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韓国産キムチラーメンとスパイスドラムのライム抜きキューバ・リブレ

 気がついたのは確か、金曜の午後だった。
 
 少し前の週末、俺はいつものように猫っぽい娘へメッセ飛ばそうとソーシャルアプリを立ち上げたら、知らん間にブロック食ってたというわけ。
 いつかはこんな形で切れる関係だろうとの思いが、ずっとどこかで佇んでいたにも関わらず、猫っぽい娘の喪失感は自分でも受け入れられないほど強い。そればかりか、それに動揺している自分を直視すると、自分の不安定さに呆れてまた動揺するという、ほとんどパニックに近い連鎖まで発生している。結局、その週末はなにも手がつかず、ぼんやり上の空で過ごしてしまった。
 月曜になっても猫っぽい娘からは音沙汰なく、週末の間に状況が変化するかもと、かすかな期待にすがっていた愚かさをなじりたくなる自分さえ感じる。そうなると、今度は自虐の苦痛を押さえ込むストレスが、新たな責め苦となって全身に走るのだ。
 火曜の朝になったところで俺もいい加減に腹をくくり、猫っぽい娘と出会う前の日常へ戻った。まずは食材の補充だろうと気晴らしついでの買い物から戻って、郵便受けをあらためると、事務的な通知やチラシの間に写真ギャラリーからレセプションの案内が混じっている。いちおうは東アジアの若い写真作家を欧州のイベントで紹介するという目的で運営されているギャラリーだが、実のところは性的なテーマで制作する若い女性写真家か、あるいはゲイのアーティストをピックアップして東洋趣味の金持ちへ売り込むビジネスが収益の軸だった。
 東アジアの女性作家、特に性的なテーマで制作する人々や、同じようにアジアで活動するゲイは、いずれも制作環境が厳しく、そういうあざとさも軽々しくは批判できないだろう。ただ、ややもすればセクシャルマイノリティやセックスワーカをセンセーショナルに扱ったり、当事者を置き去りにして保守的な価値観を無批判に取り入れた作品をプッシュしたり、なんともきな臭い感じがしていたのも確かだ。
 それに加えて、ギャラリーのオーナーが俺と腐れ縁の女が性交する様をアンシミュレート作品にした女性フォトグラファーを公私共のパートナーにしてからは、作家をプロデュースする基準や周辺の人間関係への信頼もかなり揺らいでいる。
 そんなわけで、個人的にはギャラリーはもちろん、その周辺とも距離をおいていた。ただ、好きな作家が個展を開催した縁で、いまでもギャラリーの案内は郵送される。もちろん、案内されたレセプションへ顔をだすつもりなどさらさらないが、金曜夜の開催ということもあって、この状況じゃなければ猫っぽい娘を誘っていたかもなぁなどと、つまらない考えが頭をよぎった。
 そんなこんなで日々は過ぎ、あっという間に再び週末の夜。なんとなくセックスするようになっていたおにぃちゃんもこういう時に限って捉まらず、かと言って無為にだらだら過ごしていると、つい猫っぽい娘からのブロック原因を探り始めてしまい、精神衛生上よろしくなかった。まぁ、あれこれ考えたところで、当人とやり取りしない限り、本当のところはわかるまい。
 その苛立ちとは裏腹に、あれから猫っぽい娘の携帯にもメールにも、連絡を試みてすらいなかった。こちらから動くことで可能性を閉ざしてしまうのではないかと、怯えにも似た弱気が、いまだに俺の手を止めている。
 だが、やはり猫っぽい娘の作品制作で主要な被写体だったおにぃちゃんと、俺がうっかりセックスしたことは要因のひとつと見て間違いなさそうだ。そうなると出会いの釣りも虚しく、ならばくだらん映画でも観るかとネットをさまようばかり。
 ふと、自室の黒くて大きな固定電話が、古風なベル音を鳴り響かせる。懐かしい日々の忘れ形見に維持してるダイヤルパルスのアナログ回線へ着信したということは、どうせろくでもない厄介事が持ち上がったのだろうと、巨大な受話器を取る前に覚悟を決めた。この番号を知る人間は若い頃から付き合いのある限られた人間か、腐れ縁の女ぐらい。記憶にある最後の着信は、そういう古い友人の遺族からだった。
「もしもし……」
 自分でもわかるほど、声は刺々しい。
「あ、おじさん、ですよね」
 猫っぽい娘の声!
