176.卓上オーブン

本稿は、2020年11月14日に掲載した記事の再録です

昭和42年か43年頃(1967年か68年頃)、小学校から帰ってきて居間のテーブルの上に「ターダのガスオーブン」が乗っていると、その日の午後は身も心も浮き足立って、クルクルとバレリーナのように踊り出したくなりました。なぜならそれは、これからお菓子を焼くという合図だったからです。

母はよくシュークリームを作ってくれました。クッキーやパウンドケーキも時々作ってもらいました。赤や緑のアンゼリカをのせたクッキーや、干しぶどうやドライチェリーなどを混ぜ込んで洋酒を香りづけにいれたパウンドケーキが焼き上がる時の、粉とバターの香りが部屋の中に充満するのは至福の時でした。

◇ ◇ ◇

私の家にあった「ターダのガスオーブン」というのは、多田金属工業という会社が作った卓上のガスオーブンのことで、電子レンジくらいの大きさでした。あの頃、オーブンを使うときは納戸からひと抱えもある卓上オーブンを運んできて、夏はテーブルの上に、冬はこたつの上に置いて使いました。

向かって左側の側面にはガス用の突起が出ていて、そこにガスホースを差し込み、そのホースを壁のガス栓につなぎます。オーブンの蓋を開けたら、まず壁のガスの元栓を開け、次にマッチをすり、それから側面の突起部分についているガス栓を捻りながら、オーブンの中を覗き込むようにして上の部分に点火するというものでした。

なぜこんな風に手順をよく覚えているかといえば、成長して母から点火係を引き継いだ中学生の頃、火をつける位置を確認しようとオーブンの中に頭を入れ過ぎて、ボッと火がついた瞬間前髪をちりちりにしたことがあるからでした。ガス栓を開けながら行う点火のタイミングはちょっとしたコツがありました。

昭和40年代(1965-1974年)に、台所にオーブンが備えつけられいた家はまずなかったと言ってよく、アメリカのホームドラマの「ゆかいなブレディ一家」に登場する家政婦のアリスさんが、キッチンのビルトインオーブンレンジから手品のように色々な料理やお菓子を取り出すのが私にはとても眩しく見えました。

◇ ◇ ◇

母がよく作ってくれたのは、シュークリームでした。まずシュー/皮の部分の材料を混ぜて、オーブン皿に敷いた紙の上に絞り器で絞り出し、オーブンに入れて焼きます。シューを焼く時に、?マークの頭の部分のような細長い紐状のシューも同時に焼いて、それをスワンの頭のようにあとからシュークリームに縦に差し込んで、スワンのシュークリームにしてもらうのは何より楽しみでした。

シューを焼く時の火加減、温度調節もなかなか難しかった記憶があります。今のオーブンレンジのようにデジタルの温度表示機能はなく、放射状の模様がついたガラス板の真ん中に「低中高温」を表す「緑黄赤色」の印のところを針が動いていくというアナログ仕様だったからです。

オーブンの温度に気をつけながら、今度はカスタードクリームを作ります。大きなボールの中に卵や牛乳やコーンスターチなどを入れて作るのですが、何が楽しみといって、焼き上がったシューの中にクリームを絞り入れたあと、残ったクリームをボールごともらうのがこの上ない楽しみでした。この日ばかりは母公認でお行儀も気にせずに、思う存分ボールの底のクリームを人差し指ですくって舐めることができました。

夕方、白黒テレビで放映されていた「ひょっこりひょうたん島」のテーマソングに合わせて、ボールを抱え、踊りながらクリームを舐めていたあのひとときは、私の人生における最も幸せな時間のひとつでした。

◇ ◇ ◇

私はシュークリームやクッキーやパウンドケーキが焼き上がるのが待ちきれなくて、オーブンの蓋を「もう開けてもいい?」「まだよ」、「少しだけ見てもいい?」「だめよ」と、何度も母にたずねては待つようにとの繰り返しで待ち遠しくてなりませんでした。

