072.映画「二十四の瞳」

昭和50年(1975年)1月3日、今から46年前のお正月のことでした。父がお正月だから箱根へドライブへ行って富士山でも眺めてこようと家族を誘ってくれたのですが、私は当時中学3年生で、まもなく高校受験を控えていたので、少し心は動かされたものの、やっぱり私は家で勉強していると言ってひとり留守番をすることにしました。

そこで、両親と弟は3人で揃って出かけていきました。私はこたつのある居間で勉強しようと、勉強道具一式を自分の部屋から運んできてこたつに上に置き、つけっぱなしになっていたテレビを消そうと思ったら、ちょうど新春特番の映画が始まるところでした。どんな映画をやるんだろうかと「ほんの少しだけ」と思ってテレビを消す手を止めて画面を眺めていたのですが、これが私の人生に大きな影響を与えることになる木下惠介監督の映画「二十四の瞳」でした。

名作の誉高い「二十四の瞳」ですが、当時15歳の私は、人生観が根本から変わるほどの大きな衝撃を受けました。その日は教科書を1ページも開くことなく映画に引き込まれてしまいました。泣きながら観て、さらに泣いて、途中嗚咽を漏らしながら泣いて、その内にもう目が腫れあがって目を開けていることができないのにそれでも涙が溢れて、映画終了と同時に泣き疲れて眠ってしまいました。

夕方、両親と弟が箱根のドライブから帰ってきたときには、私はこたつの中で目をパンパンに腫らせて眠りこけていました。映画を観て散々泣いて勉強はまったくしなかったというと、そんなことなら一緒に箱根に行けばよかったのにと言われましたが、私はそうは思いませんでした。この映画をひとりで心おきなく号泣しながら見るために、受験勉強と箱根があったのだと思ったくらいでした。

あの頃はまだ家庭用ビデオもなく、脳裏に焼きついた映像を思い出すくらいでしたが、私は脳裏で繰り返し再生はひとり涙していました。急ぎ原作も読み、再び号泣しました。息もつけぬほど嗚咽して泣きました。

テレビで再放送があればまた観て泣きました。一度目の放送で気がつかなかったことがわかって、謎解きするようなおもしろさを味わいながらも泣きました。長じてVHSのビデオが出た時、何度もレンタルビデオ店に足を運んで借りて観ては泣きました。繰り返し観ているうちに、それまで気がつかなかった点に多く気づくようになりました。

VHSビデオが手に届くような値段になると、真っ先に買いました。のちにDVDが出たらそれも買いました。ネットで配信されるようになってからはデジタルリマスターの作品を観ました。何度も観た「二十四の瞳」ですが、未だに映画の一場面を思い出す度に涙が滲んでします。

◇ ◇ ◇

今の時代、映画「二十四の瞳」はネット配信で無料あるいは数百円でいつでも見ることができます。原作の壺井栄著『二十四の瞳』は、文庫本でもネット書店でも読むことができます(青空文庫はこちらです)。

著者の壺井栄は、1899年(明治32年)生まれで、1967年(昭和24年)になくなりました。私の父方母方どちらの祖母も明治30年生まれなので、2人の祖母とほぼ同時代を生きた人でした。『二十四の瞳』のほかにも、『柿の木のある家』『母のない子と子のない母と』など心に残る作品を多く著しています。

この本が発表されたのは、終戦から7年後の1952年(昭和27年)、サンフランシスコ条約が批准・発効された年で、日本がようやく国際社会へ復帰した年でした。壺井栄が実際に執筆していた時は、まだまだ戦争の爪痕が生活のあちらこちらに色濃く残っていたことでしょう。

この本は発表の2年後1954年(昭和29年)に木下惠介監督・脚本によって映画化され、キネマ旬報日本映画ベスト・テンで1位に輝きました。この頃は日本映画の黄金期で、この時3位には黒澤明監督の「七人の侍」、5位には溝口健二監督の「近松物語」、6位には成瀬巳喜男監督の「山の音」が入っていました。ちなみに外国映画の6位にはオードリー・ヘプバーンの「ローマの休日」が入っています。

