051.軍歌とユーミン

今年のNHKの朝ドラ、連続テレビ小説「エール」の主人公のモデル古関裕而は、数々の軍歌を作曲したことでも知られています。実は私は、彼の作曲した「露営の歌」「若鷲の歌」「暁に祈る」などをそらで唄うことができます。

なぜなら私が子どもの頃、亡くなった父が軍歌のレコードを時々かけていたからなのです。父は両手の人差し指をそれぞれ立てて、まるで指揮をするように曲に合わせて動かしていました。

父は大声で唄うことはありませんでしたが、思わず小声で口ずさんだり、ハミングしてしまうようなことがありました。目をつぶり両手でリズムを取りながら、どこか遠くに思いを馳せているような父の恍惚とした表情をよく覚えてます。

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私の父は大正13年(1924年)に生まれました。関東大震災の翌年です。10月生まれだったので、毎年お誕生日が来るまで昭和の年数と満年齢とが同じとなるので(私の生まれた昭和34年に父は34歳)、あの時、父が何歳だったかがすぐにわかります。

父が軍歌を聴いていたのは、私が小学校の三、四年生の頃だったので、それは昭和43年(1968年)〜昭和44年(1969年)、父は四十代の前半だったということになります。昭和20年(1945年)に父は二十歳で終戦を迎え、それからもう二十年以上が過ぎようとしている頃のことでした。

私にとって軍歌は、テレビマンガ(当時アニメとは呼んでいませんでした)の主題歌と同じように、心と体に染み込んいきました。しかし小学校に上がれば、戦争がいかに残酷で悲惨なものか、平和がいかにありがたく尊いものかは、学校やテレビなどを通して学んでいきました。

子どもの私から見ても、父は明らかに反戦主義者でした。何かの拍子に思わず「戦争だけはダメだ」と呟いたのは一度や二度ではありませんでした。大正生まれの男性のほとんどは出征しましたが、私の父は理系学生だったため、学徒出陣の際も徴兵猶予されており、ついに戦地へ赴くことなく終戦を迎えました。その父がなぜ軍歌なのだろうかと、私は子ども心に不思議に思っていました。

大人になったある日、父にとっての軍歌は、もしかしたら私にとってのユーミンやクイーンと同じではないかとふと思いつき、次第にそれは確信となっていきました。

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ユーミンこと荒井由美の最初のアルバム「ひこうき雲」が発売されたのは昭和48年(1973年)のことでした。それから毎年「MISSLIM」、「コバルトアワー」、「14番目の月」を発表し、結婚して松任谷由実となってからも、「紅雀」、「流線型'80」、「OLIVE」、「悲しいほどお天気」と、70年代だけでもベストアルバムを含めれば10枚以上のアルバムをリリースし、シングルレコードも数多く発表しました。

私が初めてユーミンに出会ったのは高校一年生の夏、友人から借りたセカンドアルバム「MISSLIM」がきっかけでした。収録されていた曲は、「生まれた街で」 「瞳を閉じて」「やさしさに包まれたなら」「海を見ていた午後」「12月の雨」「あなただけのもの」「魔法の鏡」「たぶんあなたはむかえに来ない」「私のフランソワーズ」「旅立つ秋」の全10曲でした。

その旋律、その歌詞に私は一気に心を奪われました。このアルバムの参加ミュージシャンは、松任谷正隆、細野晴臣、鈴木茂、林立夫、斉藤ノブオ、吉田美奈子、山下達郎、大貫妙子と錚々たるメンバーで、それまで聴いたことのない新しい音楽に夢中になりました。こうして私のティーンエイジはユーミンに彩られていったのです。

さらに、高校に入った年は英国のロックバンド、クイーンが来日して「キラー・クイーン」が大ヒットしました。私も遅ればせながら「ミュージック・ライフ誌」を片手に、クイーンの大ファンにもなりました。フレディ・マーキュリーの圧倒的な才能に、心を鷲掴みにされました。

ユーミンもクイーンも、こうして私の十代になくてはならない曲となっていきました。次々に発表される新しい音楽をすべて聴きたいけれど、お金のない私たちは、LPレコードが入る大きな布袋を下げて学校へ行き、毎日のようにLPレコードの貸し借りをしていました。

