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裏垢娘のシミュラークルと残念なチキンのクランベリーソースがけ

 都心から離れた私鉄駅の、故障したデジタルサイネージの薄暗い液晶には『調整中』の張り紙と、いらだちや不安や期待、そして欲望のどれひとつとしてごまかせない、中年男のあほうげた姿が映し出されている。複雑に反射するミラーシェードでまなざしに現れる単純な心理を隠しても、ソーシャルの『おさそい』につられてホイホイ出てくる軽くて頭の悪い人間に変わりはなかった。
 やれやれと苦い笑いを自分にあびせつつ、そろそろスマホを取り出そうとストラップに指をかけたとき、液晶に反射される人影が近づいてきた。
「おじさん……ですよね」
 その女性は若さを感じさせつつも落ち着いた雰囲気で、あまり化粧っ気がない地味な顔立ちだった。ややぽっちゃりした小柄な体を、カジュアルというか、ファストファッションブランドのペラペラしたジーンズとダウンジャケットへ押し込んでいる。
「リアルじゃはじめまして、いわゆる『裏垢』です。あの……名前をころころ変える人ですよね?」
 警戒心をにじませながら、それでも裏垢娘は俺の目を正面から見据えて言う。
「あ、です。いまの名前は……なんだっけ? でも裏垢さんはよく流れてきますから、わかりますよ。ちょっと前まで、ほとんど毎日のように配信してましたよね」
 裏垢娘が警戒レベルを上げたような、そんな空気がふわりと、ほんの一瞬だけ、それでも間違いなく、その場に流れた。とはいえ、その嫌な空気を当人がわざとらしく笑い飛ばす。
「あははは、そういや、たまに来てましたよね。配信。アイコンは同じでも名前がいつも違うんで、最初はなんだろうっておもいましたし、いつのまにか覚えちゃいましたよ」
「そなんよ。まぁ、名前を変えると粘着はがしになるんでね。そもそも、つまらんことに首を突っ込んでばかりの自分もよくないんやけど、名前とプロフをいじったくらいで厄介さんがはがれるんやったら、そういうのもありかなって」
 ふたたび、そして今度は露骨に裏垢娘の表情が曇り、ちょっとあわてたようなそぶりすらをみせたが、また笑い声が流れを変える。
「ふはははは、アイツラ馬鹿ですよね。えっと、おじさんのって、いまは日本語でもないでしょ? そもそも読めないし。でも、そういうのがいいんですよね。馬鹿には」
「いまはギリシア語。ラケダイモンΛακεδαίμωνって名前だよ」
「ぶぶぶ、そういうインテリ仕草、好きですよ」
「そういえば、裏垢さんもちょっと変えてたっていうか、もう少し長い名前だったりしましたよね。あっという間に戻しちゃったけど」
 裏垢娘はなにかをあきらめたように微妙に眉を寄せつつ、ちょっとふてくされたような口元からは「めざといですね」なんて、まずい話を振ってしまったのではないかと後悔させるような言葉まで流れ落ちる。それでも、俺がなにかよりその場の雰囲気を悪くしてしまうような反応を、言葉を、表情をあからさまにしてしまう前に、裏垢娘は微笑みを作り直すと「おじさんのそういうところ、嫌いじゃないですよ。だから、告知に反応してくれたの、うれしかったです」なんて、俺の鼻の下をわしづかみにして思いっきり引っ張るようなセリフでまずい流れを完全に断ち切ったうえ、凹みかかった感情を期待へ反転させてくれる。