この映画は昭和3年(1928年)4月4日、瀬戸内海べりの百戸あまりの一寒村にある岬の分教場に、女学校の師範科を出た正教員の大石先生が赴任してくるところから始まります。洋服を着て自転車に乗って颯爽と現れる姿は、閉鎖的で保守的な村に旋風を巻き起こします。

初めて受け持つのは今年小学校に入学したばかりに1年生12名で、男の子が5人、女の子が7人いました。大石先生はひとりひとり出席を取りながら、家業やあだ名を確認していきます。

昭和3年(1928年)に小学校に入学してきたこの子たちは、この時全員6歳。つまり大正10年(1921年)4月から大正11年(1922年)3月までにに生まれた子どもたちなのです。もしも今もご健在ならば、今年、令和3年(2021年)には満100歳を迎えられる方々ということになります。

小豆島の大層美しい自然を背景に、大石先生と子どもたちとの交流や村の保守的な大人たちとの軋轢が描かれていきますが、二学期が始まってまもないある日、子どもたちがいたずらで砂浜に掘った落とし穴に先生は落っこちてしまい、足を骨折してしまいます。そのため自転車にも乗れず、しばらく学校には来られなくなってしまいました。

すると、それまでは新任の先生になにかとつらく当たっていた村の人々も、大石先生を見直すようになり、子どもたちも先生が恋しくてたまらなくなるのです。ある日、みんなで昼食後しめしあわせて一本松近くの先生のご自宅までお見舞いに行こうという話が出てきます。

日本全体がまだ貧しかった時代、子どもたちが子守などの家の仕事をしないで出かけるのは難しく、結局みんなで片道二里(8km)の道を藁で編んだ草履を履いて歩き出すのですが、昼食抜きでお腹のすいた子どもが泣き出し、そのうちに周りもつられてベソをかいているところに大石先生の乗ったバスが通りかかり子どもたちは助かります。

先生のお宅ではきつねうどんをご馳走になり、先生はよろこんで近所の写真屋さんを頼んで、先生の家の近くの一本松を背景にして松葉杖によりかかった先生を十二人の子どもたちが、立ったりしゃがんだりして取りまいている写真を撮ってもらったのでした。

しかし、この骨折騒ぎで先生は自宅から近い本校勤務に変わってしまい、子どもたちとはしばしの別れがやってきます。

そして、次に子どもたちが大石先生と出会うのは、4年後、かれらが5年生になって、本校に通学するようになってからということになります。

この映画の最大の魅力のひとつは子役たちのキャスティングにありました。木下監督は子役を選ぶ際、全国から3,600組7,200人のよく似た兄弟姉妹たちを集め、その中から12組24人の子どもたちが選びました。そのため本校に行ってからの彼らの誰を見ても、すぐにその子の名前やあだ名が思い浮かぶのです。

本校での子どもたちは、これからの進路について考えていきますが、それぞれの家庭環境が許す進路にならざるを得ません。ひとりひとりが「身の丈にあった」社会という荒波に漕ぎ出していくのですが、中には過酷としか表現できない運命に翻弄される子どももいます。その上、世の中は否応なく戦争という激動の時代に突き進んでいきます。どの子も皆、時代のうねりに巻き込まれていきました。二十四の瞳を持ったけなげな子どもたちがそれぞれの運命を精一杯生きていこうとする姿は観る者の涙を誘います。

この映画を15歳の頃から繰り返し観て私が思うのは、今年62歳になる私と二十四の瞳を持った子どもたち、今年100歳になられる方々とはわずか38歳しか年齢は離れていないのだということです。逆に私より38歳若い人いうのは、平成9年(1997年)生まれの今年24歳になる人々なのです。