ある時、もうそろそろ出来上がるという時に電話がかかってきたことがありました。あの頃はまだ個人の住宅に電話を引くのに、申し込んでから半年、一年と、相当な時間がかかっていたので、早くから電話のあった我が家にはよく近所の人宛の電話がかかってきていました。そういう時には、母が電話に出て、私か弟が駆けていって近所の人に「お電話です」と呼びに行くのが慣わしでした。その日お隣のおばさんと一緒に戻ってきたらクッキーが焦げていてガッカリしたことがありました。

その晩、父が帰って来てから、母は「あなたが電話なんて引くから、いつも近所に呼びに行かなくちゃならなくて本当に迷惑」と父に八つ当たりしていました。子どもの頃の両親の喧嘩は、この「クッキー電話事件」と、母の大好きだった加藤剛の番組が始まるのに、ソファでうたた寝してしまった母を父が起こさなかったという、これまた母の八つ当たりの「加藤剛うたた寝事件」の二回くらいでした。本当に仲の良い両親でした。

◇ ◇ ◇

ターダガスオーブンは、使うたびに納戸から運んできてテーブルやこたつの上に設置し、使い終わると冷ましてから手入れをし、また大きな箱に入れて納戸にしまわなければなりませんでした。納戸といえば、小さな弟と私を相手に、ガスオーブンや季節物の扇風機やストーブなどがしまってある納戸の前に立って、母はエレベーターガールのように指を揃えて「上へ参ります」「今度は下でございます」などといって、私たちは納戸の中に出たり入ったりしてよく遊びました。

ところが、どういうわけか我が家のこの納戸は「エスカレーター」という名前で呼ばれていました。ですから、この遊びも我が家では「エスカレーターごっこ」と命名されていました。「そろそろ寒くなってきたからエスカレーターから石油ストーブを出さないとね」などと使われていました。ですから大人になってからも長いこと、私は(きっと弟も)エスカレーターとエレベーターの区別ができなくて困りました。

就職してからも「エレベーター前で12時にね」などと口に出す前には、必ず一度は頭の中でエレベーターとエスカレーターを両方唱えて、間違いがないように一々確認しなくてはなりませんでした。三十過ぎくらいまでこの手順は欠かせませんでした。

◇ ◇ ◇

お菓子づくりは、オーブンを使ったもの以外にも、プリンやゼリーなどもありました。母はよく牛乳にブランデーとバニラエッセンスで香り付けしたものをゼラチンで固めたお菓子を作ってくれました。こちらも「冷蔵庫を開けてもいい?」「まだよ」が繰り返されました。

小学生の頃には、牛乳と卵を使って蒸し器で作る定番のプリン以外にも、ハウス食品の即席プリンを作ったり、赤や緑のゼリーを作ったことをよく覚えています。調べてみると、ハウス食品がプリンの素の「プリンミクス」を発売したのが東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)で、昭和42年(1967年)にはゼリーの素「ゼリエース」を発売したことがわかりました。

そこには、高度成長期に入って、1960年代に「三種の神器」と呼ばれたテレビ・洗濯機・冷蔵庫が一般家庭に普及していった時代背景がありました。

◇ ◇ ◇

NHKの「きょうの料理」という番組は、昭和32年(1957年)から放映されている長寿番組で、還暦を超えた私が生まれる前から放送されています。この番組はご存知のように日本の食文化に多大な影響を与えてきました。料理の分量が1957年には5人分だったものが、核家族化に伴い1965年からは4人分となり、2009年からは2人分となったというエピソードからも視聴者のニーズに沿った番組であったことが伺えます。

昭和33年に結婚し、この番組の創成期と共に新婚時代を過ごした母には、これまで何十年、何百年と続いてきた日本古来の伝統的な家庭料理以外に、この番組で紹介される、西洋の香りのする「新しい料理やお菓子づくり」に魅せられていきました。

最初の頃はお菓子づくり専門だったオーブンも、次第に、母の料理のレパートリーは広がり、グラタンやミートローフ、ピザやローストビーフなどが食卓にのぼるようになっていきました。

「主婦の友(1917-2008)」「主婦と生活(1946-1993)」「婦人生活(1947- 1986)」「婦人倶楽部(1920-1988年)」の「戦後の四大婦人雑誌」や、商品テストで一躍有名になった「暮しの手帖(1948-)」も、子どもの頃、よく家にあったのを覚えています。これらの雑誌では料理はもちろん、手作りの「洋服」や手芸、それにいわゆる家政学の特集が多く組まれていました。