 すごい、なれてる。
 流石だ。

 なにか、裏垢娘がくぐってきた修羅場にまで思いを馳せそうになったが、ここで彼女の気づかいをふいにするほど俺は馬鹿じゃない、つもりだ。とりあえず、あいまいに「いやいや、そんなに言われるとおじさん照れてしまいますよ」なんて、無意味で知性のかけらもない空虚な言葉で時間をかせぎ、ようすをうかがう。
 裏垢娘はわざわざ思い出すような仕草でひと呼吸おいてから、確認するように話し始めた。
「おじさんが言うの『うらうら裏垢裏べえべっかんこ』でしょ? あれ、アカウント作ってそんな経ってないころなんですよね」
「え、そなんだ?」
「うん、あのころを知ってるんなら、おじさんがいまの相互さんでいちばん古いかも」
「フォロワーさんはけっこう多かったと思うけど、入れ替わり激しいの?」
「つまんないやつはブロックするし、反対にブロックされるのも多いよ」
「あぁ、じゃ、もしかして俺は……」
 裏垢娘の鼻がわかりやすくひくつき、言いよどんで溜めをつくった俺に『そういう解釈はうんざりですよ』なんてまなざしを突き刺しながら、ダメ押しの言葉と芸人のような手振りが中年男のつまらない期待を埋葬する。
「あ、いや、そんなんじゃないです。おじさんこそ、ミュートでもしてたんじゃないですか? だって、あれってかなり前なのに、おじさん絡むようになったの最近ですし、私が認識するようになったのも配信に来てくれてからですよ」
「なんか、申し訳ないような気がしますよ」
「いやいや、むしろそのほうがよかったというか、ミュートしたくなるような状態だったと思いますよ」
「そんなに荒れてたの?」
「ですね。もう、老害アニヲタがずっと粘着してて、ほんとウザかった」
「うわぁ、それはそれは」
「でしょ? だから、どうしても発言が荒れるし、治安も悪くなるから、ミュートしてくれたほうが助かります」
 俺はだまってうなずきながら、じくじくと腸にわきあがる共感性羞恥を抑え込み、なだめるのがせいいっぱいだった。
 自分もヲタで古いアニメは大好きで、しかもこうして裏垢娘の『おさそい告知』につられてホイホイ出てくる軽くて頭の悪い人間だけに、そういう裏アカウントが幻とまで言われた作品のタイトルをもじっていたら、性欲と承認欲求に突き動かされたヲタがゾンビのごとく群がったあげく、どんな有様になるかまで、体験したかのように思い描ける。それどころか、裏垢娘が口にするのさえ不愉快そうな面持ちで言葉を吐き捨てたとき、自分自身も彼女のストレスや不快感、やりきれなさを追体験したような気にさえなった。

 まずい。
 このままでは泥沼だ。
 そもそも、さっきから俺が雰囲気を悪くするたび、裏垢娘がフォローしてる。そんな流れそのものをなんとかしたい。

 だが、そんな俺が焦りを振り払うよりはやく、またしても裏垢娘は素早く、そして的確に場の空気を変えた。
「そろそろ行きましょうか?」
 あわててうなずき、俺は裏垢娘についていく。
「カナダの家具屋さんだっけ?」
「ですね、でもカナダというよりは、ミッドセンチュリーモダンなんですよ」