私には、このわずかな年齢差は戦慄すべきことのように長年感じられてなりませんでした。今では想像もつかないような圧倒的な貧しさの中に、38歳年上の方々は生きていたのだと私はこの映画を観るたびに思い返してきました。日本のこの百年、日本の一世紀を考える上で、映画「二十四の瞳」は貴重な映画だと思えてなりません。

この映画は反戦映画だと紹介されることが多いのですが、もちろん反戦映画の側面は大きいものの、この映画には当時の社会状況が見事に描かれており、生活に追われて声高に政治的な主張をすることなどできない庶民の目線で、ただ一緒に泣くしかできないかもしれないけれど、しかし凜として、子どもたちを温かく包み込む母なる視線、そこにこの映画・原作の一番の魅力があると私は思います。

この映画に対する溢れんばかりの熱い想いから、二十四の瞳を持つ子どもたちひとりひとりの運命についてまとめてみました。これから映画をご覧になろうと思う方や、これから原作をお読みになろうと思う方は、これ以降は、どうぞ映画や原作をご覧になってからお読みいただきたく存じます。

◇ ◇ ◇ 以下あらすじに触れます。ご注意ください ◇ ◇ ◇

1. 川本松江 (マッちゃん)

15歳で初めて観た時に、どうにも泣けて泣けて仕方がなかったのは、大工の家の娘、川本松江さん、通称マッちゃんの運命でした。

6年生になったマッちゃんは、周りの子が買ってもらったという「百合の花の絵のついたアルマイトの弁当箱」を買って欲しいと女の子を産み落としたばかりの母親にねだるのですが、大工は不景気のため生活が苦しく、最初は「よしよし、買うてやるとも」と答える両親ですがとても弁当箱を買う余裕はありません。それどころか母親は容態が急変し、早櫓(はやろ)の漁船で運ばれて行き、帰らぬ人となってしまうのでした。

大石先生が、マッちゃんが欲しがっていた「百合の花の弁当箱」を手にマッちゃんの家を訪ねると、そこには男泣きに泣きながら赤ん坊が死なないかぎり松江を学校にはやれぬという大工の父親と、唐突に母を失い、赤ん坊と幼い弟妹の世話と、釜戸炊きや洗濯とすすぎを一手に引き受けなくてはならないマッちゃんとがいました。そしてその赤ん坊もまもなく亡くなりますが、マッちゃんは学校に戻ることなく、大阪の親類の家へと貰われていくのでした。

大石先生が、マッちゃんが家を出ていく時嬉しそうだったかと近所に住むコトエにたずねると、コトエは次のように答えるのでした。

「マッちゃん、行かん行かんいうて、初め、庭の口の柱に抱えついて泣いたん、マッちゃん家のお父さんが弱って、初めは優しげにすかしたけんど、あとは頭にげんこつかましたり、背中をどづいたりしたん。マッちゃん、おいおい泣いてみんなが弱っとった、みんなで、ようやっとすかして、得心さしたけんど、みんな貰い泣きしよった。わたしも涙が出て、途中まで、みんなと見送っていったけんど、マッちゃん一口もものいわなんだ」
木下惠介脚本『シナリオ 二十四の瞳』新潮文庫 p.111-2 より

母を失い、大好きな先生に別れの挨拶もできず、家から引き裂かれるようにどこかへ連れて行かれたマッちゃんと、大石先生が再会するのは、翌年、みんなが楽しみにしていた金毘羅さんへの修学旅行の途中でした。

旅の途中、体調を崩した大石先生は、同僚の先生と共に一軒のうどん屋さんに入ろうとした時、「てんぷら一丁ッ!」というひとりの少女の声が耳に飛び込んできました。それは、髪を桃われに結い、ビラビラかんざしといっしょに造花のもみじを頭にかざり、前かけに両手をくるむようにして、無心な顔で往来のほうを向いて立っていたマッちゃんの姿でした。