「うん、俺! よく知ってたね~この番号」
「おねぇさんから教わりました」
「そうか~にしても電話ありがとう。で、どうしたの?」
 瞬時に声も表情もどろどろに溶けてしまうのを、はっきりと自覚するが、もはやどうしようもなかった。そこへトドメの「いまから、そっち行ってもいいですか?」である。もちろん大歓迎だが、やや気がかりなこともあった。通話を終えかかった猫っぽい娘に、慌てて声をかけ引き戻す。
「切る前でごめんね。ただ、ちょっと気になっちゃって」
「なんです?」
「どうしてこっちにかけたの?」
 束の間、電話越しに猫っぽい娘の忍び笑いが聞こえたような、そんな気がした。
「だって、携帯だと部屋にいるかどうかわからないでしょ」
「外だったら戻ったよ」
「そういうのは嫌だったんです。それに」
「それに?」
「携帯は繋がらないのか、やってるから切ってるのかわかんない」
「こっちだとわかるの?」
「わかりますね」
「いまは?」
「やってないし、部屋にはおじさん独り」
「アタリだけど、なんでわかるの?」
「ないしょ」
 それ以上は聞き出せないまま、電話は切れる。猫っぽい娘の笑い声が交じった「すぐつくから待ってて」が、俺の耳に残っていた。もしかしたら、これはこれで別の厄介事、なのかもしれない。

 黒光りする受話器をそっとおいた後は、無駄に湧き上がる高揚感を抑えるのに必死で、コツコツと階段を上る足音が聞こえてから、膝の抜けたスウェット姿でなにも用意していないことに気がついた。これまで、さんざんだらしない格好を見せているのに、なにをいまさらって思わなくもないのだが、そんなことに気を回してしまうほどテンパっている。
 慣れた調子で鍵を回し、解除番号をタイプする音に続いて、静かに扉が開いた。
「ご無沙汰です~」
「おかえり!」
 メッシュチェアから腰を上げつつ寝部屋から声をかける。
「いや、それはちょっと」
 いつもの呆れたような苦笑いを浮かべつつ、猫っぽい娘が台所から顔をのぞかせた。大判ファイルも入る馬鹿でかいバッグを抱え、よろめくように入ってくる。コートの下はスカートワンピにストッキングと、この時間とはいえ電車でかなり難儀したろうことは想像に難くなかった。
「ちょっと、これ置かせてください」
 すまなさそうな猫っぽい娘へ置き場所を指示しながら、労い混じりの言葉でなにがあったのか尋ねると、思いもよらぬ答えが返ってくる。
「新人選抜展のレセプションに行ったんですけど、いろいろダメで……」
「もしかしてコレ?」
 案内のポストカードを見せると、無言で頷いた。
「うわ~行けばよかった」
「なに言ってるんですか? おじさん来たらブチ切れでしたよ!」
「え、誰が?」
「ふたりとも!」
 言いながら笑い始めた猫っぽい娘につられて、俺も顔がほころんでいく。猫っぽい娘は荷物をおいてコートをかけると、声を潜め「なにか、食べるものないですか?」と申し訳なさそうにつぶやいた。残念ながら晩飯は食い尽くしていたので、手早くなにか作ろうかと声をかけたら、即座に「ほんとにお腹ぺこぺこなんです。できればパンかなにか、すぐに食べられるものだと嬉しいんですけど」と、さらに意外な答え。
 とりあえず、着替えている間に買い置きのカップ麺をいくつか並べたら、猫っぽい娘が選んだのは韓国産のキムチラーメンだった。
「空きっ腹に大丈夫?」
「いまは辛いのガツンとぶち込みたい気分です」
 なにがあったかはおいおい聞くとして、こりゃかなり刺激的だなとワクワクし始めてしまう。
 シュウシュウ湯気を立てるヤカンをふたりで眺め、カップ麺がにんにくと唐辛子の臭いを放ち始めた頃には、部屋の世界はすっかり猫っぽい娘の時間軸へ戻っていた。口の中で小さく、俺はもういちど「おかえり」とつぶやく。
 猫っぽい娘は別添えの真空パック詰キムチと辛味ペーストをカップへ絞り出すと、指先に付いた赤黒いペーストを舐め、露骨に顔をしかめた。
「いっちゃん辛いとこだよ、それ」
 たしなめながら冷蔵庫のコーラをマグカップへ注ぎ、猫っぽい娘へ押し付ける。手早くカップの麺と汁を混ぜながらうなずき、受け取ると唇の辛味を流すように仰いだ。ひと息つくと、今度は麺に取り掛かる。