 そのときはじめて、裏垢娘は作られていない笑顔を見せた。

 昨日の深夜、というか日付が変わったくらいに、俺のタイムラインへ流れたのが、裏垢娘の『告知』だった。

『急だけど、明日ひまな人いる? 出店イベのチケもらた』

 いわゆる裏垢の告知を真に受けるほど馬鹿な話はないのだが、この場合はちょっと事情が違っていた。自分と裏垢娘には共通の知人がいる。つまり、実在する人物、それも若い女性のアカウントであると、裏が取れていたのだ。
 これまでにも裏垢娘は『告知』をしていたが、タイミングが合わずに見守るしかなかった。しかし、今回はちょうと俺の休みと重なったので、みた瞬間にメッセージを飛ばしていた。

『自分、時間あります。なんの出店イベントですか?』

 未明の急な告知だったうえ、平日昼のイベントではあったが、それでも裏垢娘のフォロワーはかなり多いし、日頃からのやり取りもほとんどなかったので、メッセージへの返答はあまり期待していない。それに、サクラじゃなくても、基本的に出来レースだから。それでもせっかくの好機だし、なかばダメもとで簡単な言葉を素早く入力し、勢いで送信した。
 画面に表示される『送信完了』のダイアログをみながら、びっくりするほど緊張している自分にちょっと呆れていたのは、割とはっきり覚えている。そして、告知へのリプライぐらいはチェックしておくかと、もとの発言を表示したところに『メッセージ受信』の通知がポップアップする。
 送信者は裏垢娘で、内容はイベント告知のリンクのみ。
 問い合わせメッセージもマヌケだし、どうしたものかなと思いつつ念のためリンクの安全性を確認していると、さらにメッセージが着信する。
『ごめんなさい、間違えてリンクだけ送っちゃいました。スパムじゃないです』
 こういうのは慣れてそうなのに、妙なところで素人っぽいなぁと苦笑しながら、それとなく確認のメッセージを送る。
『だいじょうぶ、確認したから。家具屋さんの開店イベントで間違いないよね?』
『ははは、家具屋さん。ちょっとウケた』
 そんな微妙に噛み合わないやり取りの中で、裏垢娘が俺を選んだのはタイミングもさることながら、共通の知人がいる安心感が大きいとわかる。知人はお調子者でなにごとにもだらしのないセックスワーカーだが、商売柄やたらと人懐っこくて顔も広いし、お金と人物評価についてはきっちりしているので、俺としてはかなり信頼していた。
 裏垢娘も同じ認識だったらしいのはよいが、そのセックスワーカーが俺を『ものすごく偏屈で気難しいけど信用できるし、安全な人』と評していたのは、どう受け止めたら良いのか、全くわからない。
 さておき、その家具店と言うかファニチャーストアの催しだが、カナダの大手チェーンが日本進出を祝う目的で、関係者を招待しているらしい。裏垢娘がどんな経路でチケットを入手したのか、気にならないといえば嘘になる。ただ、それよりも併設のカフェで開催される、カナダの味を楽しめる無料ビュッフェの方が、はるかに俺の好奇心を刺激していた。

