034.歩道橋の開通式

昭和43年(1968年)の春、通学路に歩道が完成しました。青と緑のペンキを混ぜたようなターコイズブルーの歩道橋でした。当時小学校3年生だった私には、その鉄骨の塊がとてつもなく大きく感じられました。先生や親たちは「良かった、良かった、もうこれで安心」と口々に言っていました。

当時は「交通戦争」などという言葉も現れ、通学路にある「舗装道路」も交通量が増えていました。昭和40年(1965年)になるまでは、近所の道は雨が降ったらぬかるむ「砂利道」がほとんどで、アスファルトの舗装が施されているバス通りは、あたかも固有名詞のように「舗装道路」と呼ばれていました。

小学校に上がる前の子どものテリトリーは「舗装道路」の手前までで、その先の歯医者さんに行く時などは、必ず母の付き添いが必要でした。

小学校に上がると、その「舗装道路」を横断して毎日学校に通うことになり、通学路にはいつも緑のおばさんが黄色い旗を持って子どもたちを見守ってくれていました。それでも朝はともかく放課後は三々五々帰ってくる子どもたちを見守るのは容易なことではなかったのでしょう。

小学校に入って最初に習ったのは、「右見て、左見て、もう一度右見て渡りましょう」という標語でした。校庭で何度も、右に左に首を振って練習した記憶があります。

「交通戦争」というのは当時大きな社会問題となっていました。交通事故死者の推移をみると、2018年では3,532人の死者数も、ピーク時の1970年では16,765人と、実数で現在のほぼ4、5倍でした。人口は当時ほぼ1億人でしたが、現在では1億2500万人と25%増しですから、4、5倍どころか実感としてはもっと多く感じられていました。

それでも、車を減らせという議論にはならず、「発展」「成長」は熱い希望と共に語られていました。舗装された道路も小学校に入ると急速に増え、みるみる間に辺りの砂利道はアスファルトで覆い尽くされていき、「舗装道路」という言葉自体も日常生活からいつしか消えました。

東名高速道路が開通したのもこの年でした。遠足の時、バスガイドさんが東名高速道路を1メートル作るのにどれくらいの金額がかかるか?という問題を出したのですが、答えは今も忘れることのできない100万円でした。たった1メートルの道路に100万円?!と、バスの中は驚きの声で溢れました。

歩道橋ができた頃、教科書に「このまま発展していくと、日本は何年か後にはアメリカを抜いて世界一の生産国になります」という趣旨の文章が載っていて、子ども心に「なんてスゴいんだろう」と思っていました。先生は「日本人は手先が器用で勤勉だから、必ず世界一になるでしょう」と胸を張って説明をしていました。男子も「すっげー」とはしゃいでいました。

開通式の日は朝から晴れ上がり、抜けるような青空の下、近隣の児童生徒が大勢集まりました。みんな心ウキウキで、期待がさざ波のように私たちを包んでいました。来賓の方々が紅白のテープにハサミを入れ、音楽隊が演奏する中、色とりどりの風船が大空に放たれました。私はずっとずっと風船の行方を目で追っていて、最後のひとつが見えなくなるまで空を見つめていました。


昨年末に実家の母が倒れ、入院しました。病院に母を見舞った帰り道、タクシーに乗っていると懐かしい風景に包まれ、子どもの頃に引き戻されるような気分を味わっていると、突然、目の前に小さな朽ち果てた青い歩道橋が現れ、通り過ぎていきました。錆があちらこちらに浮き出ていて、もう誰も渡っていないのは一目でわかりました。

胸を突かれるような思いでした。大きくそびえ立つようだった歩道橋は、かろうじて建っているといった風情でした。同時に、あの開通式の日の光景が脳裏を過ぎりました。あの日、歩道橋は未来への架け橋でした。私たちが目で追っていたのは、風船に託された希望だったのだと改めて思いました。

今、人々は歩道橋の下の横断歩道を渡っています。人にやさしいバリアフリー化が求められています。「器用で勤勉」と評されるのは他の国の国民になりました。多くのものを手に入れ、多くのものを失なった半世紀でした。それでも、明治維新前後、第二次世界大戦前後の社会の変化に比べれば、大したことはなかったと思います。

母はおかげさまで無事に退院することができました。歩道橋の開通式の朝、エプロン姿で私たちを笑顔で送り出してくれた母も随分年をとりました。それでも再び自宅に戻り、元気で暮らしています。


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