「やけに美味しいですね!」
「空腹のせいじゃないよ、それはほんとに評価が高いんだ」
 へ~と感嘆の声を上げつつ、カップを持ち上げメーカーと品名を確認する猫っぽい娘に「残念、それはディスコンで市場在庫もない」と、俺は悲しい宣告をした。そのまま「最後はマニアが探し回ってね」と続けていたら、カップを置きつつ「大丈夫ですか?」と気遣ってくれる。
「大丈夫、俺は何度か食べてるから」
「いや、賞味期限です」
 まだ切れてないはずと言い繕いつつ、慌てて外した蓋を取り確かめるが、そこには記載がなかった。狼狽する俺を眺めつつ、猫っぽい娘は「今年のものなら大丈夫です」とこともなげに言い、何事もなかったように再び食べる。
 麺が高級だとかキムチの漬物感がすごいとか、驚いてるのか呆れてるのか判然としない口調であれこれ感想を述べつつ、猫っぽい娘は汁まですっかり飲み干した。また申し訳なさそうに「コーラ、もう一杯いただけます?」とマグカップを差し出す猫っぽい娘の顔を見つめながら、俺は「良ければキューバ・リブレにするよ、ライムはないけど」と笑顔を返す。
 柄にもなく「いいんですか?」と恐縮する猫っぽい娘の前へ、コンビニでも売ってるポピュラーなダークラムの平たい小瓶と、古風な取っ手付きガラス瓶に古臭いエッチングのタコを描いたラベルの瓶を並べた。
「これ、高いやつでしょ? 開けてないのに、いいんですか?」
 細い指でタコのラベルをつつきながら、神妙な顔をする。いただきものだけど「俺だけじゃ飲まないから」と返したら、どちらも飲むので先に平たい小瓶をくれと言いやがる。内心『そう来なくっちゃ』と微笑みつつカップと瓶を手渡すと、残っていた半分弱を全て注ぎ込み、申し訳程度のコーラを足した。早速ひと口すすり「うむ、この味」とおっさん臭い言葉を吐いた挙句、残りをぐいと飲み干す。おいおい、最初からコレかと驚いていると、ふぅっと大きく息をついた猫っぽい娘は「辛味を流したから、こっち開けますよ」とタコラベルの瓶を掴んだ。
 半ば呆れつつ、眼で『いいよ』と促す。猫っぽい娘は嬉しそうにキャップをひねって外すと、慣れた仕草で瓶を顔へ寄せ香りを確かめた。
「これは……」
「そんなに上等なの?」
「甘さの奥から強さが漂ってきます。ロックで行きましょう」
 わかったようなわからないようなことを言う猫っぽい娘のマグカップへ、氷を幾つか入れる。すかさず猫っぽい娘が注ぎ入れた深い黒褐色の液体から、たしかに甘くて刺激的な香りが立ち上ってきた。待ちきれないと言わんばかりの素早さでひと口飲み「甘いけど、後味がぐっとくる。う~わ~このキレは初めてかも」と続けて飲みながらはしゃぐ猫っぽい娘をみてる間に、俺もちょいと飲みたくなってくる。
 俺のマグカップを出そうと立ち上がったら、背中越しの「いいですよ、こっから飲んでも」と猫っぽい娘の声がした。差し出されたマグカップを受け取り、氷の冷気と香りを確かめつつ口に含むと、ラムの甘さとスパイスの香り、そしてガツンとくるアルコールの刺激が時間差で襲いかかる。
「どうです? もしかしたら、おじさんはキューバ・リブレのほうがいいかも」
 うなずき返し、素直にコーラを足した。
 むせ返るような刺激が背景に後退するとともに、ふくよかな甘味とスパイスの香りが泡とともに口中へ拡散してはたちまち消え失せ、最後にねっとりとしたカラメルのような風味が残る。確かに飲みやすいが、酒に備わっていた美しい野趣というか、実は巧みに計算されているであろうスパイスとラムの風味まで、コーラの甘みと炭酸がまろやかに変えてしまうような感じがして、ちょっともったいないようにも思えた。
 ともあれ腹を満たして酒も飲み、気持ちが落ち着いて来たところで、猫っぽい娘に話をさせる。
「あのギャラリーは趣味じゃないでしょ? 院でつながりあったの?」
「招待されたんですよ」
「選抜されたの? すごいじゃん!」
 猫っぽい娘はふっとため息ひとつ、さらにマグカップを軽くあおると、チェシャ猫めいたニヤニヤ笑いを顔いっぱいに浮かべた。