 騎馬警官の赤い制服と帽子姿で前歯をむき出しにした、ビーバーみたいなキャラの看板が目に入ったので、シャトルバス乗り場はすぐにわかった。目玉をギョロつかせたやたらごっついアウトラインの、どう考えても古臭くて日本人にはウケなさそうなキャラを先頭に、ダークスーツ姿の男女が列をなしているのは、笑えない滑稽さにみちあふれていた。ふと、この半世紀前から変わってないようなくどいデザインのビーバーとか、ミッドセンチュリーモダンじゃなくて、ミッドセンチュリーレトロじゃないかとか、そんなネタが頭をよぎる。もちろん、いくら俺でもここでまた裏垢娘の気持ちを逆なでしかねない話は口に出さないだけの理性というか、自制心は残っていた。
 ところが、到着したシャトルバスをひと目見た瞬間、そのなけなしの自制心を極限まで削られてしまう。
 ラッピングされたバスに描かれているのは、企業ロゴや騎馬警官姿のくどい動物キャラだけではなく、虹色をあしらった『持続可能社会』のスローガンや、なにかを訴えているようでなにも言っていない空疎な企業理念、挙げ句に『環境への取り組み』がどうこうとか、自治体の広報誌ですら最近ではあまり書き立てなくなっている、流行遅れの意識高そうなキャッチフレーズに画像だった。

 もしかして、裏垢娘って、こういうのが好きなキラキラ女子なの?
 だったらやだなぁ……。

 その手の社会活動に対する自分自身の嫌悪感、不信感があまりに強いので、ラッピングバスへの不快感と裏垢娘への疑惑を、表情から消し去るのは無理ではないかと思ったが、それでもなんとか無表情をよそおって隣の彼女へ目をやると、そこにあるのは顔中の表情筋をむりやりニュートラルポジションにおいたような、あまりにも不自然な『無』の仮面だった。

 あ、これは俺と同類かも?
 いや、俺もこういう苦し紛れの『無』表情になってるようなきがする。

 そんな思いが胸の奥をよぎった瞬間、もはや俺の表情筋は緊張を保てなくなっていた。とは言え、この状況で笑うのもどうかと思うし、なんとか顔を立て直そうとすればするほど、苦しく滑稽な仮面が出来上がっていく。ありがたいことに、バスでは裏垢娘と別々に座れたから、まずは深呼吸して目を閉じ、気持ちを組み立てる。
 建売住宅の合間に畑や雑木林が残る郊外の平らな道を進むと、まもなく箱型の倉庫みたいな店舗と駐車場のゲートが目に入った。ワンボックスカーやワゴンでふさがってる駐車場を抜けて、バスは店の正面にとまる。ダークスーツ姿の男女に混じってエントランスへ進むと、店内ではすでに老夫婦や家族連れがたむろしている。
「バイヤーデーじゃなかったの?」
「ううん、ジモティもご招待されてるの」
「もしかして?」
「ちがうよ、フリマで買ったの」
 まぁ、たとえ裏垢娘が地元民だったとしても、俺に言うはずはなかろう。
 それよりも、エントランスホールを形成する売り場に林立する告知と言うか広告、デジタルサイネージが気になり、そしてカンにさわった。
 カナダ大使や日加商工会議所、地元自治体首長などのごあいさつ、そして森林資源の保全や、騎馬警官姿の動物キャラはよいとしても、持続可能な社会への取り組みだの地球温暖化防止だの、挙げ句にヴィーガンフードの紹介から、文化的多様性とか少数民族との共存まで、ほとんど環境イベントとみまごうばかりなのだ。
 そして、この数年ほどは環境保護と原発反対のニュースでしか見なくなったアーティストが、穏やかな口調で優しく『みなさんの意識をアップデートしましょう』と語りかける動画が流れ始めたところで、自分の正気度はほとんど限界だった。誰に強制されずとも、自分自身の奥底から湧き上がる怒りと憎悪を3分間どころか3時間だって投げつけ、叫び続けられるのではないかとさえ思った。しかし、となりで裏垢娘が「わたし、家具を見に来たんだよ」と悪態をつきはじめたので、かろうじて狂気の世界へ滑り落ちずに踏みとどまった。
「家具を売りたいのか、理念を売りたいのか、これじゃわからないね」
 べつに裏垢娘へあわせるわけでもなく、自分の心情が口から出ただけのつもり。だが、裏垢娘はちらっと警戒の色をうかべ、きゅっとくちびるをむすんだ。そして「こういう世の中だから、私だって理念も商品のひとつなのはわかってるつもり」と言って、俺の反応をうかがうように目を見る。
 俺は「わかるよ」と、かすかにうなずいた。、
「だいたい、ミッドセンチュリーモダンだって、理念をかたちにしたようなものなの。でもね……」
 裏垢娘がそこまで口にしたところで、これから社長のあいさつが始まるとアナウンスが流れ、ダークスーツ姿の男女はそろって売り場の一角を目指して群れをなし、集まっていく。自分と裏垢娘は彼らビジネスパーソンとは反対の、地元の人々がなんとなく集まっている方へ、ゆっくりと、目立たぬように移動した。