私自身は、これらの雑誌を自分で購入したことは一度もありませんでした。私の感覚では、自分のことを「女性」だとは思っていますが、「婦人」だと思ったことは一度もなく、デパートの「婦人服売り場」という名称にも昔から違和感がありました。また結婚してからも、自分のことを「主婦」だと思ったことはありません。その私から見ると、母世代はまぎれもなく「婦人」であり「主婦」だったように思います。

◇ ◇ ◇

私の母は、洋裁、手芸、料理など家事全般に凝り性というほど凝っていました。多分、今年満八十八歳を迎える私の母に限らず、母世代までの、つまり昭和一桁(1926 - 1934年)生まれのまでの女性にとって「良妻賢母」というのはひとつの、与えられたイデオロギーだったように私は感じています。

母は、銀行に勤めながら、夜間の洋裁学校に通っていたそうで、父のオーバーコートまで手作りしてしまう腕前でしたので、子どもの頃の私たち姉弟の洋服は、わずかな例外を除いてほとんどすべて母のお手製でした。しかも、その手作り服にさらに刺繍やアップリケがほどこされているのでした。

あの頃は、母のように洋裁をする女性、また和裁をする女性はどこにでもいました。東京の西の郊外の新興住宅地に住んでいましたが、近所でも「洋裁します」「和裁はこちら」などという貼り紙をよく見かけたものでした。和裁に関しては祖母の腕の方が確かだったようで、私の七五三の晴れ着や夏祭りの浴衣は、祖母のお手製でした。また高校生の時に私の浴衣を縫ってくれたのは友人のお母さんでした。

シンガーの足踏みミシンジューキの編み機なども、あの頃はあちこちの家にありました。タカタカタカというミシンの音、ジャージャーという編み機の音は、まな板でキュウリや大根を刻む音とともに、子どもの頃の心象風景に欠かせないBGMとなっています。私たち子どもたちは、足踏みミシンの下にもぐって、ハンドルを握ったような気分になって運転ごっこをしてよく遊んでいました。

それ以外でも、フランス刺繍レース編みなどで、パンが焼き上がると跳び出すトースターや電話機が次々に彩られていきました。そういえば手編みのセーターというのもありました。今なら表計算ソフトでコピーペーストしながら作りたくなるような図案を、細かな方眼紙に一目ずつ手描きしながら母は作業していました。でもそういうことをするのが母は楽しくてたまらないという風でした。

◇ ◇ ◇

今回、ターダオーブンの思い出をあれこれ反芻していて、おもしろいことに気づきました。それは、オーブンを前に粉を振るったり、卵を泡立てたり、オーブンを覗いていたことばかりが浮かんできて、実際に出来上がったものを食べた記憶がほとんどないのです。「出来上がりを楽しみにしている」こと自体が、一番楽しかったのだと思いました。

今回、どういうきっかけで卓上オーブンを買うことになったのか、値段はいくらくらいだったのかを母に聞こうと電話をしてみたら、驚いたことに母は、「ガスオーブン? うちはオール電化だからガスオーブンはないわよ」と答えるのでした。ターダオーブンのことはすっかり記憶から抜け落ちているようでした。

それでも、「今のオーブンレンジではなくて、私が小学生の頃にシュークリームを焼いたターダの卓上ガスオーブンのことよ」とあれこれと説明をしていると、突然「ああ、よくスワンのシュークリームを焼いたわねぇ」という懐かしそうな声が返ってきました。


<再録にあたって>
今や多くの家庭には電子レンジやオーブンレンジが常備されているので、お菓子を焼くことに特別感はなくなりました。私もリンゴが余ったりバナナが傷みかけている時などに、気軽に焼きリンゴを作ったりバナナケーキを焼いたりします。もはやレシピを見ることもなく、お味噌汁を作るようにささっと作ります。

けれども子どもの頃は、お菓子を焼くというのは「非日常」な出来事でした。あの頃うっとりと眺めていた赤や緑のアンゼリカや、銀色に輝くアラザンは、今も尚、色褪せることなく脳裏に焼きついています。


000.還暦子の目次へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?