「松江さん、あんた、マッちゃんでしょ」
 はいってきた客に、いきなり話しかけられ、桃われの少女はいきをのんで一足さがった。
「大阪へいったんじゃなかったの。マッちゃん、ずっとここにいたの?」
 のぞきこまれて松江はやっと思いだしでもしたように、しくしく泣きだした。思わずその肩をかかえるようにして縄のれんの外につれ出すと、奥からあわただしい下駄げたの音といっしょに、おかみさんもとびだしてきた。
「どなたですか、だまってつれ出されたら、こまりますが」
 うさんくさそうにいうのへ、松江ははじめて口をきき、おかみさんのうたがいを打ち消すように小声でいった。
「大石先生やないか、お母はん」
 うどんはとうとう食べるひまがなかった。
『二十四の瞳』青空文庫より

これまでのことを打ち明けたげな様子のマッちゃんですが、まるで口封じでもするかのように長々といらぬお愛想を並べるおかみさんに邪魔されて、大石先生と話をすることができません。先生がお店から出るのを待って、マッちゃんは店の裏から飛び出して先生に声をかけようとしますが、その時、わーっとやってきて先生を取り巻く修学旅行の子どもたちに気後れしてしまい、結局波止場で、先生や友人らをのせた修学旅行の船が出航するのを、ただただ見送り、赤い前掛けで顔を覆ってさめざめと泣くことしかできないのでした。

この時うどん屋のおかみさんを演じているのは当時40代だった浪花千栄子です。現在のNHKで放映中の朝ドラ「おちょやん」のモデルとなった女優です。浪花千栄子の怪演ともいうべき名演技です。

15歳の私は、3歳しか年も変わらない本来なら6年生のマッちゃんの運命に滂沱(ぼうだ)の涙を流しながら観ていましたが、波止場の場面に至っては童謡「七つの子」がかぶさり、汽船を見送る後ろ姿のマッちゃんの桃われに結った頭が前掛けに埋まるのを観た時、私も共に身をよじってきゅうきゅうと泣きました。

2. 木下富士子

過酷な運命を背負っていたのは、マッちゃんだけではありません。

旧家の子どもである木下富士子は、庄屋という古い家柄を一身に背負ったように落ち着き払った子どもでしたが、借財がかさんで明日にでもその大きな家が人手に渡るという噂は絶えず、修学旅行に行く費用も事欠くと噂されていました。いつも袖口に手を引っ込めて震えているような無口な少女でした。

将来の進路を作文に書く時、富士子の方向はきまっていませんでした。隣の席の子に、なぜ書かないのかと問われて泣き出してしまいます。廊下の片隅で大石先生に富士子は、修学旅行にも行きたかった、けれども家は人手に渡ってしまいいつまで住んでいられるかわからないと打ち明けます。そんなある日、ふとんと鍋釜ばかりの荷物をもって船に乗って富士子一家は兵庫へ行き、いつしか神戸でカフエに出ているという消息が風の便りで届くのでした。

3. 片桐コトエ

コトエは、1年生の時にみんなで大石先生のお宅へ行こうと言うことになった時、一旦昼食を食べに家へ戻るとおばんに弟のタケシを背中にくくりつけられてしまい、みんなと一緒に先生のお宅にお見舞い行けないからと昼食抜きで参加して、最初に泣き出してしまった子どもです。

6年生の進路希望の際、コトエは勉強ができるので、先生は高等科への進学を勧めますが、妹を学校へやるために家で飯炊きをするといいます。その上母親が毎日漁に出かけるので男に生まれなかったのを済まないと思っているのです。そしてその後母親に孝行するために大阪へ女中奉公に出かけます。

