど、おれはSEXにはあんまり自信がないから、美味しい食べ物で我慢してもらってた。いや、SEXもしたけど、なんというか、しょせんおれのSEXは「不味くない」ってレベルだからさ(笑)。

おれが8年もいろんな女の子を渡り歩いて無為徒食をきめこんでいられたのは、やっぱりおれが「同居人としてのスペック」が高いからだと思うんだよね。料理の腕がいいってだけじゃないよ。
おれの一番の能力は「気配を薄めることができる」ってことなんです。何もしゃべってないのに、なんか存在がうるさい人間っているでしょう。おれは、存在が静かなのね。まさしく空気のようにそこにいることができる。
やっぱり他人と一緒に居るってね、いかに気を許してる相手でも、身体のどこかで気を遣ってるんだよね。べつに関係が険悪じゃなくても、愛し合っている人であっても、やっぱり疲れるわけよ。その同居人ストレスを、限りなくゼロに近い値にまで下げることができる。これはおれの最大の能力だと思うね。

今、おれの家に居候しているSさんって人がいるんだけど、彼がおれのことを「おまえは、存在感はあるけど気配はないからな」と評したことがあってさ。彼は、いつも人物評が的確なんだけど、それで、そうなんだ、とはっきり自覚できた。存在感はあるけど気配はない。コクがあるけどキレがいいビールみたいな。いや、違うか。なんで言い換えた。

おれのその在りようってね、たぶん、おれがいつもひとりで愉しんでいるからだと思うのね。今日読んでた梨木香歩のエッセイに、「ひとりできげんよくしていられる才能」は、人間の、いや生物の、なんというか存在のたしなみともいえる特技ではないか、ということが書いてあったんだけどね。おれは「ひとりできげんよくしている才能」に恵まれてるんだね。
そして、おれのような人間は、誰かといっしょにいても「ひとりでいる」のとあまり変わらない。いや、その誰かのことは愛していたとしてもね。だからといって「ひとりでいる」という基盤は揺るがない。おれが猫を偏愛してるのも、猫には、おれと同じあり方を感じるからなのかもしれないな。

こんなに「同居人としての才能」に恵まれたおれであっても、ひと月以上同じ人の部屋に居候することはめったになかった。ひと月もすると、だんだん「ふたりでいること」になじんできちゃうでしょう。そうすると、ちょっと関係の様子が変わってきちゃうんだね。お互い好きで、険悪なこともなにもないのに、ああ、空気が変わってきた、と感じる境域がある。海で泳いでると、たまに海流の加減で温度が変わることがあるでしょう。そんな感じで体感でわかるんだ。「明日くらい、そろそろ、行くわ」と告げると、「ええ、もう?」と名残惜しそうにしてくれる子がほとんどだった。それくらいがちょうどいい潮時。
その潮時で「じゃっ」と出立すると、しばらくして、また同じ子のところに帰ってきても、歓迎されるんだよね。まるでマレビトだね。風物詩みたいなもん。寅さんみたいなもんだね。

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