 やがて社長のあいさつも始まったが、その後で登壇した来賓も含め、基本的に地元向けの謝辞のように聞こえたが、地元の人々さえまともに耳を傾けていないようにみえたし、拍手もまばらだったのは、もしかしたらほとんどがチケットを購入した偽装地元民なのかもしれない。

 そして、司会が締めの言葉をのべはじめると、裏垢娘は素早く群れから半歩踏み出し、言い終わると同時に展示場へ歩き始めた。俺は慌てて彼女の後を追ったが、ほとんど駆け足のような速さで、なかなか追いつけない。結局、合板肘掛けイージーチェアの陳列で裏垢娘が足を止めたので、なんとか追いついた。
「ごめんね。置いてきぼりにしちゃって。でも、どうしてもはやく現物をみたくって、つい急いじゃった」
 裏垢娘のほほがかすかに赤いのは、足早に広い売り場を移動したせいだけではないだろう。
「ほんとに好きなんだね」
「ミッドセンチュリーモダンのよさって色々あるけど、私は安楽椅子とカウチ、ソファ、そしてスタックチェアだと思うの」
 いきなり語り始めた裏垢娘に、俺は『あぁ、この娘もこっちがわのニンゲンなんだな』とか、奇妙で、たぶん無礼な親近感を覚えていた。
「そうなんだ。でも、なんで?」
 そんな感情を抱いたとたん、なんの計算もひねりもなく、思いついたままの疑問を、するっと口にしてしまう。裏垢娘はちらっと俺の顔をうかがい『いいの?』と確かめるように瞳をきらめかせ「まず、これは私の考えにすぎないんだけど」と前置きしてから、少し早口で答え始めた。
「ミッドセンチュリーモダンって、その当時の中間層に『ひとつうえの豊かさ』を提供するって理念が根底にあると思うの。それはもちろん物質的な豊かさ、上質さを感じさせる家具を中間層の手が届く価格で提供するってのもあるんだけど、それと同時に落ち着いて安定した暮らしを象徴し、感じさせる家具を通じて、家族のあり方をより民主的で自由する試みでもあったの」
「だから居間、つまりリビングで使うカウチやソファ、そして安楽椅子というかイージーチェアというか、そういう椅子がミッドセンチュリーモダンを象徴する存在なんだな」
「そう、まさにそのとおり。なので、寝室でも書斎でもなく、居間が重要だったの」
「なるほどね。でも、スタックチェアはどうして?」
「いい質問ね」
 裏垢娘が人差し指を立ててそう言ったとき、俺は『ほんとにこんな仕草でこんなセリフをはく人が実在するんだ! しかも、俺はそれを目の当たりにしてる』なんて、失礼極まりない感慨すら湧き上がった。だが、俺はそれを飲み込んで「そうなんだ、ありがとう」ととぼけられたし、そんな自分自身を褒めてやりたくさえなった。
「それは別系統というか、さっきの中間層にリビングルームを通じて家族のあり方って思想の家具を実現するための土台というか、技術的な背景を象徴してるから。つまり、安価に手に入る素材で、大量生産でき、かつ、形として優れている家具をデザインして、市販できる社会を象徴しているのよ」
 裏垢娘の説明はずいぶん堂に入っていて、もしかしたらこれまでにも繰り返していたのではないかとさえ思う。
 これは、ガチだ……。
 俺なんかが下手に浅い知識を振り回したら、返り討ちに合うだけだと自分をいましめたが、それでも口から出たのはまさしく『浅い知識を振り回すオタクがいいそうなこと』そのものでしかない。
「そういう意味だったんだ。それにしても、同じように社会の変化や技術の進歩によって生まれたデザインであり、思想の『構成主義』とはずいぶん違う感じだね」
「ずいぶん違うどころじゃないですよ。正反対ですね。だって、構成主義は社会や思想の画一化を目指すデザインだったんですよ。ミッドセンチュリーモダンは『個人が社会や国家に対抗する最小単位としての家族』を目指していたとさえ言えるんですから」
 正直、なんのことやらさっぱりわからなかった。
 ただ、おそらくは俺の知らない誰かの、いわゆる『名言』と引用したか、それをもじったのだろう。ただ、裏垢娘はオチをきれいに決めた芸人のように満足げな口元で、俺の戸惑い顔にも気が付かない。もちろん、俺はドサクサ紛れに疑問を飲み込み、裏垢娘の勘違いを受け入れつつほほえみを返す。
 それからしばらく、裏垢娘の御高説を拝聴しながら展示場を周ったのだが、表示されているお値段は安くても数万円、高いと数十万から百万超えまであり、どれもとうてい自分の手には届きそうにもなかった。それは、ファストファッションブランドのペラペラ上下で熱く語る裏垢娘も同様のはず。展示されている家具を自宅で愛でる機会は永久にこないであろう、貧乏くさい身なりのふたりが、いちいち展示品にうんちくを垂れながら、売り場をほっつき歩いている。そんな情景の滑稽さ、物悲しさを意識しないわけではなかったが、それでも嬉しそうに語る裏垢娘の姿はかがやいて見えた。
 どうやら、彼女にとっては『自由で開かれた家族』がキーワードになっているようなのだが、それがどこから来ていて、なにを意味するのかは、いまひとつわからない。ただ、先進国の工業化社会における『豊かで上質な暮らしという夢、餅を描くカンバスとしての家具』という表現は、自分でも使いたくなるほど俺の心にひびいた。