しかし8年後、コトエは自宅の物置で青白く痩せた体をせんべい布団に横たえて、一本松の下で先生とみんなで撮った写真を眺めていました。大石先生がお見舞いに訪れると、コトエは、「先生、私、苦労しました」と泣き出します。「先生、私、苦労して苦労して、病気になって帰ってきたら、お父さんも、お母さんも、肺病なんか、そばへくるんじゃないって私、明けても暮れても、ここで一人っきりで寝てるんです」 大石先生も貰い泣きします。片桐コトエ、この時わずか二十歳の儚い命でした。

4. 岡田磯吉 (ソンキ)

男の子を待ち受けている運命も、それは過酷なものでした。

豆腐屋の息子岡田磯吉は、周りの子どもたちからソンキと呼ばれている男の子です。初めての出席で最初に名前を呼ばれて、クン付けで呼ばれてドギマギしてしまい、先生に「磯吉のソンキさん」と呼ばれて「ハイ」と答えると、みんながどっと笑いました。

ソンキは高等科へ行く予定でしたが、急遽、大阪の質屋に奉公に出ることになりました。同じクラスの竹下竹一と共に、先生の家まで旅立ちの挨拶にやって来たのですが、中学へ進学予定の竹下竹一が学生服に身を包んでいるのとは違い、ソンキは鳥打ち帽を右手に持ち、手織り縞の着物の膝のところを行儀良くおさえ、夜学へやってくれるという質屋の主人の元で、兵隊までつとめたら質屋の番頭になれると嬉しそうに語るのでした。

そのソンキと先生が再会するのは、終戦の翌年、夫を戦争で亡くした大石先生を再び岬の分教場へ迎えることが決まっての歓迎会での席でした。

ソンキは、質屋で奉公したあと出征し、盲目になって帰還したのでした。盲目になったため豆腐屋のお兄さんに邪魔にされ「死んだ方がましじゃ」と言いながら、近頃「あんま」の弟子入りをしたということでした。

5. 竹下竹一

ソンキと一緒に先生のお宅へ旅立ちの挨拶に行った竹下竹一は、米屋の跡取り息子で、入学のときから利発そうな子どもでした。ソンキとは仲がよく、修学旅行のために卵を売って貯めたお金をソンキと一緒に郵便局におろしに行った子どもです。

竹一は中学へ進学しますが、小学生の頃「下士官になりたい」という森岡正に対して、「僕だって、大学出て兵隊に行きゃ、すぐ少尉じゃと」「軍人の方が米屋より良い」と言って先生を悲しませますが、その言葉通り大学へ進学し、最期は陸軍中尉と書かれた一本の墓標となりました。

6. 森岡正 (タンコ)

タンコこと森岡正は、網元の家の子どもです。大石先生が骨折して岬の分教場まで通えなくなると知って、「先生! そんなら舟で来たら? 僕毎日迎えに行ってやる、一本松位、へのかっぱじゃ」と申し出ます。

その正は、「僕は高等科へいって、卒業したら兵隊にいくまで漁師するんだ、なあ先生僕兵隊にいったら、下士官になって、曹長位になるから」「下士官は月給貰えるもん」と将来の夢を語っていましたが、彼もその言葉通り、陸軍軍曹森岡正之墓と書かれた一本の白木の墓標となってしまうのでした

7. 相沢仁太 (ニクタ)

この愛すべき少年は、ずぬけて大きい子で、最初の出席の時に一番後ろの席から大きな声で、同級生のあだ名を次々に叫び、あっという間に大石先生にクラス全員の子どもを印象づけてしまうのでした。先生には「相沢仁太君は少しおせっかいね、声も大きすぎるわ」と言われ、あだ名がニクタとわかると「まあ、ガキ大将で威張るからでしょ、駄目よ、威張っちゃ」などと言われてしまうのでした。

