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035:物理空間そのものを「仮想空間」のように使用した結果,ヒトが浮遊する

「無重力の宇宙にいるヒトを重力下でどう撮るか?」ということから,宇宙表象を考えてみたい.無重力は,重力下でヒトで前提としているものを無効化してしまう.

上下,縦横,高低───これら宇宙空間で意味を失う概念はすべて,地球の重力に抗して直立歩行をする人間が,地球上の重力空間内の方位づけに必要とした概念なのである.もし,宇宙空間内に生まれ,宇宙空間内で意識形成をした高等生物がいたとしたら,その生物にはこれらの概念を伝達することは不可能である.pp.28-29
宇宙からの帰還,立花隆

立花隆は方向に関する概念が無重力では意味を失うとしている.それは,重力空間でヒトがこれまで思考してきた基準点としての身体の意味が変化することを意味しているのではないだろうか.哲学者の野家啓一は「現象学」における身体の役割を次のように書いている.

言うまでもなく,事物が現出する空間,すなわち前後・左右・上下といった方位性は身体を基準点にして張りめぐらされている.身体は志向性の蜘蛛の巣を張りめぐらすようにして,絶えず事物を捉えようと待ちかまえているのである.したがって,身体は常に事物のそばに「居合わせて」いるのであり,事物が「図」として浮かび上がるための「地」の役割を果たしている.要するに,身体は世界現出の媒体にほかならず,フッサールの言葉を使えば「現出のゼロ点」なのである.

むろん,それは「不動のゼロ点」ではなく「運動するゼロ点」である.私は眼の前にある本に手を伸ばし,それを裏返すことによって,先ほどまでは隠れていた裏表紙を見ることができる.あるいは椅子を立って歩き回ることによって,それまでは見えなかった机の向こう側を目にすることができる.このように,身体はそれがもつ運動機能によって,パースペクティヴの転換装置たりうるのである.身体運動によって自在にパースペクティヴを転換することによって,事物は二次元の書き割りではない三次元性を身に帯び,世界は厚みと広がりを獲得する.p.159 
フッサール現象学と理性の臨界 in はざまの哲学,野家啓一

無重力状態であっても,身体が「現出のゼロ点」であることは変わりがないだろう.しかし,その意味は重力下とは立花が言うように変わると考えられる.空間の基準でありながらも,重力のもとにあるときよりも,「上」と「下」が持つ意味が大きく異なってくると考えられる.床が天井になり,天井が床になり,壁が床になり天井になるとすれば,それらは単なる一つのサーフェイスとして考えた方がいいだろう.そのような環境では,単に「上=頭/下=足」とより身体に基づいたものになるかもしれないけれど,それは空間的にはいつでも反転可能なものとして捉えられるだろう.

ここで考えてみたいのは,私たちはゼログラビティにおいて,宇宙遊泳のシーンを撮影するために,俳優が「不動のゼロ点」におかれていることである.ライトボックス内では,俳優はリグに入れられ自由に動くことはできない.不動の状態におかれた身体に代わって,ライトボックスが映し出す「二次元の書き割り」が自在に動き,ロボットアームに取り付けられたカメラが連動して動くことで,パースペクティブが転換されつづける.

重力下で自由に動ける身体をCG空間のある一点に縛り付け,その周囲の無重力表象の書き割りを動かして,ヒトが無重力空間にいるかように撮影する.重力下で無重力表象をつくるためには,ヒトを「不動のゼロ点」にして,世界の方を運動させる必要がある.ヒトの上下,ライトパネルが映し出す映像の上下と連動したロボットアームがカメラを回転させつつ自在に動き撮影して,映画としてのパースペクティブが決定されていく.そして,ヒトは「不動のゼロ点」というよりは「浮遊するゼロ点」として宇宙のなかでヒトはクルクルと回転しつづけるようになる.おそらく,「浮遊するゼロ点」となったヒトの上下の感覚は「運動するゼロ点」のものとは異なったものになっているだろう.

ゼログラビティでは,無重力のもとでのヒトを「運動するゼロ点」として見せる映像をつくるために,重力下の身体を「不動するゼロ点」として撮影して,「浮遊するゼロ点」をつくりだした.それは,ヒトの顔に転写された光と影とが世界の厚みと広がりとの連動において,ヒトの身体が厚みと広がり=三次元性に組み込まれていくことを意味している.

ゼログラビティの撮影風景は,ヒトと周囲の空間という現象学が基準としていた「地」と「図」とを,コンピュータがひとつの平面にしてしまったことを示しているのではないだろうか.既に,コンピュータがつくる仮想空間においては,ヒトも空間もひとつの平坦なディスプレイに表示されて自在にコントロールできていた.

久保田 ネット・アートのHTMLにせよ,コンピュータやスマートフォンのアプリにせよ,ゲームにせよ,ポストインターネットを特徴づけていたメディアがソフトウェアであったことは間違いありません.同様に,3Dプリンターやレーザー加工機などによるデジタル・ファブリケーション技術も,その核心は「ソフトウェアでものをつくる」ということであって,決して(旧来の意味での)モノづくりの復権や手技の復活ではありません.物質を(ですら)ソフトウェアのように使用しようとしている,ということがポストインターネットの大きな特徴です.p.117
メディア・アート原論 あなたは、いったい何を探し求めているのか?,久保田晃弘・畠中実編著

久保田晃弘が,デジタルファブリーケーションを「物質を(ですら)ソフトウェアのように使用しようとしている」と指摘するように,ゼログラビティの撮影手法は無重力の宇宙表象をつくるために,「物理空間を(ですら)仮想空間のように使用しようとしている」と言えるだろう.そのために,ライトボックスというCG空間を実体化させるような装置とヴァーチャルカメラを実体化させるようなロボットアームを用いた.そして,ゼログラビティにおいては,ヒトを不動の状態に置くという条件付きであるが,ライトボックスとロボットアームとの連動させて,ヒトの身体を基準にするパースペクティブをコンピュータが制御する視点に置き換えて,物理空間を「仮想空間」のように扱い,「重力」のパラメータを「0」に設定したのである.だから,ゼログラビティの無重力表象は宇宙の表象であるとともに,コンピュータで物理空間そのものを「仮想空間」のように使用した表象ともいえる.

ベンジャミン・H・ブラットンは『The Stack』で「ユーザ/インターフェイス/アドレス/都市/クラウド/地球」という6つのレイヤーが全世界を覆っていると指摘する.そして,これらの6つのレイヤーの何処かで一つの座標が決定されると,半自動的に他の5つのレイヤーでの座標も決まるとしている.ブラットンの指摘と同じように,ヒトを不動の状態にして撮影されるゼログラビティにおいても,ヒトの身体がライトボックスのCGが投げかける光がつくる空間に与えられ,顔に光と影とが転写された瞬間,ヒトとライトボックスのCG映像とロボットアームのカメラと不動の身体を基準座標として連結されていく.そして,ヒト,CG映像,ロボットアームのカメラが連結してつくられたひとつのパースペクティブにおいて,ヒトは宇宙空間のなかにプカプカと浮かびだす,こうして,ゼログラビティは重力下でつくられた映像でありながらも,見る者に無重力を強く体験させるものになっている.

コンピュータを経由して完全に同期したライトボックスとロボットアームによってつくられる無重力表象では,重力=物理空間と無重力=仮想空間とは対立するものではなくなっている.ゼログラビティの撮影手法は.ふたつの空間は不動のヒトを基準にして重なり合わせて,空間内の座標を連結していくことで,ヒトが浮遊する無重力表象をつくりだしているのである.

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