 そうこうしていると、店内に「ウェルカムビュッフェの準備が整いました。みなさまカナダの味をご存分に……」なんて案内が流れ、人々は足早にカフェスペースへ集まっていく。流石にダークスーツ姿のビジネスマンたちは互いの様子をうかがいながら、ゆっくりと移動していたが、地元の家族連れや老人たちはほとんど駆け足でわれ先に席を確保していて、自分と裏垢娘が案内されたときには、ビュッフェカウンターに行列が出来上がっていた。
 仕方ないので俺と裏垢娘も列にならび、それぞれ自分のミールクーポンを確認する。
「メインとサイド、そしてドリンクが選べるっぽいけど、これじゃ選択の余地はないかもしれないね」
 ニンゲンのさもしさになかば呆れつつ顔をしかめる俺。
 裏垢娘は「かもね。ただ、あれは最後まで残ってると思うよ」と言って、『ヴィーガンフード』と表示された一角へ目をやった。
 そこは、列の後ろからでも見通せるほど人気がなく、肉団子のトマト煮込みっぽいなにかがほとんど手つかずのまま、たっぷり残っているのがはっきりわかった。
「なんか、外資系ってすごくヴィーガン推すよね」
「ほら、入り口でさんざん見せつけられたじゃないですか? 意識高そうなの。ない方が不自然ですよ。ははは、それにしても不人気なこと」
 無視するのもわざとらしいので、とりあえず当たり障りのないように言ってみたが、裏垢娘の反応はおどろくほど厳しかった。
「だいたい、あんなにヴィーガンだの肉を食べない新しい生活だの飾りたててたら、近寄りづらいよな」
「ヴィーガンってしょせんは肉食のシミュラークルだから、あんなふうにアピールしてイメージで取りつくろうしかないんですよ。だって、あれも見た目はに・く・だ・ん・ご、でしょ?」
「シミュラークルって?」
 どうせ『シミュレーション』かなにかの言い換え、下手すると言い間違いだろうと、深く考えずに問いかけたら、思いがけず面倒な答えが飛んでくる。
「フランス語で虚像やイメージ、模造品などを意味するんですけど、現代哲学では模倣に模倣を重ねて循環し、空虚な概念だけがあたかも本物のように独り歩きする事象や、社会をあらわすんです」
 現代哲学はさっぱりなので、とりあえず好きな作家の話でお茶をにごす。
「自分はわからないけど、ディックの小説に『シミュラクラ』ってニンゲンをコピーしたアンドロイドがちょくちょく登場するんだよ」
「たぶん、もとは同じですね」
 やがて列はビュッフェカウンターまで進み、ミールクーポンで自分はサーモンのグリルとコーヒーを、裏垢娘はチキングリルのクランベリーソースにコーヒーを受け取り、余ったクーポンはスモークミートのサンドイッチにした。ただ、サンドイッチはカナッペのようなひとくちサイズがふたつしかなかったし、サーモンとチキンもひときれずつで、しかも付け合せの野菜まで申し訳ていどだったから、腹を満たすにはどう考えても足りない。どうやら、パンとバタータルトなるちっちゃなお菓子は好きなだけ持っていってもよいらしいが、どちらにもあまり食指は伸びない。無料だし、しょうがないなとぼやきが口からあふれそうになったところ、俺の不満げな顔を察知したのか、カウンターのスタッフがにこやかに「ヴィーガンフードはクーポンフリーですので、この機会にどうぞ」なんて案内してくれる。
 正直なところ、好奇心はかなりあったので、いかにも『背に腹はかえられない』風をよそおいつつ、ヴィーガンフードのテーブルへ歩み寄ったら、そこにはなぜか保温ジャーもあって、脇には『お米はグルテンフリーの健康食』なんてちっちゃなのぼりまで立っていた。
 なぁんだ、ご飯があるなら最初からこれを食べればよかった。
 ちょっと嬉しくなりながらお皿に飯を盛り付け、トマト煮込みのヴィーガンだんごを上からたっぷりかける。
 先に座っていた裏垢娘の向かいにトレーをおいたら、冷ややかに、ちょっと呆れたような表情で俺をみていた。
「もしかして、美味しくないの? ヴィーガンって?」
「いや、まぁ、それもあるけど、後ろみてみてよ」
 裏垢娘の気分を害したのかと、そんな心配もしていたが、まずは彼女の言うままに振り返ると、ヴィーガンフードのテーブルに群がる人々が目に入った。
「はい? 急に大人気だね」
「おじさんがクーポン無しでもらったのをみてた人が、次々と集まり始めたの」
 裏垢娘は、心底うんざりしたような顔でぼそぼそ説明してくれた。
「世の中そんなもんだよ」
 口に出した瞬間、えらそうにジジくさいセリフを吐いたもんだと後悔したが、言葉はもとにもどせない。
「それはそうなんだけど、そんな世の中が嫌で裏垢やってるところあるのね。わたし」
 裏垢娘は、わざとらしく鼻にかかったような声でぼやくと、大女優のようにくちびるへ指をあてる。俺はそんな裏垢娘に、やはりこっちがわなんだなと、無礼な親近感をあらたにしていた。
 ともあれ、まずは食べよう。