そのためには自分でもレコードを買わなくてはならず、お昼のパンを買うお金を節約して買った「オペラ座の夜」や「14番目の月」は、今も尚、アルバムの隅々まで思い描けるほど、私の大切な宝物でした。あの頃は、男子も女子も「すごい新譜が出た」と言っては、いっぱしの評論家風情にうんちくを傾け合っていました。

高校生になって初めて九段の日本武道館へも行くようになりました。クイーン、レインボー、キッスなどの来日公演に、クラスの仲間と連れ立って行きました。武道館はコンサートホールなのに、なぜ武道館と呼ぶのだろうかなどという能天気な疑問を持つ高校生でした。

今でもユーミンやクイーンの曲を耳にすると、突然、あの頃の日々が色鮮やかに蘇ってきます。

テニスコート脇の八重桜、夢中になって耳コピしながら弾いたグランドピアノ、中間試験、入道雲、バンドの真似事をした体育館、漠然とした不安、自転車の二人乗り、先輩の後姿、ラジカセ、文化祭、ジャズ喫茶のアイスコーヒー、潮の香り、窓辺のヒヤシンス、図書館の匂い、交換日記、初めて作ったチーズケーキ、コインローファー、水のきらめき、死、陽炎、不二家のソフトエクレア、バス停、サイダー、みんなが帰ったあとの校庭。

私にとってユーミンやクイーンの曲は、歌詞や旋律が「あの時代そのもの」を想起させる何物かに変化していて、もはや音楽というよりあの時代の記憶に直結するタイムマシンと化しています。

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私の父にも、当然のことながら十代の日々はあったのでしょうが、それはユーミンやクイーンを聴いていた私の十代とはまったく違っていたことでしょう。大正生まれの若者にとっては、逃れることのできない徴兵がありました。

父より四つ年上の安岡章太郎(1920-2013)は、昭和19年(1944年)、慶應義塾大学文学部予科にいましたが、著書で次のように述べています。

 僕らは、この高橋先生の話を、どう受けとっていいかわからなかった。アヘン会社設立うんぬんの話もだが、何よりも先生が僕らの「就職」を心配してくれていることが不可思議だった。確かに高橋先生が大学を出た昭和の初年の頃には、就職が学生たちの最大の関心事であり、悩みでもあったであろう。しかし、いまや僕らの中には誰も就職のことなど考えている者はいなかった。僕らは学校を出れば、たちまち軍隊に就職し、兵隊に採用されるに決まっていたからだ。

安岡章太郎著『僕の昭和史』(1984年)新潮文庫 p.188 より

また、父よりひとつ年上の司馬遼太郎(1923-1996)は大阪外国語学校蒙古語部にいましたが、著書の中で次のように語っています。

「ああ、もう卒業だよ、なァ……」
 校庭の芝生に寝転んでいた私は、隣でサバみたいに伸びていたMに話しかけた。
「うん……卒業ちゅうた所で、まァ死の門みたいなもんやな」
 太平洋戦争が始まって間もないころのことだ。学生にとって卒業というものは、学生服を単に軍服に着替えるだけの、いわば、人生の門出どころか、卒業即入営、しかも数ヵ月の訓練期間もそこそこに激戦地に送られ、程もなく同窓会名簿に黒線を入れられるというまるで葬列への出発と同義語であった。
  人生は二十五歳までと思いこめ。
  大正生まれは戦うために生れて来たと思えば諦めもつくじゃないか。君たちは悠久の大義に生きる光栄を担(にな)ってるんだ。
 などという空疎(くうそ)な言葉を百ダースも叩きこまれたところで、死なされる当人にとってみれば、なんの観念の足しにもならない。なぜおれだけに、定命五十年を生きる権利がないのか、と歯がみして怒鳴りたくなるような焦燥が、卒業をひかえた学生たちの生活を暗たんたるものにしていた。

司馬遼太郎著「それでも、死はやってくる」(昭和29年(1954年))『司馬遼太郎が考えたこと1』新潮文庫 p.25−6

安岡章太郎は昭和19年(1944年)に学徒動員で出征し、ソ連国境の北満孫呉に送られましたが、彼が高熱を発し寝込んでいるうちに、彼の所属部隊は南方戦線へまわされ、レイテ島でほぼ全滅しました。この死闘は大岡昇平著『レイテ戦記』詳しく描かれています。

