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命の懸け方

現状に対して、満たされているようで、やはり何か足りないような変な感覚がある。
確かに幸せなのに、幸せだからこそぼんやりと生きてしまっているような気がして、毎日がただ過ぎていくことが怖いのだ。

今を見つめる時、ここまで来た道のりを思い出す。2年前までの元職場では、直属の上司からのパワハラに苦しんでいた。

毎日やり込められてしまう自分が情けなくて、悔しくて、ひたすらに我慢した。
我慢したから、誰も助けてくれなかった。
考えもやり方も全て否定され、押し付けられ、自分はここにいなくても良いのだと毎日思った。

適当な理由をつけて、お金と時間をかけて、たくさんの人に少しずつ嘘をついて、なんとか抜け出したのが2年前だった。

上司のパワハラ気質はどうやら今でも変わっていないらしい。
後任の1人目は精神的に追い詰められて休職、2人目は2ヶ月で退職した。今月から3人目の後任者が共に働いているようだ。

2年間、あまりにもつらかった。
休職も退職も、プライドの高い自分には恥ずべきことであるように感じた。だからいっそ、死んでしまおうかと思った時もあった。
遺書に上司の名前と、今までされてきたことを書いて私が死んだら、どうなっただろうか。

間違いなく身内は黙っていなかっただろう。
発狂しながら、責任を問うたことだろう。
業界が騒然としたかもしれない。
ヒステリックな実母のことだから、収拾がつかなくなるほど大騒ぎして、マスコミに訴えて、とんでもないニュースになって、上司も世間から非難されて人生が狂っていただろう。

一人、また一人と後任がいなくなり、職場内で非難轟々にもかかわらず、上司は自分の非を認めない。飛ばされもしない。長続きしない後任への文句を垂れながら、暴走を続けている。

私があの日あの時、上司への恨みを抱えたまま死を選んでいたら、今頃状況は大きく違っていたのかもしれないと思う。

できることならそれを見たかった。
報復を受けている姿を見て、ざまあみろ、と心の中でほくそ笑みたかった。
勧善懲悪が大テーマのアニメを観ている時のような、「こんな悪いことをして、どんな報いを受けるんだろう」という期待がふくらんでいた。

なのに、そうなるためにはおそらく自分が死ななければならない。
私が死んでしまっていたら、事の顛末を見届けることができないのか。それは嫌だな。

ああ、生きていて良かった。
くだらない想像ができるのも命があるからだ。
あの日、あんなやつのために、尊い私が無駄死にしなくて、本当に良かった。

よく耐えた。よく生きた。
命の懸け方はたくさんある。今の自分を生かす方法を選べたあの日の自分は、きっと偉かった。

無駄に命を過ごしてしまいそうな時は、こうして昔の自分に思いを馳せることにしている。


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