 ふたりで「いただきます」と手を合わせ、これまたふたりそろってコーヒーに口をつける。
「妙にハモるね」
 またしてもシンクロニシティ。コーヒーを吹き出しそうになる。
 とりあえず、コーヒーはびっくりするほど美味しい。俺の好きな苦味に寄せたバランスで、ほんのかすかな甘みも感じる。裏垢娘も「コーヒーは当たりだ」なんてつぶやきながら、ちょっとうれしそう。スモークミートのサンドイッチは当然のように美味しく、ひとくちで食べるのがもったいないような気になる。ただ、ちびちびかじったらせっかくの美味しさがそこなわれてしまうのも間違いなく、やはりひとくちで頬張るのが正解だろう。なにしろ、塩漬けの燻製なのに肉はしっとりとやわらかく、汁気が舌にあふれるような感覚さえ覚えたほど。全粒粉のパンもくどすぎず、スパイシーな肉と調和して、口の中に多幸感をかもしていた。
 幸先いいなと思いつつ、俺はサーモンのグリルにレモンをふって、そっと口へ運ぶ。冷めているのは残念だが、塩と胡椒の素朴な味わいに、ローズマリーのほのかに甘くほろ苦い香りが心地よい。美味しくなくするほうが難しい料理だが、それでも口に広がるサーモンの味わいは気分を高揚させる。
 さて、裏垢娘はどうかと様子をうかがうと、どうにも微妙な顔をしていた。
「だいじょうぶ?」
「あ、うん、だいじょうぶ、きにしないで」
「もしかして、美味しくない?」
「うーん、不味くはないんだけど、美味しいかどうかはかなり微妙」
 よせばいいのに、好奇心をおさえられない。
「よかったら、チェンジしてもいいよ」
「いや、それは……」
 初対面の相手に踏み込みすぎたかと思ったが、俺の口と舌は脳の警告を無視して、さらに引っ込みがつかない言葉を放つ。
「ちょっと食べてみたかったりもするし」
「それなら、お言葉に甘えて」
 互いの料理を交換するとき、裏垢娘がホッとしたような表情を浮かべたような気もしたが、それは俺の願望、幻想なのかと、不意によぎったそんな思いをねじ伏せて、チキングリルに深紅のソースをからめ、そっと口に入れた。
 甘みが強くて味に深みがない。鶏むね肉の味はしっかりしてて、汁気もちゃんとあるのに、なにか物足りない。甘みと塩胡椒の単純な味で、うまみがないからなのか?
「タバスコとかビネガーが欲しくなるね」
「あ、それはわかる。私はお醤油をかけたくなったけど」
 テーブルには調味料どころか、ナプキンもない。それらはビュッフェのカトラリーカウンターにあったが、取りに行くのも面倒だ。それにしても、ハワイアンステーキだとくどく感じない甘みが、こちらはどうにも舌に残るのはなぜだろう?
 裏垢娘に、その疑問をぶつけてみようと思ったとたん、答えがわかってしまった。ハワイアンステーキは牛かハムで、もとから肉のうまみが強いし、さらに醤油も使ったりしてるんだ。だから、甘みと調和するんだろうけど、鶏むね肉ではバランスが取れないんだろう。
 甘ったるいチキンをもふもふ食べながら、自己解決した疑問を裏垢娘に話そうかどうしようか少し迷ったが、不意にどうでも良くなってしまう。なにせ、正面の裏垢娘はうれしそうに、そしてちょっと安心したようにサーモンを口へ運んでいるんだから、わざわざあまり美味しくなかった料理の話を聞かせなくても良いだろう。
 そして、チキングリルのクランベリーソースを勢いで平らげると、お楽しみというか、怖いもの食べたさのヴィーガンフードに取り掛かる。
 まずは団子から、と……。
 うまい!
 ちゃんと肉の味がする。
 玉ねぎやピーマンもしっかりうまみをだしていて、もしかしたらこれがいちばん美味しいかもしれない。ご飯も嬉しい。
 気がついたら、チキンを食べ終えたくらいから、ずっと無言だったかもしれない。
 裏垢娘が、ちょっと心配そうにこちらをみていた。
「だいじょうぶ? 無理してない?」
「無理するどころか、これがいちばん美味しいかもしれない」
「え、マジ?」
 俺は深くうなずきながらだんごをひとつスプーンに乗せ「これは肉のにおいがするし、肉の味がする。でも、肉じゃない。プラスグッドだ」と、微笑みながら口に入れた。
新語法 ニュースピークね。でも1984にそんなセリフあったっけ?」
 どうせ伝わらない、独りよがりのネタをふってしまったと、いささか自虐的な笑みがこぼれたところ、ほぼ完璧に返されてしまった。俺は中途半端な笑顔を貼り付けたまま、かろうじて「映画のセリフなんだよ」と、なんとか声を絞り出した。
「直接的な言及もあるから、映画でシミュラークルといえば『マトリックス』ですけど、オーウェルのほうがはるかに先行してましたよね」
「それはそうかもしれないけど、自分は現代哲学にうといから。なんとも」
 絶対に深入りしてはならない話題を、裏垢娘はこともなげにふってくる。俺は変に突っ張ったり知ったかぶったりせず、あっさりと帽子を脱いでお茶をにごした。