「違うんですよ、ただの営業」
 俺が苦笑する番かもしれなかったが、そこはこらえてポーカーフェイスを保つ。
 猫っぽい娘の話によると、まずクイアイベントで主催者からギャラリーのオーナーと引き合わされ、そこで『ポートフォリオレビューかたがた選抜展のレセプションにおいで』となったようだ。気乗りしなかったが無下には断れず、現在制作中のクイアポートレートを中心にポートフォリオを組み、なれないセミフォーマルだかスマートカジュアルだかで参加したと。
 できればレセプションの前にレビューを済ませて、始まったらさっさと切り上げようと考えていたものの、案の定というかなんというか事前にはオーナーの時間が取れず、結局は乾杯から選抜作家へのご挨拶やらなんやらの後、顔の効く評論家先生へのご紹介付きでご講評と相成った。
 らしい……。
 さておき、待ち時間に飲み食いする余裕はあったろうと、それが少し気になってしまった。レセプションではオーナーとフォトグラファーの手料理がふるまわれたようだが、それがどうも猫っぽい娘は手を付けなかったという。
「まるでホームパーティだったんですよ。選抜作家すら置いてきぼりの」
「公私共にパートナーって、知らなかったんだ」
「あの女性フォトグラファーがお相手ってのもね」
 全くなってないと言わんばかりに首を振ると、猫っぽい娘はマグカップにライム抜きのキューバ・リブレを作り直して「こっちもイケますね」と、かすかな笑みを浮かべつつ、次の言葉を探っている。
「クーンズの『メイド・イン・ヘヴン』も歴史だし、公私共にパートナーだろうが、おふたりでアンシミュレート制作しようが、そんなのどうでも良かったんですよ。それが話題作りになっちゃうのも、面白くないけど仕方ない。世界なんてそういうものだから」
 うなずく俺の目を見てひと口すすると、さらに猫っぽい娘の熱い語りは続いた。つまるところ、新人の選抜展であろうと作家こそが主役であり、ギャラリーという作家のための空間で、公私共にパートナーのオーナーと作家が主催者顔で手料理を振る舞うことが、いたくお気に召さないのだと。
 猫っぽい娘の語りが熱を帯びるに連れ、部屋の時間軸が再び、ゆっくりと狂い始めた。
 俺は『あのふたりだと、そんなことはこれっぽっちも考えちゃいないだろうな』と思ったものの、それは口に出さないまま、さらに猫っぽい娘の話をうながす。
「アレじゃゲージュツ氏族ですよ! 選抜展じゃない、氏族社会のイニシエーション」
 うまいこと言うなぁと感心しつつ、ドメスティックな集団における階層構造の成立や、そういう人々との関わりにおける食事と料理の意味に対する猫っぽい娘のあまりに過剰な敏感さはどこから来たのかと、そういえば芸大の前はジャーナリズムを学んでいたんだっけと、そんなことも思い出した。しかし、残念ながら最近の作家写真界隈だと、そういう感覚は邪魔にしかならない。
 既に台所の時空ははっきりと歪み、眼前には昭和の居酒屋めいた光景が、もしかしたら猫っぽい娘が生まれた頃まではかろうじて存在していたかも知れないが、いまとなってはドラマですらめったに描かれなくなった世界が、じわじわと広がっていった。そこでの俺は、自信たっぷりに雑な芸術論を断ずるセンパイにキラキラお目々の女学生たちに、どうにか話に絡んでイイトコみせたいと、たださもしくあがいているばかり。
 既視感だ。
 紛れもないデジャヴュ……。
 ともあれ、猫っぽい娘に言わせるとギャラリーのオーナーと女性フォトグラファーが醸し出すホームパーティっぽさは、実のところ相互承認という絆で結びつく社会がもたらすもので、選抜展のような祝祭における本来の主役たるべき作家ですら傍らへ追いやられてしまうのは、仕方がないというよりも積極的に自然なことらしい。恐らく、今日の振る舞いは後々まで尾を引くだろうが、帰属意識なんかこれっぽっちも持ち合わせていない猫っぽい娘にとっては心底どうでもいいことだ。