先生が骨折した時、一本松の辺りだという先生のお宅へ果たして子どもの足で行けるかどうかと相談していた時、仁太が、先日乗ったバスで氏神様から一本松まで「まんじゅう一つ喰うてしまわんうちじゃったど」というひと言が決め手になってみんな出発するのでしたが、実は仁太がバスに乗ったのはそれが初めてで、景色にみとれていてまんじゅうを食べることをすっかり忘れていたからだったのでした。

仁太の家は小さな石鹸工場を経営していて景気が良く、修学旅行の際に洋服を新調してもらうのですが、「でっかくなるのが早い」という理由で、服はブカブカ、靴も十一文(26.4cm)をあつらえてもらいます。その頃結婚したばかりの大石先生のお婿さんを品定めするなど、常に笑いを振りまく罪のない少年です。

「俺だって試験さえ無かったら、中学位ゆくわ」と言っていた仁太ですが、他の同級生と共に、船着場への道で楽隊や祝入営の幟に送られて戦場へ赴き、そして彼もまた、陸軍上等兵相沢仁太と刻まれた墓で眠ることになるのでした。

8. 徳田吉次 (キッチン)

漁師の息子の吉次は、地味で目立たない内気な子どもで、一本松の元で写真を撮る時、怖がって目をつぶってしまいます。卒業後はどこへも行かず、村で薪を売ったりや漁をしたりして暮らしていた吉次ですが、出征の時には青年団服でみんなの見送りを受けます。

大石先生の岬の分教場への歓迎会の時に、5人いた男の子の中で唯一元気な姿を見せるのが吉次でした。会が始まってまもなくでっかい鯛を片手に「先生にご馳走しようと思うて、鯛とりにいったんじゃ、それで遅れたんじゃ」と言って現れます。乾杯の音頭の際も、「なんでもええわ、先生が長生きすりゃ」と笑い声を上げました。

9. 山石早苗

コトエと仲良しで同じように貧しい家の早苗は、小さな頃から無口で内気な子どもでした。しかし、6年生の時に進路の作文を書かせると、「これからは、女も職業をもたなくては、うちのお母さんのように、つらい目をします、だから、姉さんも赤十字の看護師をしています。私も姉さんに師範学校に行かせてもらって、先生に…」と書きかけて、消しゴムで「先生」という字を消して「教師」と書き直すほどに、成長していきました。

早苗はのちに、師範学校を優秀な成績で卒業して本校の教員となり、戦後、戦争未亡人となって2人の子供を育てていかなくてはならない大石先生に、かつての岬の分教場を紹介したのでした。

10. 加部小ツル

この映画の冒頭から登場する便利屋チリリン屋の娘の小ツルは、父の職業柄、村一番の情報通で、骨折した先生が今ではもう退院していること、先生のお婿さんが遊覧船の機関士だということ、富士子の家が人手に渡ったことなどいろんなことを知っています。

小ツルは産婆さんになる道を選び、彼女も大阪の産婆学校を優等で卒業して、実際に太った産婆さんになるのでした。

11. 香川マスノ (マアちゃん)

マスノは、最初の出席の時に「ヘイ」と答えてしまう料理屋「水月楼」のひとり娘です。二百十日の嵐の被害を真っ先に先生に報告するようなおしゃまな子どもです。中では裕福な家の子どもなので新しいセーラー服や、ふたに百合の花の絵のついた弁当箱を買ってもらいマッちゃんこと松江の羨望の的でした。

幼い頃から歌が好きで、修学旅行の時にも唱歌をいい声で歌います。音楽学校に進学したいから女学校を希望しますが、「料理屋の娘が三味線というならまだしも、学校の歌唄いになって何になる」と家族の反対にあい、何べんも家出をしては連れ戻されます。

そんなマスノも今では結婚して母親に代わって料理屋のきりもりをしています。先生の歓迎会に自分の料理屋を場所として提供したのもマスノでした。そして歓迎会の間にも彼女は美しい声で歌を唄うのでした。

12. 西口ミサ子 (ミイさん)

