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166:📱🔗💻exonemo / Realm-UN-DEAD-LINK04

エキソニモの《Realm》と《UN-DEAD-LINK 2020》はスマートフォンのタッチパネルに触れることでインタラクションが起こる.マウスとカーソルとの組み合わせでは触れることがないディスプレイに触れることは何を意味するのだろうか.

布施琳太郎は「新しい孤独」において,iPhoneに代表されるタッチパネルに触れることをアートの文脈から考察している.ここでは,私が書いたGUIに関してのテキスト「インターフェイスを読む #3 GUIが折り重ねる『イメージの操作/シンボルの生成」に触れつつ,パソコンでは触れることがないディスプレイに触れることの意味が書かれている.

私は上のテキストで,コンピュータ科学者のアラン・ケイが提唱したスローガン「Doing with Images makes Symbols(イメージを操作してシンボルをつくる)」を論じた.そして,「イメージ=見えるもの」と「シンボル=見えないもの」のあいだに「/」を入れた.それは,ディスプレイに表示される「イメージ」と「シンボル=プログラム」とが折り重なっていることを示すためであった.イメージを操作することは,プログラムを操作することにつながっている.そして,マウスとカーソルとの組み合わせでは,「イメージの操作」はマウスと連動するカーソルという「イメージ」で行われることになっている.ディスプレイに表示されるイメージには直接「触れる」ことはできないまま操作を行い,シンボルを生成し続けている.

布施は「iPhone」がこの状況を一変させたと考えている.

つまり「iPhone」は「イメージの操作/シンボルの生成」というアラン・ケイを起源に持つGUIやパーソナル・コンピュータの基本コンセプトから離れ、その操作を、対象を直接操作するような「幻想の触覚」に一元化した。その実現のためにマウスやトラックホイールをはじめとした物理的な入力装置、GUIの大きな特徴である重なり合う複数のウィンドウ、そしてプラスチックで固定されたキーボードなどは排除されたのである。そして「iPhone」はイメージとシンボルの二層構造を排除しながら、巨大なタッチスクリーンを採用する。「iPhone」のユーザーは、麦畑でLSDを摂取したジョブスと同じように、「幻想の触覚」によって対象を直接操作するのである。
布施琳太郎「新しい孤独」

iPhoneの登場によって,ディスプレイに表示されているイメージを直接操作できるようになり,「イメージの操作/シンボルの生成」という二層構造は「幻想の触覚」に一元化されると,布施は指摘する.確かに,マウスとカーソルとの組み合わせで「イメージでイメージを操作する」ものよりも,「指でイメージを操作する」という方がダイレクトにイメージを操作する感覚になる.しかし,指はイメージに直接触れるのではなくタッチパネルを介して触れているので,この状態を「幻想の触覚」とするのは的確な命名だと思う.

スマートフォンでは「幻想の触覚」で,私たちはディスプレイに映る対象に直接触れ続けている.しかし,そのときに「イメージの操作/シンボルの生成」はなくなっていないのではないか.イメージとシンボル=プログラムとの結びつきはなくなっていないからである.マウスとカーソルとの組み合わせからスマートフォンへの移行で失われたのは「イメージでイメージに触れる」ということのみで,イメージとシンボルとの二重性は失われていないと,私は考える.スマートフォンは「幻想の触覚」を生み出したけれど,触れる対象からは「イメージの操作/シンボルの生成」の二重性は失われていないと,私は考えている.

「私は考えている」というよりも「私は考えてしまう」という方が正しいのかもしれない.布施は「「iPhone」の画面はイメージとシンボルの二層構造を持たない。「見えるもの」と「見えないもの」の二重性は、その「ずれ」は、世界を直接操作するような「幻想の触覚」によって一元化され、消去される」と書いているが,きっと,私は「見えるもの」と「見えないもの」のあいだに「ずれ」があり続けていると考えているだろう.

エキソニモの《Realm》と《UN-DEAD-LINK 2020》で「ずれ」を考えてみたい.この二つの作品はともに,スマートフォンとデスクトップでの体験がセットになった作品である.スマートフォン版とデスクトップ版があるといった方がいいかもしれない.エキソニモはスマートフォンとデスクトップとをリンクしているので,この二つの作品を十全に体験するためには,二つの異なる感覚を行き来する必要がある.スマートフォンがもたらす「幻想の触覚」で一元化された感覚とデスクトップにおける「見えるもの=イメージ」と「見えないもの=シンボル」の二重性の感覚とのあいだを行き来する必要がある.スマートフォンによる「幻想の触覚」を経由した後で,デスクトップの二重性の感覚を改めて考えることは何を意味するのだろうか.それは「見えるもの」と「見えないもの」のあいだに「ずれ」を再度,見つめ直すことではないだろうか.「幻想の触覚」で一元化された感覚で,そこに亀裂を入れる「ずれ」を見いだすのは無駄なことかもしれないけれど,スマートフォンによって一元化された感覚への抵抗と考えてみたい.

なぜ「抵抗」などをするのか.「抵抗」という言葉は強いかもしれない.布施は最果タヒを読み解きながら,デスクトップの二層構造のあとのiPhoneの時代を「我々はその「二層構造」を「知らない」のである」と述べている.だとすれば,エキソニモは単にデスクトップの二重性を知っているだけかもしれない.エキソニモはデスクトップの二重性を知っていることを「忘れる」ことなく,その二重性を「幻想の触覚」との対比で際立たせようとしているのかもしれない.エキソニモの《Realm》と《UN-DEAD-LINK 2020》は,「幻想の触覚」がもたらす「見えるもの」と「見えないもの」の一元化のなかで,デスクトップ「見えるもの」と「見えないもの」の二重性を考えざる得ない状況をつくる.それは,「見えるもの」と「見えないもの」との二重性の「ずれ」を改めて見つめ直すことだけではなく,「見えるもの」と「見えないもの」との一元化と「見えるもの」と「見えないもの」との二重性とのあいだの「ずれ」を考えることである.そして,この「ずれ」は,二つの作品に共通する「死」という触れ得ない対象を作品に呼び込んでいるのではないだろうかと,私は考えている.

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