 そして、時空を超えた既視感の霧もようやく晴れ、評論家先生へのご紹介付きでポートフォリオをご講評していただいた話に至る。だが、既に猫っぽい娘のろれつは微妙に怪しくなっていた。こりゃそろそろ切り上げて寝かせたほうがいいかと腰を上げかかった時、猫っぽい娘の一言で座り直す。
「でね、これがおじさんをブロックした話に繋がるんですけど」
 思わず背筋を伸ばして両手を組み、謹聴させていただく。
 結論から言うと、オーナーと評論家のいずれも『水準以上だが、選抜するにはもう一息』との評価だった。そこから、ふつ~に展示費用は出展者もちの営業かけられ、まぁしょうがないかなと思っていたところ、女性作家の安価な作品ばかり買っているおっさんコレクターが、横から『こう艶っぽさというか、いろっぽさが作品にないんだよ』などと口を挟み、挙句『この人トランスで、いまは男でしょ、もっと親密な関係になりなよ』とセクハラが炸裂したんだそうな。
 流石に女性フォトグラファーが釘を刺すなどして咎めたことから講評はお開きとなり、猫っぽい娘もギャラリーを後にしたのだが、どうにも腹の虫が収まらず、そこでさっきの電話をかけたという流れだった。
「わっかりやすいセクハラだな。でも、そんなのほっときゃいぃんじゃ?」
 この話がどこでブロックに繋がるのか以前に、そんなことを気にする猫っぽい娘の意図や心情がつかめない。
「つまり性的マウンティングによる承認関係をテーマにしろと、そういう話ですよ」
 猫っぽい娘はマグカップを静かに置くと、しっかりした口調でさらに言葉を繋いだ。
「このままじゃ、プロジェクトがだめになっちゃう。主題が寝取られるってことを再確認したんです」
「再確認?」
「うん、完全に。写真ですから、観たほうが早いですよ」
 そう言いながら猫っぽい娘が渡すポートフォリオをめくると、おにぃちゃんの表情や雰囲気がわかりやすく変化した瞬間がある。
「これって……」
 クラブの照明やファミレスの蛍光灯に照らされた少年めいた気後れが消え、キャバ嬢を同伴するおっさんのようなドヤ顔が唐突に出現した。その断絶はあまりにも急激で、猫っぽい娘がおにぃちゃんを撮らないと決めた理由を、なによりも雄弁に語っている。
「そう、おじさんとやったことで心境の変化が」
 認めたくはないが、猫っぽい娘の見立てに間違いはなかった。そして、おにぃちゃんのドヤ顔にかぶさる艶っぽさというかいろっぽさが、また別の解釈をもたらしかねない。そう、あのセクハラおやじが指摘したような、関係性の変化を示す徴だ。
 いずれにせよ、俺の軽率さがコンセプトを破壊したことは揺るがないだろう。
「申し訳ない」
「謝ることじゃないです!」
 たじろぐほどに鋭く、強い言葉を打ち付けられたところへ、さらに「馬鹿にしないでください」と静かに続いたら、もはや黙る他に選択肢はなかった。
「おじさんは悪くないし、誘ったおにぃちゃんも悪くない。だって、ふたりともいつものようにしただけ」
 慰めとも哀れみともつかないまなざしを感じながら、俺は先を続けるようにうながす。
「そもそも、既になんらかのつながりを持っている人々をテーマに、そこそこ時間をかけて撮影するから、そこには動的な人間関係も自ずと含まれるわけです。まして、ポリなクイアイベントに集うセクシャルマイノリティですよ。彼らから性的関係を排除するなんて馬鹿げているし、そこには関係性の移り変わりが存在しますよ。むしろ、そのダイナミズムこそがテーマでした」
「ダイナミズム……」
「古典的ですけど、人と人の出会いと別れがもたらす道筋であり、生き様。それこそ、おじさんの大好きな軌道群ですよ」
「あぁ、ラス・トライエクトリアス(las Trayectorias)…… つまりプロジェクトは……」
 猫っぽい娘はすっと手を伸ばし、ポートフォリオをめくって巻頭言を開く。
「そうです、本企画は【あったこと】や【なされたこと】だけを現実とせず、なさるべくして【なされなかったこと】や【ありえたであろうこと】もおなじく生の内実を構成する」
 俺がポートフォリオを返すと、そのまま続きを読み始めた。
「生とは、まさしく、希求・設計さえつつ、ときに中絶・挫折・屈折するもの、巨大な慣性と偶然の支配の下、次々遭遇する岐路ごとに決断を迫られる、無数の可能的軌道群の総体」