貧困に押し潰されるように生きる人々の中で、土塀を廻らした大きな造り酒屋・西口屋のひとり娘のミサ子は、原作では「風のつよい冬の日に、ひとり日光室で、日向ぼっこしているような存在である」と描かれるほど、見事に苦労知らずに生きていきます。

百合の花の絵の弁当箱を買ってもらったのはマスノと同じで、悪気もなくマッちゃんの羨望の的になりました。6年生の時の進路の作文でも「私は一人娘なので、お母さんはどうしても県立高女に入れたいといっています。でも私は、数字を見ただけで頭が痛うなるんで、本当は無試験の裁縫学校に行きたいの」などと書くのでした。

その後、お婿さんをもらって、立派な祝言を上げてもらいます。そしてできた子どもが、再び岬の分教場で大石先生の受け持ちになるのです。同じクラスには亡くなったコトエの妹や、うどん屋へ奉公に出されたマッちゃんの子もいます。かつての子役が母子二代、姉妹の役をつとめます。

それが縁で、ミサ子が教員の早苗、産婆の小ツル、料理屋のマスノと連絡を取り合って大石先生の歓迎会を企画立案します。さらに大阪にいると消息がわかった百合の花の弁当箱のマッちゃんにも手紙を書いて知らせ、ソンキやキッチンにも声をかけて、歓迎会が実現するのです。

歓迎会と自転車

戦死した竹下竹一、森岡正、相沢仁太と、肺病で亡くなったコトエ、そして行方知れずの木下富士子の5名を除いた7人によって歓迎会は行われます。大石先生が水月楼の海の見える部屋へ足を踏み入れると、床の間には新しい自転車が置いてありました。一本松から片道二里もの道のりを通うことになる先生へのみんなからの贈り物でした。先生ははっと胸を突かれ、声を殺して泣くのでした。

この自転車のシーンは原作にはないのですが、木下惠介脚本の『シナリオ 二十四の瞳』新潮文庫のあとがきには次のような原作者壺井栄の言葉が載っています。

「ここで一つ書き加えておきたいことは、映画『二十四の瞳』では最後に先生に自転車をおくる場面があるが、原作にはそれがない。ところが原作者の私はそうするために、物語の途中で伏線として自転車の話を出しておいたにもかかわらず、おしまいになって、あまりに仕事を急いだために、大石先生に自転車を上げ忘れたのだ。映画になるについて木下惠介さんと打合せをしたときにそのことを話すと、木下さんはすでにそのつもりで脚本を書かれていると聞いて安心した。完全な意見一致で、この一事でも分かるように、『二十四の瞳』ほど原作者の意図を考えに入れて作ってもらえた映画はないと思って感謝している。」

そして歓迎会では乾杯が終わり、マスノが「浜辺の歌」を唄う中、あの一本松の集合写真をみんなで回覧します。大石先生が、涙を拭きながらみんなに取り囲まれて写真を見ていると、盲目になったソンキが、「先生、私にもちょっと見せてください」というのです。

質屋の修行で身についたのか、きちんと揃えた膝を崩すことなく、あの一本松の写真を手に取り、「この写真は見えるんじゃ、な、ほらまん中のこれが先生じゃろ、その前にわしと竹一と仁太が並んどる、先生の右のこれがマアちゃんで、こっちが富士子じゃ、マッちゃんが左の小指を一本ぎり残して、手をくんどる、それから……」と指で写真をなぞり、みんなの涙を誘いました。

長くなりましたが、それでも主演の高峰秀子にも、笠智衆を始めとする名脇役等にも触れることもできず、到底この映画の魅力を語り尽くすことはできません。

原作が書かれて今年で69年、映画が封切られてから67年という長い歳月に渡って、この映画の風化を許さず、常に最新テクノロジーでこの映画を届け続けてくださった映画人の方々に、私は心より御礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。そしてこれからもずっと、未来を作る次世代に伝えていっていただきたいと切に願っています。


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