 それから、だんごのトマト煮込みとご飯も裏垢娘と分けあって食べたら、なんとなく腹がいっぱいになってしまった。デザートのバタータルトはパスして、コーヒーをおかわりすると、裏垢娘は「ちょっとはやいけど、そろそろ行きましょうか」なんて、俺の願望を先取りしたような言葉を口にする。
 もちろん、俺は即座に同意して席を立つ。

 中途半端なタイミングのためか、駅へ向かうシャトルバスは俺と裏垢娘しか乗らなかった。ふたりならんで座ると、思いのほかむっちりした裏垢娘の腰回りや太ももがあたり、ここちよい感触をさらに楽しみたくなってくる。貸切状態の気安さに甘えて、俺の方から話しかけてもよいかと思ったところ、裏垢娘がぼそぼそとつぶやき始めた。
「ごめんね、なんだか、疲れちゃって……」
「あ、そういうことだったんだ。じゃ、今日は早く帰る?」
 俺はなにを言い始めてるんだと、自分で自分を怒鳴りつけたくなったが、口から出た言葉はもどらない。
「うん、だって最初から今日は会うだけって話だったしね。いちおう、国道沿いにホテル街もあるんだけど、タクシー使うのもね」
「そりゃそうだよね」
 なんとか裏垢娘に話を合わせているが、自分でもはっきりわかるほど、声に力が入らない。
「うん、いろんな人がいるから、最初からってのは、なかなかないよ」
 力なくうなずきながら『最初はこんなもんだし、ここから間合いを詰めて』と、自分に言い聞かせて気持ちを切り替える。
「もしかして、期待してた?」
 ここでそういう気遣いはむしろしんどいんだけどと思いつつ、それでも「いや、いちおう会うだけって、自分もそう思ってたよ」
「よかった。おじさんいい人だし、話も面白いから、ちょっといいかなって思ったんだけど、メンタルやられたみたいな感じがしてきたから。ほんと、ごめんね」
 あーあ、こりゃいい人どまりか。
 なんてボヤキを飲み込んで、裏垢娘のメンタルを気づかう。
 それに、ビュッフェで食事するまでは、大好きなミッドセンチュリーモダンの家具を、あれほど楽しそうに解説しながらみていたのだから、なにがそこまで裏垢娘をしんどくしてしまったのかは、かなり興味がわいていた。
 まさか、さっきの残念なチキンにやられたわけでもないだろう。
「いいんだよ。こういうときは無理しないでね。それにしても、なにがメンタルにきたのか、よければきいてもいいかな?」
 裏垢娘は鼻をひくつかせ、口元を微妙にゆがませながら、それでもなぜかなんとなく嬉しそうに話しはじめる。
「ありがとう。よかった。おじさんだから、むしろきいてほしかったくらい」
 そう言われると悪い気はしないが、今度は裏垢娘のメンタルにダメージ与えたなにかへの怒りが湧いてくる。とにかくその原因を聞かせてもらいたくなってきたし、裏垢娘に続けてとうながす。
「そもそも、ダイバーシティとかインクルージョンって言葉が大嫌いで、最初からちょっとげんなりしてたのね。まぁ、いまどきの家具って『ライフスタイル込み』で売るから、覚悟はしてたんだけど、でてくるのモノカップルばっかり。おまけにヘテロもゲイもレズビアンも。そりゃ、ポリを出せとは言わないけど、シングルすらいないことになってて、カップルやファミリーばかりあそこまで店中にあふれてると、メンタル折れちゃった」
「あ、それは俺もわかる。なんていうか、きれいごとの自覚ないし、お題目にしても安易に使いすぎだし」
 俺の雑な合いの手に、裏垢娘が「でしょ? でしょ!」と言いながら俺に身を寄せて、むっちりした身体の感触がはっきりと伝わる。さっきまでの苛立ちや面白くなさを、熱い鉄板にのせられた牛脂のように溶かしていく。裏垢娘は、わざわざ横を向いて俺の下卑た笑顔に微笑みを返し、さらに話を続けた。
「だいたい、インクルージョンなんて胡散臭いし、吐き気がするんだよね。だってさ、あれは立場の強い者が誰かを丸め込む口実でしかないのに、排除されたくなければ弱い者は受け入れるか、そのふりだけでもしなきゃならないじゃない。でも、そんなインクルージョンなんか受け入れたら、自尊心を傷つけられちゃう。かと言って、排除されたら生きられない。だって、私なんか『ほしいものリスト』で生かされてる乞食だもの」
「わかるよ。ダイバーシティもそうだよね。多数派が理解できない少数派は、存在さえ認められない。だから、多数派が理解できそうなところだけ表に出すか、そういうふりをしなけりゃならなくなる」
 俺がそんなキザったらしいセリフを吐いたら、裏垢娘は「ありがとう」と言って、俺の肩に頭をのせた。

 裏垢娘と俺は、途中まで同じ電車だった。

 車内でも、裏垢娘は「多数派が求めるお行儀のいい少数派を演じて生きるの、ベジタリアンフードみたいな気がするのよ。おじさんが『肉のにおいがするし、肉の味がする。でも、肉じゃない』って言ったとき、なんだかそんな風に考えちゃったのね」と、そんな話をし続けていた。

 乗り換え駅の別れ際、裏垢娘は「おじさん、私のヌード撮るってのはあり?」なんて、思いがけない話をしはじめる。俺は「もちろん、いつでも大歓迎だよ」と返したが、あとから理由が気になった。
 ちょっと迷ったが、裏垢娘へ今日のお礼メッセージを送るとき、ついでにヌードを撮りたくなった理由も訊ねてみる。裏垢娘からはすぐに返事があり、そこには『写真って、現実の存在を含意してるじゃない? だから、私のそういう写真を撮って欲しくなったの』なんて、わかったようなわからないような文字列がならんでいた。
 まぁいいかと独り言ちながら、メッセージの続きを表示する。

『ヌードはモデル代をくださいね。押し売りだよ』

 ハメ撮り、できないかな。
 そんな考えをもてあそびながら、俺は家路につく。

 了

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