適当日記2020.10.20

以前会った人に、親がある宗教を信仰していて、自分も幼少時からずっとその信仰のなかにいた、という人がいた。
大人になって色々おかしいと思うことが多くなり、洗脳が解けたのだという。だが、そうしたら途端にひどく疲れやすくなって、一日の多くの時間を横になって目をつむり、無になって過ごさないと生活もままならなくなった。

これまでも何人かの人に、必ずしも宗教に限らないのだが、何かを強く信仰していて、それを失ったとたん、慢性的な激しい疲労感に襲われるようになった、という話を聞いたことがある。

現代社会で、快活に活動するには、何らかの「信仰」をもつ必要があるのかもしれない。
現代社会で、何らかの「信仰」を持てない人は、たぶん、基本的に疲れやすく、何がどうというわけでもなく一切が不如意に感じて、要は生き難い。

おれは、やる気に溢れ、バリバリ人生を切り拓いて進んでいくような人間には、あまり親しみを感じない。
自分の身体を騙し騙し、日々を何とかやり過ごしている人間には近しさを覚える。
まあ、側からどう見えるかは知らないが、おれ自身、信ずるものも何もなく、疲れやすい身体を騙し騙し死ぬまでの余生を送っている人間である。

「仕方なく」「騙し騙し」というスタイル。なににつけ、うっちゃっておく。そういうことにしておく。ズルをして走り抜ける。なかったことにする。その場しのぎの応急措置とあとからの辻褄合わせ。そうやって騙し騙し、「できないことをやってしまう」。

見なかったことにする。知らないことにしておく。じつは知っていたことにする。昔からの友達ということにする。一時間だけ大好きになる。すぐに忘れる。そうして「できないことをやってしまう」。

「できないこと」とは、例えば「金を稼ぐ」とか「結婚する」とか「葬式で笑わないでいる」というようなことの一切だ。

「前向きになる」とは、日々の無意味なタスクを、回避しようともせず、その意義を考えることもなく、ただやるべきことを実行していく、意味にとらわれない生への意志を軸にした生き方のことを言う。
できるだけ楽する、ということでいいと思う。弛まず、やるべきことをやっていく。たまに無理したら、すこしサボってみる。どうせ、誤魔化しながらの辻褄合わせだ。いい塩梅で、できるだけ楽をする。

唐突に亀の話をする。まあ、適当日記なのでね。
亀は恐竜時代からほとんどその形状を変えずに生息してきた。
その主要な生存戦略のスタイルが「低代謝」。
危険が迫ったとき、動物は逃げるか戦うかの選択を迫られるが、亀は甲羅に引っ込んで「飲まず食わずでじっとしてやり過ごす」。
飲食だけでなく長時間の無酸素状態にも耐えられるらしい。

亀は食べるのが下手だったり、全体に不器用な印象がある。不器用だが、それは環境に完全にはフィットしていない、それだけバッファがあるということでもある。「適応が適当」なのだ。それも、長期間生き延びたひとつの理由かもしれない。

甲羅と低代謝で自分をプロテクトしつつ、環境には適当に適応しつつ、好奇心旺盛にちょこちょこ動き回りつつ、恐竜時代からそうそう変わることもなく生き延びて、今も同じようにちょこちょこ動き回っている。
なんか、愛おしくなってきませんか?

適当に、具合の悪いものと一緒にいること。
なにかを否認すれば、それは見えなくなる。見えなくなるとは、なくなることではない。見えなくなったものにこそ、人は支配される。これは精神分析の知見を持ち出すまでもなく、普遍的なこころのメカニズムだ。
逆に、“見えていれば”、それがどんな感情であろうと、怖れるには足らない。

例えば、自分がつい嫉妬しまう。そのことを否認せずに認めれば、「嫉妬している自分」と付き合うことができる。「付きうことができる」とは、「適当にしか相手しない」こともできるということだ。

おれは、軽薄で、適当で、狂ってる。それがおれのバランスの取り方で、つまり、おれという人間の本質だ。
そんなのいつだって矯正できると思ってたけど、そうじゃなかった。重厚で、精確で、まともであろうとすると、すぐに死にたくなる。

何でもそうだが、実際にやってみると、思っていたようにはできない。
ともあれ、まず、始めることである。あたりまえだが、始めなければ、成功どころか、失敗もできない。
そして、おれの経験上、成功とは、多くの場合、「手直しされた失敗」でしかない。何度失敗しても、手直しして手直しして、適当に辻褄を合わせてしまうところまでもっていく。成功とは、つまりそういうことである。

機を見るに敏、という言葉がある。何をやるにも成功のためには「機」、つまりタイミングを読むことが重要ということで、その能力に優れていることを指して言う。だが、「機を見る」ためには、自身も動いていなければ、見えない。何も始めていない人間に見えるのは「情報」だけである。
そうした「情報」は、何の役にも立たない。「情報」は、自身の動きのなかに「解凍=血肉化」して、ようやく活かすことができる。「情報」を活かすことができる人間は、「情報」に惑わされることはない。必要な栄養以外は糞にして排泄してしまえばいいことを身体で知っているからだ。

実践において、じっさいに必要なエッセンスは、とても限られている。「ここさえ的確に押さえれば、あとはだいたいでいい」という機微を知るということが、つまり「情報」を解凍=血肉化するということである。
「情報コレクター」は、これも大事、あれも重要と煩いが、「この時、この場で何が重要で、何はどうでもいいか」、そのことが判断できなければ、何の意味もない。そうした判断力は、経験値によるが、経験値とは、つまり、これまで重ねてきた失敗の量のことなのである。

仕事ができる奴と、「仕事ができることを目指している奴=意識高いやつ」の決定的な懸隔は、要は仕事ができる奴って「8割適当」なんだよね。その代わり2割はパーフェクト。その塩梅が的確なんだ。全部が80点っていうのが、一番どうしようもない。「仕事ができることを目指してる奴=意識高いやつ」ってのは、大体こういう感じ。

いま、2割はパーフェクトって書いたけど、正確には、2割はつねに「まだまだ」と感じていて、そこの研鑽は怠らないってことだよね。
逆に、そこの研鑽を積んでるだけで手一杯になることをよく知ってるんで、全部が80点みたいな奴を見ると、無駄なことしかやってない、としか感じられない。

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