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「クレヨンしんちゃんを見てはダメ」と言われて育った子ども



子どもの頃、世界のルールは親が決めていると思っていた。


幼少期に禁じられているものはたくさんあった。
甘いお菓子やカップラーメンなどの即席麺もその最たるものだった。お腹がすいたと訴えた時に、仏壇から拝借した生ぬるい野菜ジュースや中央に栗が沈んだ水羊羹を出されたときの「これじゃない」感は今なお筆舌に尽くし難い。

祖父母と同居していた幼少期、夏にわんさか届くお中元の品で最も嬉しかったのはカルピスの原液の詰め合わせセット。あの白地に青のドットが爽やかな包装紙を見るだけで心躍ったものである。他に届く砂糖不使用の野菜ジュースや甘さ控えめを謳った天然素材のデザートなどは成長期まっさかりのキッズからしたら全くもってお呼びじゃなかった。私が欲していたのは「よく味わえばほのかに感じるわね」といった上品な甘さでは無く、味蕾を突き刺すような分かりやすい刺激なのだ。

「チョコレートは体に悪いからだめ」

と言っていた母が、私に隠れてこっそりチョコレートを食べているのを発見した時は怒りで気が狂いそうになった。

大人は信用できないと悟った。エムコ3歳の時である。

母はチョコレートを堪能した後、子どもの目の届かないタンス兼ドレッサーの1番上の引き出しに隠した。いや、隠したと思っているのは母だけで、私には襖の間からばっちり見えていた。
私は母がいないタイミングを見計らい、どうにかしてあのチョコレートを手に入れようと知恵を振り絞り、タンスの引き出しを下から順に開けて階段を作るという策を生み出した。怒りと食への欲求は3歳児にあるまじき閃きを生む。引き出しを猿の如くよじ登り、1番上の引き出しに手をかける。母が隠していたチョコレートの包みは、茶色なのに宝石のように輝いて見えた。私はそれをいくつかポケットに詰め込み、引き出しを元に戻してその場から逃走した。

ここまでは誰も追ってこないだろう。ハァハァと息をきらしながら庭に出る。すっかり葉の落ちたイチョウの木の影で腰を下ろし、震える手で包装紙に指をかけた。その時食べたチョコレートの味を、私は忘れることができない。ココアパウダーがまぶされた求肥にチョコレートのクリームが包まれていて、噛みちぎった拍子に口の中にブワッとあふれる甘いクリームに溺れそうになった。ムシャムシャと無心で食べ、冬の陽を浴びながら恍惚として余韻に浸った。

こんなに美味しいものを体の毒と偽り、独り占めしている母の信用は地に落ちた。


母への不信感が募る中、またしても我が家のルールブックに新たに禁止事項が追加された。
それは「クレヨンしんちゃんの視聴」であった。

テレビリモコンの操作を覚えた私がチャンネルを変えていると、とあるアニメがパッと映った。つまらないニュースやバラエティが溢れる中、アニメだけは子どもの味方だった。ほっぺたがやたらモチモチしている少年が暴れ回る様はとても痛快で、心を奪われた私が熱心に眺めているとブツっ!という音と共にテレビが消えた。
振り返ると、リモコンを握りしめた母と目が合う。

「それは見ちゃダメ」

「なんで?」

「ダメなもんはダメなの。我が家はクレヨンしんちゃん禁止」


脳裏に浮かぶ絶望の2文字。名前を知った途端に私としんちゃんは引き裂かれてしまった。しかし禁じられたとて、私は己を貫き通す彼の奔放な姿をもっと見ていたかった。

とある日。母親が台所にいる時に居間のテレビのチャンネルを変えていると、またあのモチモチほっぺの少年が一瞬映った。

『クレヨンしんちゃんだ!』

曜日や放送時刻などの概念のない3歳である。私がたまたまチャンネルを変えていたこのタイミングで、しんちゃんと再会できたのは奇跡的な確率と言っていい。私はすぐに居間のテレビを消し、祖父の寝室に移動した。お目当ては祖父のベッドの隣にある小さなテレビである。恐る恐る扉を開けると、祖父は運良く書斎で書き物をしており、寝室には誰もいなかった。神さまは私としんちゃんの再会を願っている、そう確信した瞬間だった。


私はテレビをつけたあと音が聞こえるギリギリまで音量を下げ、しんちゃんを探した。

『頼む、間に合ってくれ…!』

願いを込めながらチャンネルを一つずつ変えていく。画面がひときわ鮮やかに映ったかと思うと、美しい山型の曲線を描いたおしりがドンと視界に飛び込んできた。

一目で分かった。しんちゃんのお尻だ。

器用にズボンから尻だけを突き出し、弾むように伸びやかに動き回るしんちゃん。やめなさい!と声を荒げる大人を意にも介さず、自分の中にある「楽しい」を優先するしんちゃん。

なんてカッコいいのだろう。

私がしんちゃんに抱いた感想は、間違いなくリスペクトそのものだった。

その後も親の前では見たら怒られるので、先述したような奇跡のタイミングが重なった数年に一度のほんのわずかな時だけクレヨンしんちゃんを視聴した。子どもの頃にクレヨンしんちゃんを見たのは数十分に満たないが、野原しんのすけが私にもたらした影響の大きさは、読者の皆様の前では言うまでもない。


母親が私の執筆してきたお下劣エッセイを読んだら気絶するだろう。その時はあなたの教育の賜物だよ、と耳打ちしながら肩を叩きたい。

明確な理由も説明も無しに抑圧されたコンテンツは大人になったら爆発する。必要なのは付き合い方なのだ。私の場合良いのか悪いのかは分からないが、それが「尻」だった、という話である。

いただいたお気持ちはたのしそうなことに遣わせていただきます