 パタとポートフォリオを閉じ、猫っぽい娘は「このままじゃベタな引用なので、自分の言葉へ咀嚼するか、スペイン語にしようかとも思いますけどね」と微笑む。
「でも、それだと俺をブロックした理由にならないよ」
「だって、おじさん撮ってなかったから」
 思わず、消え行く語尾へかぶるように頓狂声を発してしまうが、猫っぽい娘はそのまま「だから、本当はおじさんに謝らなければならないの。うまくまとめられないのは力量の問題だから」と頭を垂れた。
 にわかにしょげ返る猫っぽい娘のツムジをみながら、とりあえず「まぁまぁ、すっかり破綻したわけでもないし」と声をかけたら、つと顔を上げ「と思うでしょ? まとめ方でなんとかならないかって、追加撮影でどうにかって思いましたよ」と、妙に不敵な笑顔をみせる。
「コレクターのセクハラが、そんなのふっ飛ばしちゃった。やっぱ、そういう見方されるよねって。異性愛者のあまりに強固な認知の歪みを計算から外すのは、ほぼ自殺行為です。とは言え、彼らの歪みを打ち破るほど強い表現は……」
 猫っぽい娘の目をまっすぐ見つめ、続けるようまなざしを送った。
「最初の段階では、おにぃちゃんとセックスしてもいいかなって思ってたんですよ。でもね、それじゃただのレズビアンとか、下手すると百合になっちゃう。もっと悪いです」
「レズビアンと百合はどう使い分けてる?」
 チェシャ猫のように口元だけで笑いながら、猫っぽい娘は「レズビアンって女性が自らのセクシャリティを自覚しつつ行為する同性愛ですけど、百合は異性愛者の性的妄想ですよ」と断言する。
「でも、おにぃちゃんとおじさんの組み合わせよりは、まだましでした」
「なぜ?」
「おじさんとおにぃちゃんがゲイセックスしてるって、ひねりが利きすぎなんですよ。ほとんどの異性愛者はおにぃちゃんもやはり女だったとして、認知の歪みから異性愛へ回収しちゃう」
 性に関する異性愛者の頑なさや通じなさ加減には、俺自身もうんざりし続けているだけに、猫っぽい娘の強い言葉にただ頷くしかなかった。
「でしょ? でも、それじゃおにぃちゃんのアイデンティティが死んじゃいます」
「それで、うまくまとまらなくなったと」
「ごめんなさい」
 慌てて「それこそ、謝ることじゃない」と猫っぽい娘をなだめながら、異性愛者が多数派の世界だからこそ、めんどくささを超えて大事にせないかんものあるし、伝えるまでもなくその感覚を共にしていたことには、心地よい感動すらある。ただ、それってとばっちりというか、八つ当たりというか、もらい事故もいいところだよなと、そんなことも思ってしまった。
「もし、おにぃちゃんを撮影していなかったら、こんなことなかったと思う。でも、撮ってた。それもメインのひとり」
 あ~やっぱり。巻き添えやん。舌先でぷるぷるしている『そういうとこまで言わんでもえぇのに』なんて言葉を腹の奥へ押し戻しつつ、代わりに「おにぃちゃんは俺達の関係を知ってたし、まだ若いから仕方ないね」と、雑にまとめてみる。
「うん、まだ子供だからね。もちろん、狙われてるのわかってたけど、応じちゃったら撮影が進まなくなるって。そう思って拒否したら、もっとひどいことになっちゃった」
 まとめるどころか、もっとひどいことになった。だいたい、猫っぽい娘にしても俺からしたら子供だしと、もろもろのツッコミを片端から投げ捨て、もう少し話に付き合う。
「おじさんがおにぃちゃんのトロフィになってたの、気がついてないの?」
「へ、俺が?」
 さっきから何度目かの頓狂声を聞き流しつつ、猫っぽい娘は俺がおにぃちゃんを説明なしに無条件で承認したことと、狙ってた相手のセックスパートナーであることが重なり、いわゆるスパダリ認定されてることを力説し始めた。
「いい、おじさんは高学歴インテリで高身長、セクマイへの理解があって余裕と包容力もある」
「ないよ」
「混ぜっ返さない!」
 猫っぽい娘の気迫には、黙るしかない。これも、今夜で何度目だろうか。