司馬遼太郎は、昭和18年(1943年)に学徒出陣で出征し、兵庫県、満州などに配属されたのち栃木県佐野市で終戦を迎えました。敵上陸を想定しての演出があったとき、東京から避難民が大八車に家財道具をつんで逃れてくるので交通整理はどうするのかと尋ねたら、「轢き殺して行け」と大本営から来た少佐参謀は答えました。終戦の放送を聞いたあと「なんとおろかな国に生まれたことかと思った。むかしはそうではなかったのではないか」という疑問を持ち、それが原点となって幕末から明治の国民国家の歴史を描いていくことになったと語っています。(NHK 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」第4回 二十二歳の自分への手紙

このような時代に、彼らと同じような十代を過ごした父の青春の曲は軍歌であり、戦意を高揚するために作られた軍歌が父の青春のBGMだったのかと思うと、実に切なくなります。人は自分がいつの世に生まれ落ちるかを選ぶことはできません。

さらに、当時だけでなく戦後になって青春時代を振り返ろうにも、軍歌を人前で唄ったり聴いたりすることははばかれる空気がありました。軍国主義者、あるいは戦争賛美者と思われかねないからです。私は五年生になる時に引越しをしましたが、新しい家で軍歌のレコードを聞いた覚えはありません。

そういえば新しい家では、父がハーモニカを吹くこともなくなりました。父のハーモニカは、旋律と伴奏を同時に演奏する、なかなかのものでした。理由はわかりませんが、父は自分の中に戦争を封じ込めていったように私は感じています。

◇ ◇ ◇

父の軍歌のレコードには、古関裕而の曲の他にも、「軍艦マーチ」や「海ゆかば」なども収録されていました。「軍艦マーチ」だけはなぜか戦後も長いこと、パチンコ屋の景気づけの曲として街に流れていました。

しかし時として「軍艦マーチ」と共に演奏されることのある、鎮魂歌の色合いが濃い「海ゆかば」は、長らく発禁となっていました。それは大本営発表の際や、戦没者の遺骨の帰還、それに戦時ニュースの際に使われていたためだろうと思われます。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍(かばね)
大君の 辺(へ)にこそ死しなめ
かへりみはせじ
(長閑(のど)には死なじ)

今回調べてみて、初めて知ったのですが、「海ゆかば」は、大伴家持の万葉集の歌に、牧師の息子として生まれ、ベルリンで西洋音楽を学んだ信時潔(のぶとききよし)が曲をつけたものなのだそうです。どこか讃美歌のような響きをもつこの曲は、私の魂の奥深くに直接触れてきます。当時を知らない私も姿勢を正さずに聴くことのできない曲なのです。

私はこの歌を聴くたびに、ニューギニアや満州で息絶えた兵士を思い描いていましたが、作者が万葉集の大伴家持だったと知って大変驚きました。改めて、いにしえの昔から戦(いくさ)というものは悲しいものなのだと思います。

古関裕而の戦中戦後がどのようであったか、現在中断しているドラマの再開が待たれるところですが、「海ゆかば」の作曲家信時潔は、戦後冷遇されていったようです。昭和17年(1942年)に共に芸術院に推され、当時並び立つ国民的作曲家だった山田耕筰とは対照的だったといいます(新保祐司著『信時潔』2006 構想社 p.145-6)。

戦争は社会のあらゆるものを破壊しました。多くの人々の命と生活とを奪い、才能溢れる作曲家たちにも茨の道を歩かせました。

私は子どもの頃から古関裕而や信時潔が生み出した軍歌に触れてきましたが、歌詞はともかく軍歌には素晴らしい旋律の曲が数多くあったと思います。しかし、軍歌というその性格上、戦後の価値観の中で、人々はこれらの曲を口ずさめなくなってしまいました。

つかの間の日々、父は人差し指で指揮をしながら、遙かなる青春の日々に思いを馳せていたのだと思います。それは私がユーミンやクイーンを聴く時と同じように、タイムマシンに乗っていたのではないかと思います。


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