「それだけじゃない、料理上手なのがポイント。これがα雄との大きな違いで、イケメン力や財力の不足をフォローしてもお釣りが来る」
 頭クラクラしてきた。
「おにぃちゃんの抱える古臭い男っぽさへのあこがれが、振られた相手からなにかを奪って埋め合わせをする、勝者の徴としてのおじさんを欲したわけ」
 どうにもこうにも腑に落ちないが、受けにとってトロフィハズバンドの役割を果たし、俺と寝ることでおにぃちゃんが満たされざる承認欲求を満たしたというのが猫っぽい娘の認識であることは認めざるを得ない。まぁ、それならブロックもやむなしというか、いちおう筋道は通らなくもなかった。
「おにぃちゃんとは競いたくなかった?」
「もちろん。だっておにぃちゃんは承認欲求が動機でしょ? うんざりですよ」
「おにぃちゃんが嫌いになった?」
「そこまでナイーブじゃないよ。ただ、承認欲求でアヘってるおにぃちゃんのドヤ顔を撮りたくはないし、それをあえて作品として残すほど残酷な人間でもないです」
 やはり納得しかねるが、言わんとする事はわからなくもない。特にレビューでのセクハラを聞いた後だから、なおさらだった。猫っぽい娘はポートフォリオレビューの中で「有名になることが成功じゃないの」と繰り返したらしいが、ギャラリーの人々にはそれがどうも伝わらない。そして、慇懃だがスノッブなやり取りの中で空回りした挙句、尾羽うち枯らしてこの部屋へ舞い戻った……。
 いや、猫っぽい娘の苛立ちは十分に伝わっている、それも痛々しいほどに。むしろ猫っぽい娘の子供じみた承認欲求拒否を、ギャラリーの大人たちは若気の至りとして流し、また歳の近い作家たちもそれに倣った。
 既視感を再確認して、めまいもする。
 でも、それだけのことが、猫っぽい娘にはまったく伝わっていなかった。それは「承認されるだけなら簡単」って口にだす時、小鼻をふっとふくらませるあたりに、わかり易すぎるほど出ている。
「それ、もしかしてギャラリーでも言ったの?」
「承認されるだけなら簡単って? 言いたいけど言わなかったよ」
 ますます小鼻をふくらませながら口を尖らせる猫っぽい娘に「えらいなぁ」とかえしたら、すっと俺を睨みつけ「そういう話じゃない」と切られた。

 そんなこんなで、気がつけば明け方近く。台所でウトウトし始めた猫っぽい娘のほっぺたをちょいとつついたら、こっちが驚くような勢いで跳ね起きた。慌てて荷物をまとめ、着替えようとする猫っぽい娘を引き止めたら、タクシー呼んでと言い始める。
 いくらなんでも夜明け前だし、足元すらおぼつかないのにハイそうですかとは行かなかった。せめて酔いを覚まそうよと、それから始発で帰ればいいと、手つきもおぼつかない猫っぽい娘に言葉をかけたら意外な反応を示す。
「最初に泊まった夜も酔っ払ってたね。覚えてる?」
 戸惑いながら曖昧にうなずくと「あの時みたいに、なにもしないって約束するなら、もう少し遊んであげてもいいよ」なんて、はっきり鼻の穴をふくらませながらドヤりやがった。つい目を細め、笑いをこらえながら「大丈夫、なんもせんよ」と返すのが精一杯。
 でも「それに、たぶんそのほうがもっと長く楽しめると思うから」と続けながら微笑む猫っぽい娘は本当に可愛らしかった。
 スウェットを脱ぎ散らかし、雑にしつらえた寝床で尻まるだしの猫っぽい娘を眺めながら、実の父親は娘に欲情しないって本当なのかなと、そんなことすら思う。
 タコラベルのスパイスドラムを戸棚へしまう時、ここ何日かいくら探しても見つからなかったトマト缶が目に入る。
 俺の世界が元の時間軸へ復帰したような、そんな気がした。

(注)作中に登場するポートフォリオの引用文は

Julián Marías.(1985).
España inteligible. Razón histórica de las Españas
Alianza Editorial.
フリアン・マリーアス 西澤龍生 竹田篤司(訳)(1992).
裸眼のスペイン―燃えあがる「史」の開顕―
論創社

カバーより

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